よんじゅう
翌朝、ネリキリーとイリギス達はオーランジェトに帰るという五人を見送る。
五人は、村長であるオグーラの家に泊まった。村で一番大きい家だから部屋も充分ある。
オグーラは魔物の遺骸を運ぶようにと橇を一行に贈った。
橇には、遺骸と生きている首雀が乗せられている。
首雀は空いた樽を利用して作られた即席の鳥籠の中だ。
村の人たちも何人か来ている。
別れの挨拶をしていると、フーシュが
「ウィロー君、イナリーを連れて、オーランジェットの学校へ進む気はないかね。その時には私の家を下宿先として提供する」
と誘いをかけていた。彼は二尾狐を手元に置くことをあきらめていないようだ。
「もし、そんな気になったら考えます」
礼儀正しく、ウィローが答えていた。これはここに来る前に母が、きちんとしなさいと厳重に注意した結果だ。
「こんな辺境にまでご足労いただき、感謝しております」
父がカーネビに挨拶をしている。
「魔物を狩り、監視し、場合によっては利用する。それは、フロランタンがオーランジェットに課した聖なる義務ですから」
すました顔でカーネビが答えていた。横ではフィフが意味深な笑みを浮かべていた。
和やかに別れの挨拶をして、彼らの姿が遠くに消える。
ネリキリー達も二時間もしたら王都へと出発する予定だ。
ウィローやマルティナ、村の子供たちがイナリーと鬼ごっごを始めた。
のんびりとした空気を切り裂くように、森の方から首雀の群れが飛来した。
にわやに場が騒然となる。
村の中まで魔物が。
ネリキリーはとっさに雪玉を作ろうとしたが|首雀は高く飛んで届きそうもない。
「誰か弓を」
ニチュードが大声で家の中に呼びかけた。女と子供、老人たちが村長の家に駆けこんだ。
魔物は人間たちに近づいては、すぐにまた飛び去る。
個体自体は昨日狩ったものより小さいが、数が多い。
子供の一人が転んだ。マルティナだった。首雀はマルティナに襲いかかろうとした。
そこへ彼女をかばう白い影。小さな二尾狐、イナリー。
鋭い爪に引き裂かれたのか赤い筋が毛皮に走った。
ネリキリーの背筋にざわりとしたものがうごめいた。
自然に腰の下げ鞘に手が伸びた。
血に興奮したのか、首雀は飛び去らず、イナリーに付きまとっている。
マルティナをかばっているため、イナリーは逃げない。
「マルティナと中へ、ウィロー、早く」
ネリキリーは弟に向かって叫ぶ。
イナリーが血で染まるのを見て、固まっていたウィローがはじかれるように動き、マルティナを助け起こす。
叫びながらも、ネリキリーは鎌を引き出し、魔導式を展開した。
EGO OPT FRG//Ut Sup /TE1-m //De1en/Est//ⅠNⅠM
手に持つ鎌が冷たく凍える。
イナリーに再び爪を向ける敵。
ネリキリーは魔力を帯びた鎌を容赦なく振り下ろした。
薄緑の刃が輝いて敵の肉を切り裂く。
首雀は瞬時に氷りつくと、イナリーの足元に墜落した。
ネリキリーは血に汚れたイナリーを片手で抱き上げた。
毛皮が防いだのだろう、傷は思ったほど深くないが、体中が傷ついている。
右手には鎌を持ったまま、空を飛ぶ首雀を睨みつける。
イリギスが魔法、オードブルが投げ矢と雪玉を利用して、首雀を二羽落としているが、まだかなりの数が残っていた。クネルも馬の鞭をふるって応戦していた。
シルコーやニチュードも矢を次々と放っているが、動きをけん制するのがやっとだ。
ここに天馬がいれば、片端からこの鎌で落としてやるのに。
ネリキリーは、空から視線を外し、もう一度イナリーの傷を調べる。
EGO OPT Ae MOV//Vent
せめてものけん制に、ネリキリーは、魔導式で風を起こした。
魔法の風が吹く。
その風の向こうから、ものすごい速さで四足の獣が跳躍をしてきた。
フィフが乗ったトナイオンだ。
まるで空中に浮かぶように、滞空時間が長い。
手綱を持っていない右手には大剣が握られていた。
大剣が一閃して、首雀を打ち落とす。
トナイオンが地に降りて、また、跳躍。
首雀がさらに高く飛んで逃げようとする。
その背後からジュレが槍で打ち払った。空中にいるのをものともしない、槍さばきだ。
いや、見とれている場合ではない。ネリキリーは打ち払われた首雀にとどめを刺しにいく。
「待て、生け捕りにする」
遅れて戻ってきたカーネビが細く編んだ紐で首雀を縛りあげた。
フーシュが少し離れたところで首雀を狩っていた。得物は少し湾曲した片手剣だ。
フィフやジュレのように一刀両断と言うわけにはいかないようだが、敵と互角に闘っている。
頼りなく見えても、彼はオーランジェットの人なのだ。
しかし、フーシュのところに二羽目の首雀が来襲した。
一転、押され始めたフーシュを救ったのはロマだった。
ロマは優雅にトナイオンを跳躍させると、小さな武器を閃かせて、一撃で魔物を仕留めた。
あれは短剣?いや、扇だ。
金属の扇で首雀をあしらい、仕留めていく。
ロマは腰に刀をさしているが、それは使わないでいた。
「借ります」
イリギスが言い捨てて、カーネビのトナイオンに騎乗した。
脇差しを片手に敵を薙いでいく。
正確無比な太刀さばき。銀の刃が美しい軌跡を描く。
その度に首雀の片羽が切り落とされ、飛行不能になった魔物が墜落した。
「君も乗るなら、貸すよ。乗るなら、その子を預かろう」
近寄ってきたロマがそう声をかけてきた。
ネリキリーは手の中のイナリーを見る。
小さな獣はネリキリーにしがみついていた。
「いえ、彼らだけで大丈夫なようですから」
空を見上げて、瞬時にネリキリーは判断した。
それに、馴れないトナイオンに乗って、足手まといになる可能性もある。
「そうか」
ロマがトナイオンを降りて、イナリーに何か与える。魔糖菓子だろう。イナリーの様子が少し回復した。
礼を口してから、動かないロマに、ネリキリーは短く問う。
「行かないのですか?」
「君の言う通り、あの子達だけで大丈夫だろう?」
ネリキリーは、再び空中を見上げた。
大剣が魔物を凪ぎ払い、槍が突き落とす。
片手剣が爪を防ぎ、脇差しが翼を切り裂く。
投擲された投げ矢が魔物の逃走を阻み、馬鞭が地に落ちた魔物を気絶させる。
そこには、魔物を狩るのは責務と言う、オーランジェットの民の姿があった。
魔物の脅威が去り、村人達がそろそろとオグーラの家から出てきた。
興奮気味に話すもの、恐ろしげに生け捕りにした魔物や遺骸を遠巻きに眺めるもの。
態度は様々だ。
魔物の数は17を数えた。
ネリキリーのところに、ウィローが駆け寄ってくる。
イナリーの傷はふさがっていた。
魔物の生命力とロマからもらった魔糖のおかげだろう。
それでも弱っているには違いなく、ネリキリーはかがんで、そっとウィローにイナリーを手渡した。
「優しくな」
そして、まだ持ったままの鎌をしまう。
イリギスとは違って、これで狩れた首雀は一羽だけ。
しかし、イナリーを救った武器だ。
ロマが、ネリキリーが凍りつかせた魔物を検分していた。
「首雀は冷気には耐性が高いんだが。これは見事に凍ってるな。耐性を越えるほど力が強かったってことか」
「ネル、前に冷気を操るのは苦手と言っていなかったか?」
ロマの言葉を耳にしてイリギスがネリキリーに尋ねてきた。
「うん、調整が上手くできなくて、ときどき凍らせ過ぎちゃうんだ」
首雀には熱をぶつけたほうが、効果的だったと、冷静になった今では思う。
ただ、先日の二尾狐を一人で倒した時の感覚が甦って、そのまま冷気の魔法を使ってしまった。ここは反省するべき点だろう。
「これは深刻な事態ですぞ」
魔物を回収し終わったカーネビは頭を振り立てて主張した。
二尾狐に加えて、霙蛾、首雀が、グラース村に続けて来襲したのだ。
二尾狐は、秋ならば、たまに現れると年寄りは話す。
イナリーの食生活を見るかぎり、秋に採れる白ショーロ目当てではないかと思われる。
首雀も、現れた記録はある。アーデイス山脈で霙蛾が大量発生し、一部がカロリングにやってきて、それを首雀が追ってきたときなどだ。
村の近くまで来たのは、百年前だが、森の奥で姿を見るのは、その後も何度か記録にあった。
「霙蛾は、7、8年に一度、大量発生するので。霙蛾も首雀も、周期的にはあり得ることですが」
魔物は秋になると活発化する。しかし、今は冬。
その法則性に当てはまらない。
「アーデイス山脈で何か異変があるのでは?」
ジュレが指摘した。フィフもその意見に賛成のようだった。
「たしか、百七十年ほど昔にも、アーデイス山脈からの魔物の出現率が高まった記録があったかと」
フーシュがおもむろに発言する。
「それは、アーデイス山脈にワンドムが現れた時ではないですか?」
イリギスが思い当たったというように言ったが、その顔は憂うつそうだ。
「ワンドムが!?」
カーネビが嫌そうに声をあげる。
無理もない。ワンドムは、本によるとナメクジのような体なのに、昆虫のような多足を持っている。
小さなものは、足でつぶせるくらいだが、大きくなると牛ほどにもなるとあった。
「国に帰ったら、アーデイス山脈でワンドム狩りだな」
嫌そうなカーネビとは裏腹に、フィフの声は弾んでいた。
首雀を狩っているときにも楽しげだったとネリキリーは思う。
「ワンドムとは限りませんが、調査は必要でしょう」
ジュレは遠くにそびえ立つアーデイス山脈を仰ぎ見た。
「そうと決まれば、早くオーランジェットに戻らなければなりませんな」
カーネビが皆を急き立てる。
「私はカロリングにしばらく残るよ。グラース村の人も立て続けに魔物が出て不安だろうから。残って近隣を見回る」
ロマが皆に宣言した。
「ロマ殿」
オグーラが感謝の念を込めて名前を呼んだ。
「あ、俺……私も残ります」
フーシュが手を挙げる。
「魔法生物局としても、見過ごせませんから」
「私も残りたいところですが、間もなく高等学園が始まります。学生の身がくちおしい」
イリギスはオーランジェットの人間の責務が担えないのが悔しそうだった。
「そう言うな。子供である時間は貴重だぞ。この年になると戻り得ない青春の日々が懐かしく慕わしい」
ロマが少し気取った調子でイリギスを諭した。
直接言われなかったネリキリーにも、かかる言葉だ。
そのまま彼らはオグーラ達と今後について、簡単な打ち合わせを始めた。
「では、グラース村のことは、ロマ卿とフーシュに任せます。……オーランジェットで何かあれば知らせるので、そちらも何か異変があればすぐに報告を」
カーネビが、ではと挨拶をすると、今度こそ三人はオーランジェットへ帰って行った。
雪の上で、大人達の話を身動ぎもせずに、黙って聞いていたネリキリーは、体に疲労感がおきていた。
特に右肩から腕の先が重い。
これから王都まで行くのかと思うと、気が重くなる。
イリギスの馬車は駅馬車に比べて、数段快適だが、長距離の移動はやはり負担だ。
「にいさん、ネル兄さん」
ウィローがネリキリーの名前を呼んだ。
その腕には小さな二尾狐はいない。
「イナリーは?」
「母さんが家に連れてった」
「そうか」
「イナリーが死んじゃうかと思った」
ネリキリーは弟の頭を撫でた。
「僕もだ。死ななくて良かったな」
イナリーだけでなく、この場にいたもの達すべてが生きていて良かったと思った。
そう考えると体の疲れも良いことのように思われた。
祖父のオーグラに馬を借りて、ウィローと共に家に戻る。
王都への出発は、明日の早朝に伸ばされた。
高等学院が始まる一日前の出発だが、グラッサージュ家の馬車なら、夕方には着く。
祖父の家まで、行きはイリギスの馬車で来たが、彼は祖父や父を含む村の顔役、そしてロマと何か話があるという。
常にない魔物の襲来とアーデイス山脈の山狩りについて、イリギスから、オーランジェットの大使、そしてカロリングの上層部へ話を通すと言うことだった。
二尾狐については、ヴィンセント家の個人の依頼という形で処理されたが、昨日今日と20羽以上もの首雀の来襲は、近隣の村にも警戒を喚起したほうが良いという判断だ。
そのような政治的行政的な話は、平民で学生のネリキリーには遠い話だ。
厩舎から馬を引き出して、家に戻ろうとするとき、オードブルに呼び止められた。
「ネリキリー様、僭越ですが、こちらをどうぞ」
彼は小さな袋を渡してくれた。
中には以前にイリギスがくれた高級菓子店リアクショーの飴が入っていた。
「少し顔色がお悪い。ネリキリー様は戦闘時に限界まで魔力を使われてしまうようですね。これは魔糖菓子ほどではありませんが、魔力の足しにはなりますから」
「でも、高価なものなんでしょう」
ネリキリーが遠慮すると、オードブルが柔らかに言った。
「カロリングでは。ですが、オーランジェットでは関税がないぶん、庶民でも、病気の時に備えて買えるほどの値段ですよ。それと、あの勇敢な二尾狐にもあげてください。早く元気になるように、私からのお見舞いです」
イナリーが元気なると聞いて、ウィローが目を輝かせた。
「ありがとう。オードブルさん!」
オードブルはウィローのお礼の言葉に、目を細める。
「どういたしまして。さあ、どうぞ」
「感謝します」
遠慮ない弟の態度に恐縮しながら、ネリキリーは袋を受け取った。
家に帰る前に、ひとつだけネリキリーは飴を口にした。
体に感じていた疲労感が少し軽くなる。
ウィローにもあげようとしたが、弟はちょっと迷ったあとに首を振った。
「僕は元気だから。イナリーにたくさんあげて」
殊勝な言葉をウィローは口にした。
家に帰ったネリキリーは、さっそくイナリーに飴をあげようと探す。
小さな二尾狐は居間の暖炉の脇、籠で作られた即席の寝台の中にいた。
やわらかな布のはぎれの中にいるイナリーは丸くなって休んでいる。
ネリキリー達が近づくと、ぴくりと身を起こす。
ネリキリーは飴をひとつ手のひらにいれて差し出した。
イナリーはすぐに口を開けたので、飴を入れてやる。
飴を噛み砕く音。
舐めるという選択はないらしい。
ネリキリーは残った飴を半分に分けて、ウィローに託した。
イナリーの傷のない頭を少しだけ撫で、ネリキリーは自分の寝室へ戻った。外套にはイナリーの血が付いていた。
おとさないと。
だが、下に戻るのは面倒だと考えていると、母が温かい飲み物を持ってきてくれた。
外套を持って立っていたネリキリーをみると、母は、よこしなさいとそれを奪い取る。
「この血は?」
「イナリーのだよ。抱き上げた時に付いた」
「あの子、マルティナを庇ったのでしょう。偉い子ね」
母はイナリーを誉めた。
「ねえ、母さん、イナリーは怪我をしちゃった。僕がもっと強ければ、怪我なんてしなかったかもしれない」
オーランジェットの冒険者達ほど強ければ。
「ネル、それは違うわ。自分が強ければすべてを救えると思うのは、傲慢というものよ」
母はネリキリーをまっすぐに見る。
「あなたは今ある強さでイナリーを救った。それがすべてよ。私たちの腕は、竜の翼ほど広くない。偉大なるフロランタンだって、すべてを救えない。私たちにできることは、できるかぎり手を伸ばして、困った人を助けるだけ。助けられた人は、また別の人を助ければいい」
母が少しだけ微笑んだ。
「それが、私たちの葉の円環、えにしを結ぶと言うことじゃないかしら」
母の言葉はネリキリーの柔らかな心に染み込んでいく。
「母さん、僕は少しはみなの役にたったかな」
「もちろんよ、私のネル」
母は手を広げて、ネリキリーを抱きしめてくれた。
小さなこどもみたいだ。
でも、たまには、母の前だけなら、こどもになるのも悪くはない。
◇◇◇
冴えた冬の夜空に月がかかっていた。
雪に覆われた大地が、月明かりで微かに光る。
井戸小屋の壁に絡まる蔦葛を一本切り取って、魔法で掌に樹液を貯める。行儀は悪いが、そのまま舐めると薄甘い味が舌に乗った。
ファンネルの庭で口にした時よりは、甘くなっている。
それでも甘味としては、かなり物足りない。
けれども、月明かりの中での行いは秘密めいて楽しかった。
さくりと雪を踏む音がした。すでに聞き慣れた獣の足音。
振り向くとロマが乗ったトナイオンがいた。
「こんばんは、いいえ、おはようですね。
こんな朝早くに何かご用ですか」
「この家に用があった訳じゃないんだ。夜明け前に村の見回りをしていた」
ロマは身軽にトナイオンから降りる。
「こんなに暗いのに?」
「トナイオンは天馬と同じで、光の魔法を身に宿している。夜目も利く」
ロマが何か呟くと、トナイオンの大きめの角が光を帯びた。
辺りがうっすらと明るくなる。
「すごいですね」
ネリキリーは心から驚いた。これなら日に夜をついでオーランジェットがここまで、あんなに早く来れるわけだ。
「そうだな。魔法生物局もなかなかやる」
「オーランジェットでは、こんな新しい生物がたくさんいるんですか?」
「自然交配で出来た生物もいるが、魔法生物局が産み出したのはトナイオンが初めてだ」
ロマは言いながらトナイオンの光を消した。
「ネル君は何を?」
「水を揚げに。少し早いですが」
働き者のウィローより、早く行うためにだ。
立ち話をしていると体が冷えてきた。
「よろしければ、何か温かいものをお出しします」
ネリキリーはロマを家に誘った。
「ありがたい」
トナイオンを雪よけのある客人用の簡易厩舎に繋ぐと、勝手口から家に入った。
ネリキリーはロマを家族用の居間に通す。
イナリーのために、暖炉に炭火をおこしてあるので暖かい。
淹れたお茶に、ロマの分にだけリンゴの蒸留酒を数滴たらす。
「君の家がいちばん森に近いな」
村のすべてを回ってきたのか、ロマは言った。
「昔は下級森林官の家だったそうです。八代前の先祖がここを買い取ったと聞いています。今はその役目は村長に委託されてますけど」
人の気配に気づいて、イナリーが身を起こした。
慎重に籠から出てくる。
「いただいた魔糖のおかげもあるのでしょうが、魔物の回復力はすごいですね」
ネリキリーはイナリー自らが、動きはじめて安堵していた。
「その分、やりあうときには厄介だけどな」
ロマは軽く肩をすくめた。そんな仕草が様になる。
イナリーはネリキリーの足下に張りつき、ロマを見据えている。
「こいつは、君が主人だと思っているんだな。ご主人様を守るために、私を警戒してる」
ネリキリーは下を向いてイナリーに手を伸ばし、大丈夫だとそっと頭に触れる。
「イナリーは弟が捕らえたのですけどね」
「こいつは生きていて、心があるからな。自分が認めた奴が主人さ」
「昨日の話し合いの時は、そんなことは言っていませんでしたよね」
「あの時はまだ、解らなかった。主人は君、弟は、主人の家族で、こいつの中では、友達かな。大切にしてることに変わりはない」
なら、問題はない。ウィローはイナリーが自分を友達だと思ってくれるほうが喜ぶと思う。
ネリキリーがそう言うと、ロマは、ああと顔に手をあてた。
「いかんな。この年になると、つい関係を上か下かで、良し悪しを決めてしまう」
「目上の方は目上でいいのじゃないですか?」
ネリキリーにとって、祖父や父母をはじめ、高等学院の師や上級生、目の前のロマも自分より上にいる人達だ。
同じ同級生や年下だって、時には仰ぎ見る心持ちになる時もある。
ネリキリーの言葉にロマは口では答えなかった。
彼の眼差しが優しげに細められただけだった。
「ごちそうさま、ありがとう」
茶杯を空にしてロマは立ち上がる。
長く過ごしたような気持ちだが、家に入ってまだ、15分と経っていない。
「朝日が昇る前に戻らなきゃな。フーシュがうるさい。今日、カロリングの王都に戻るんだろ?悪いが見送りには来れんよ」
「お気になさらないでください。でも、お話しできて良かったです」
差し出された手を握る。ロマの手は大きくて、やや固い。
自分もいるとイナリーが、小さく鳴く。
「大丈夫、何もしない」
ロマは視線を下ろして、白い二尾狐に語りかけた。
勝手口までロマを送ろうとするネリキリーの後を、まだ弱々しい足取りでついてきた。
そんなイナリーを見てロマは真面目な顔で言った。
「こいつ、そのうち化けるかもしれない」
「化ける?」
「東のアーシアンでは狐は人をたぶらかすらしいぞ?」
ネリキリーは足下のふかふかな毛皮に包まれた二尾狐を眺めた。
「すでに、たぶらかされているかも知れません」
「違いない」
ロマは低く笑った。