よんじゅうに
この人にも知らない顔があるのだろうなと、ネリキリーは庭の手入れをするファンネルの横顔を見つめた。
いや、彼はもともと謎だらけだ、とネリキリーは思う。
薬茶師としての顔、冒険者としての顔、オーランジェトの血とカロリングの血を引いたどこか飄々とした雰囲気を持つ人。
「少し土が緩んできたね。春の訪れを感じるよ」
すでに季節は晩冬、もしくは初春と呼ばれる頃だ。
帰寮して、イナリーを手元に置けることになったと、彼に告げてかなり立つ。
すでに二月も終わろうとしていた。
オーランジェットから来た五人の話をすると、冒険者に関しては「彼らが来たのか」と納得してから、魔法生物局の二人については、知らない人だと言っていた。
「大変だったね」
ファンネルにそう労われた。
ロマたちについて彼に尋ねてみると、所属していた支部が違うから、名前だけは知っているとの答えだ。
「私は植物系、彼らは動物系だから」
その答えは、冒険者としての主な担当だけでなく、性格的にも当てはまるのではないかと、ネリキリーは思ったものである。
ファンネルの庭は少しづつ色づいていく。ファンネルは庭を大切に世話していた。
中でも、アンゼリカ嬢がもたらした薔薇には気を使っていた。
「新種の薔薇を分けてもらえるなんて、僥倖だよ」
ファンネルはとてもうれしそうに言った。
ライサンダー夫人の名を冠した薔薇、ラウィニアは夫人自らが植えたそうだ。ネリキリーが故郷に帰っている間に、アンゼリカ嬢と共に届けてくれたのだ。
ネリキリーは二人に会えなかったことが少し残念だった。
「しかし、僥倖と言うと、ネリキリー君の二尾狐の幼体もそうだよね。魔法を使う魔物を飼うなんてなかなかないよ。幻獣が人と生活する話は割合にあるけれど」
ファンネルも羨ましがっていたが、ルベンス講師も興味深々だった。
「ネリキリーの村を訪問しようかな」
とまで言い出す始末だ。
「ずるいぞ。ピット。私だって庭のことがなければ行きたいのに」
ファンネルがうらやましそうに言った。自然を相手にしていると、遠くへ旅に行くのはなかなか難しい。
「だが、俺が行くかはさておき、二尾狐のことはあまり人に吹聴しないほうがいいな。みなが見たがってグラース村に人が大勢押し掛けたら困るだろう」
ルベンス講師の言葉にはうなずくものがある。もとより吹聴などするつもりはない。村でもよそへ広めないようにしていると手紙に書いてあった。
加えて、魔法生物局のフーシュが、ロマの協力を得て、アーデイス山脈からたまに降りてくる二尾狐を捕獲して、馴れさせようと試みているとあった。
成功すれば、人里にいる二尾狐が、さほど珍しくなくなるはずだ。
それにしても、ロマとフーシュはオーランジェットに、いつ帰るのだろう?
依頼の選択権がある自由業的な冒険者ならいざ知らず、フーシュは歴としたお役人である。
他人事ながら心配になる。
ともかく、イナリーについては、ファンネルには事前に相談していたのと、ルベンス講師、オルデン師には秘密を作りたくなくて報告をしてある。
学生で知っているのは、イリギスとケルンだけだ。
カロリングの上つ方には、オーランジェットの魔物の研究の一環として飼われていることになっているとイリギスから言われた。
実際、成長記録を報告しているから、間違いではない。
でも、シャルロットとアンゼリカにイナリーを見せてあげたら喜ぶだろうな。
二人の笑顔が目に浮かぶ。
最初に会った時にはあれほど反発していたのに、今ではフーシュの試みが成功することをネリキリーは願っていた。
「魔法を操る魔物と実際に対峙してみると、オルデン師が教えてくださった、魔法耐性を実感しました」
ネリキリーはオルデン師から借りた本を返却した。
「二尾狐は、火。霙蛾、首雀は冷気を操る魔物だな。一つの属性しか操れない魔物は、他の一つ属性に魔法耐性が低いことがある。もっとも、魔力の強さが、属性弱点を凌駕する場合もある。炎は水で消えるが、火力が上回れば、沸騰して、蒸発するのと同じことだ」
オルデン師は、ネリキリーに復習させるように語った。
「ただ、霙蛾は、冷気を操りますが、水に弱かった。このことが少しふにおちないのです」
ウィローが行っていた雪を溶かしての攻撃を思い返して、ネリキリーは師に疑問を投げ掛けた。
「いつも言っているが、魔法が物理を越えることは、そうあるものではない。雨の日に蝶や蛾、鳥などが飛ぶのを見たことはないだろう。さらに、君の疑問は、名前の印象の弊害だな」
「名前の」
「霙、と名づけられているが、霙蛾は、羽ばたきで風を起こす。つまり、風の属性なのだよ」
言われてみれば、イリギスは霙蛾には風の魔法を使わなかった。
生き物の身体には、他者からの魔力の干渉を受け付けないための「魔法耐性」がある。
生命魔法以外では、体内の器官に直接作用する魔法はない。
だから、炎をぶつけたり、風を起こしたり、武器に魔法を乗せたりして、直接的な手段を使って敵を倒すのだ。
今回の実践でオルデン師のいう「人の魔力は物理学を凌駕することはない」
そのことを痛感した。
オーランジェトの人たちも首雀をすべて武技で倒していた。
生命魔法だとて、血を固まりやすくするとか、細胞の再生速度を少し早めることができるくらいだという。それでも十分希少で貴重な能力だ。
現在、救命術士と言われるほど、生命魔法を使えるものはオーランジェトに数名いるだけらしい。
「名前は人が付けるものだから、青い翅の印象と冷気を操るということで、先人が霙蛾と名づけたのだ。このような例は幾つかあるので、魔物と対峙する時は気をつけなさい。人に比較的寛容な幻獣だとて、怒りを買えば人を攻撃し、見捨てる」
「幻獣を怒らせ、滅びた町、ハメールのことですか」
そうだ。とオルデン師は短く肯定した。
一つの望みに一つの願い。
それは、オーランジェットの国が生まれて間もない頃の話だ。
世界は今より魔力が満ちていた。
カロリングの北西にある国ガリオベレンにある町、ハメールに大量の火ネズミがはびこった。
困った住人は近くの森に棲むという、金の毛並みを持つ大きな猫に似た幻獣、リュークスに願った。
もしも、火ネズミを退治してくれるなら、町を守ってくれるなら、日に一度、一掴みの金を捧げましょう。
金を好むと言われるリュークスは、町の人の願いを聞いて、火ネズミを退治した。
初めのうちは、約束は守られた。
しかし、あるとき、日照りで町の収入が減った。
町の人はリュークスに捧げるのは、二日に一度とお願いした。
リュークスはそれを許した。
さらに時が経ち、ある年、長雨で穀物がやられてしまった
町の人はリュークスに、金は週に一度とお願いした。
リュークスはこれも受け入れた。
そしてまた時が経ち、流行り病に町の人が倒れた。
町の人はリュークスに金は一月に一度でよいかと尋ねた。
リュークスは、金は一月に一度で良いと、これも許した。
しかし、あるとき、町の人は考えた。
一月に一度でいいのなら、一年に一度でも良いのではないかと。
いや、いっそのこと、金を捧げるのは、止めにしようと。
町の人が頼みに行くと、リュークスは怒りだして、ハメールの町の人を鋭い爪で切りつけた。
ほうほうの呈で逃げ出した町の者は、リュークスは幻獣ではなく、本当は魔物だと言い出した。
お菓子ではなく、金を好むのが、その証しだと。
魔物は退治するべきと、人々は集って森に押し掛けた。
中にはそれを止める者もいたが、その声は届かない。
リュークスを倒しに森に向かった町の者は、空っぽになった幻獣の棲みかを見つける。
今までの黄金があるはずと、人々は我先にと中に入る。
しかし、溜め込んであると思われた黄金は、ひとかけらもなかった。
そこにあったのは、着古した人間の服。
この服を見たことがあると、老人が言う。
小さな時に、飢饉で食べ物が買えなかったとき、荷車で食べ物を運んできてくれた人の服に似ていると。
子供を持つ親が言う。
娘が病に倒れた時に、薬をくれた人が着ていた服に似ていると。
魔力の高い幻獣は、人の姿になるという。
ハメールの人達は後悔をしたが、すでに遅い。
やがて、町には火ネズミが再びはびこり、病が流行り、畑も荒れて、ハメールの町には誰もいなくなった。
「一つの願い、一つの望み。約束を破れば、災難が訪れると言う教訓ですよね」
「毛並みが金だからとて、金を好むと人が誤解していたという話でもある」
先程の霙蛾と同じく、名前も誤解の元か。
リュークスは、八月と同じく、古語の光輝くという言葉を語源にしている。
「黄金を、金を一番好むのは人間という皮肉でもあり、親切な心に付けいるようなことをすれば、温厚なものもやがては怒り出すという諫めでもある。そして、温厚なものの怒りほど怖いものはないという忠告でもあるな」
オルデン師はリュークスとハメールの町の話をそう解説した。
リュークスの顔も三度まで、それは今でも良く使われる格言だ。