さんじゅうなな
行きは三日かけた行程を約一日で行くのは思った以上にきつかった。
明け方から日が暮れるまで馬車に乗り、真夜中には馬車駅で、乗ったまま仮眠をとる。
だが、そのかいあって、8時前には王都に着けた。
そのまま辻馬車に乗り換えて、イリギスの屋敷に向かった。
休みはまだ5日ある。
帰寮の多くは、あと二、三日たってからだ。
しかし、イリギスは5日前にはカロリングの王都に構えるグラサージュ家の屋敷に戻ると言っていた。
グラッサージュ家の屋敷は、カロリングでも有数の高級住宅地にあった。
都市部のため、一館ではなく、棟続き住宅だが、棟のすべてはグラッサージュ家のもので、一部はオーランジェットの大使館が借り受けているという。
道に面した階段を上がり、呼び鈴を鳴らすと、お仕着せをきた従僕が出てきた。
背が高く、様子も良いその従僕はネリキリーを見下ろした。
「当家に何かご用でしょうか」
慇懃に従僕が尋ねた。
「ごきげんよう。僕はネリキリー・ヴィンセントと言います。こちらのイリギス君とは、リゼラの同級生です。彼に相談をしたいことがありまして、不躾ですが急遽訪ねました。彼はご在宅ですか?」
ネリキリーの言葉を聞いて従僕は言った。
「リゼラのご同級生。失礼ですが、何かそれを証明できるものはございますか?」
問われて、ネリキリーはリゼラの生徒だと証明するものを持っていないことに気がつく。
寮に帰って制服でくるべきだった。
「証明するものは持っていませんが、イリギス君が在宅なら、ネリキリーが来たと伝えていただけませんか、そうすれば」
従僕の言葉で、イリギスが屋敷にいると確信したネリキリーは、相手に頼み込んだ。
「イリギス様は、オーランジェットから帰られたばかりで、お疲れのうえ、ご訪問などの予定がつまっております。事前に手紙でご連絡いただきましたら、イリギス様からご返事があると存じます」
丁寧な断りの台詞を従僕は口にした。
訪問の作法に反しているとも、教えているようだ。
「お願いです。魔物に関することなので、できるだけ早く相談したくて」
魔物と聞いた従僕は、眉をひそめた。
「魔物、そう言えばグラサージュ家の方の気を引けると」
聞こえるか聞こえないかの小さな呟き。
だが、従僕はすぐに微笑を浮かべて言った。
「魔物のことでしたら、わがグラサージュ家ではなく、一刻も早くカロリングの騎士団にご相談なされた方がよろしいかと」
では、失礼をと、従僕は扉を閉めようする。
「待って、待ってください。リゼラの生徒の証明ではないですが、イリギスの友人だという証明するものはあります」
ネリキリーはイリギスからもらった短剣を、かばんの底に入れていたのを思い出した。
ネリキリーの様子に何か思うことがあったのか、従僕は扉を閉める手を止めた。
かばんを開けて、ネリキリーは短剣を急いで出した。
短剣に施されたネリキリーの頭文字。そして、それに寄り添うようにあしらわれた花は、グラッサージュ家を表す花。
「大変、失礼をしました。ヴィンセント様」
先程までの従僕の様子は一変し、その頭が低く下がった。
屋敷に入ると正面玄関の脇にある小部屋に通された。
小部屋といっても寮のネリキリー達の部屋の2倍以上はあるだろう。
「ただいま、ご訪問をお伝えいたします。しばらくここでお待ちくださいませ」
従僕が部屋の外にでると、ネリキリーは息をついた。
部屋は重厚なテーブルと緑の座面がついた椅子が置かれている。
陶器の花瓶は孔雀が描かれて、美しい花が飾られていた。
ネリキリーは少し躊躇してから椅子に腰かけた。
立っていた時には気に留めなかった足の張りに気がつき、少しだけ足を振ってみる。
いきなり扉が開かれ、ネリキリーは慌てて立ち上がった。
扉の向こうにはイリギス達と行った狩りに同行していた女従者のスフレがいた。
ふくらみがない紺色の職業用婦人服を着た彼女は柔和な笑みを浮かべていた。
「ヴィンセント様、ご主人様がお会いするそうです」
スフレはネリキリーをさらに家の奥へと案内する。
「応接室ではなく、書斎にご案内します」
ネリキリーは階段を上がるように即された。
「こちらです」
彼女は軽く扉を叩くと、ネリキリーを通すために扉を開けた。人に扉をあけてもらうことなどなかったネリキリーはどぎまぎとしてスフレを見た。
相手の視線が中へと示唆し、やっとネリキリーは歩を進めた。
「ごきげんよう。ネリキリー。わが家へようこそ」
書斎机に座っていたイリギスが立ち上がて出迎えてくれる。そばにはオードブルが控えていた。
イリギスは机の脇にある椅子に座るようにすすめてくれたので、ありがたくネリキリーは座った。
よく見るとイリギスは略式の礼装をしていた。
「ごめん、出かけるところだった?」
「いや、約束まではまだ時間がある」
イリギスは鷹揚に首を振った。
「で、ネリキリーが突然に私を訪ねてきた理由を話してくれないか?見ればまだ旅装も解いていないじゃないか」
「実は、故郷の村に魔物、二尾狐が現れてね」
「二尾狐が、炎をつかう、なかなか面倒な魔物だけれど、ほとんどカロリングには出現しないはずだが」
「うちの村はオーランジェットとの北の国境、アーデイス山脈に近いから、何年かに一度くらい、出るらしい。僕が遭遇したのは初めてだけど」
「二尾狐と遭遇したのか」
ゆったりと腰かけていたイリギスが身を乗り出す。
「弟と二人でいるときに、一匹だけね。ちょっと火傷したけど、何とか狩れたよ」
「無事で良かった。では、相談というのは二尾狐の討伐についてかな」
「いや、二尾狐は数匹単位でしか行動しないから、成体はすべて狩れたんだ」
ただ、とネリキリーはイリギスの顔を見つめた。
「そのあと、二尾狐の赤ちゃんが見つかって、今はうちで保護している」
イリギスは一瞬、あっけにとられた顔をする。そんなに驚くことだろうか。オーランジェットでは、魔物を家畜化しているのだし。
「冬ショーロを採りにいったときに、同じようにきのこを食べに来ていた二尾狐を見つけたんだ。これくらいの小さな子で、狩るのは忍びないというか。捕まえても暴れないし、火の魔法も使わない。魔糖菓子をあげたらほんとに懐いっちゃって」
ネリキリーは事の顛末をイリギスに説明する。
「以前に魔物は魔糖の精製後の残滓で懐かせると言っていたよね。だから、どうにかそれを手に入れたくて。毎回、魔糖菓子をあげるわけにもいかないから」
わずかに難しい顔をしているイリギスに畳みかける。
「家で飼うのが、難しいようなら、オーランジェトの魔物の研究をしているところに、預けられないだろうか?」
「ネルは二尾狐の子を処分するのは嫌なんだな」
「仲間を狩っておいて、言うのもなんだけど、生きていてほしいと思っている」
イリギスは顎に手を当ててしばらく考え込んだ。
「魔糖の残滓を手配するのはさほど難しくはないと思う。わが家の領でも家畜用の魔物を飼っているから。ただ、カロリングで魔物を飼うという例は今までなかったことだから。オーランジェットで魔物の調査研究をしている機関に報告と監査を受けることになるかもしれない」
ネリキリーが思っているより、魔物を飼うということは大事だった。
「すぐに本国にある機関へ連絡をする。おそらく一両日の間には、なんらかの回答が来るはずだ」
「そんなに早く?」
「風速鳩を使えば、半日で届く。加えて魔物に関する判断は優先される」
イリギスはすぐに手紙を書きだした。
「ネルの村の名前は?」
「グラース村」
「グラース村のヴィンセント家だな。戻ってきたところ悪いが、現場の検証をするために村へ帰ってもらうことになると思う。その際は私も同行するよ」
「イリギスまで?そこまでしてもらわなくても」
どんどんと話が大きくなることにネリキリーは戸惑っていた。家族の手に抱かれたあの小さな二尾狐の姿を知っているからなおさらだ。
「そのほうが話が通りやすい。それに私も人に慣れた二尾狐の子を見てみたいからな」
片目をつぶってイリギスはネリキリーの問いに答えた。
そうまで言われたらネリキリーは何も言えることはなかった。
イリギスが手紙を書き終え、封蝋をする。
「オードブル、仔細は聞いていたな。速やかに手紙を送りなさい」
「かしこまりました」
呼ばれたオードブルが恭しく手紙を受け取り書斎をでていく。
「これからオーランジェットの大使と昼餐会なのだが、ネリキリー、君もくるか?」
イリギスの誘いにネリキリーは、とんでもないと首を振った。
「夕べはあまり寝ていないから、粗相をしそうだ」
「残念だが、仕方ない。疲れを取るなら、休んでいくか?部屋を用意しよう」
ネリキリーはさらに大きく首を振った。
「大丈夫。寮に帰る。冬ショーロを寮母さんに渡さなきゃならないし。そうだ、イリギスにもこれ」
ネリキリーは鞄から冬ショーロを取り出した。
「冬ショーロか、料理人が喜ぶよ」
イリギスは微笑みながら、受け取ってくれた。
使用人が持って来てくれたお茶を飲むのもそこそこに、ネリキリーはグラサージュ家の屋敷を辞去した。
高速の馬車で王都まで走破した疲労が、とりあえずの手は打ったとの安心からか体にきていた。
それでも、グラッサージュ家の馬車で送るとのイリギスの申し出を断って、辻馬車で寮まで帰る。
寮母さんに挨拶をして、いつものごとくお土産を渡した。
「いつもありがとう」
寮母さんが温かい言葉を返してくれた。何かしらと袋の中をのぞき込む寮母さんに「冬ショーロです」
とネリキリーは教えた。
ぱっと喜びの色に染まる寮母さんの顔を見て、採ってきて良かったとネリキリーは思った。
寮母さんにお礼にと翠玉茶をごちそうになった。
砂糖が入っていないのに甘い味が口一杯に広がる。
その翠玉茶のように、甘くて軽やかな声で寮母さんはネリキリーがいなかった間に起きた出来事を話してくれる。
「三日前に、この時期には珍しく雪が降ったのよ」
「王都で雪が降るのはもう少し先ですよね」
「ええ、毎年、積もることもほとんどないから、急な雪でみんなおっかなびっくり歩いていたわ」
話している寮母さんの顔を見て、ネリキリーは自分の緊張がほどけていくのを感じた。
あの可愛らしい二尾狐の寝姿を寮母さんにも見せてあげたいなと、ふとネリキリーは思った。きっと優しい顔で笑ってくれるだろう。
結局、翠玉茶とリモーネのお茶も合わせて三杯もいただいてから、やっとネリキリーは立ち上がった。
疲れた体が温かい部屋から出るのを拒んでいたのだ。
寮は閑散としていた。
自室に戻ると寝台にそのまま横になって仮眠を取った。
目が覚めたら、午後の三時近くになっていた。
部屋に戻ったのは、十二時少し前だったから、三時間は寝たことになる。
まだ残る眠気を取ろうと、ネリキリーは大きく伸びをする。
外套を脱いだだけで寝台に転がりこんだため、服にはしわが寄っていた。
ネリキリーは風呂に入って一昼夜の汚れを落とした。
風呂から上がると、ケルンがいないので、しわの寄っていた服を風呂場にかけておいた。
火熨斗をかけてしわを伸ばすのは、少し億劫だった。
ファンネルのところに顔を出しておこうと服を着る。
「あら、忙しいのね」
との寮母さんの声に手を振って、ネリキリーは再び寮を出た。
雪が降ったと聞いたせいだろうか。
メルバ邸の庭の草木が寒そうに縮こまっている気がした。
ネリキリーは勝手口に回り、呼び鈴を鳴らす。
「ネリキリー君、帰るのは、明後日ではなかった?」
ネリキリーの姿を見たファンネルは怪訝そうだった。
「こんにちは。ファンネルさん、それがいろいろあって早く戻ってきました。どうぞ、これ、お土産の冬ショーロです」
ネリキリーは冬ショーロを差し出す。ルベンス講師の分も考えて少し多めだ。
「冬ショーロがこんなにたくさん。ありがとう。さっそく明日のお昼に一緒に食べようよ」
満面の笑みでファンネルはネリキリーを誘った。
「明日は無理だと思います」
ネリキリーはファンネルに二尾狐の話をした。
「魔物を飼うか」
「飼えるかどうかはまだ、決まってないですが」
ものはついでと、カミツレの小分け作業を手伝った。
「ネリキリー君が言うようにその二尾狐の子が、大人しくて、グラッサージュ家の後押しがあるなら、ほぼ大丈夫だとは思うよ。でも、魔法生物局がどうでるか」
ファンネルから出た聞き慣れない言葉。
「魔法生物局?」
ネリキリーの問いかけに、ファンネルは説明を加えてくれる。
「オーランジェットにある魔物と幻獣を研究・管理する機関だよ」
「魔物や幻獣に関しては冒険者組合が管理してるのかと思ってました」
カロリングには魔物を狩る冒険者組合は無いが、その存在はつとに知られている。
「三十年ほど前に現王のお声ががりで設置されたのさ。冒険者組合にだけ任せきりにしないようにしていこうってね」
ファンネルの声にわずかな苦々しさが乗る。
「魔法生物局と冒険者組合はあまり仲が良くないんですか?」
「そんなことはないが、ただ、後から出来た組織からあれこれ言われるのが面白くない者もいる」
「それが古くからあった組織の負担を軽減させて、活性化させるなら、良いことだと思いますが」
そうではないということだろうか?
ネリキリーは関わることになる魔法生物局について漠然とした不安を感じてしまう。
「魔法生物局は研究職が多いんだ。だから実際に魔物を狩る冒険者との認識のずれがある。研究者は生きたままの魔物を欲しがるが、冒険者としたら生け捕りは危険が多いから避けたいとか、そんなとこだね」
ファンネルの師匠は実地主義だと言っていた。そこらへんの考え方の違いということか、とネリキリーは納得した。
「人が集まれば多少の悶着はつきものだから。ただ、幼い魔物なんて魔法生物局が欲しがること必至だから、手放したくなければ、少しは警戒しておいたほうがいいよ」
ファンネルはいつになく真剣な顔で忠告をしてくれる。
「私も一緒に行けたら良いのだけど、明日は来客があるんだ。実はオルデン師の奥方の金銀細工を卸してもらうことになってね。ほんとは三日前だったんだけど、雪が降ったから延期にしていただいたんだ」
「それは良かったですね」
思わぬ朗報にネリキリーの心も浮き立った。
「ありがとう。何度もお願いに行ったかいがあるよ。ネリキリー君から貰った冬ショーロはオルデン師と奥方に賞味してもらうからね。ネリキリー君も一緒できれば良かったのだけど」
「僕も残念です」
本当に残念だった。ファンネルとオルデン師夫妻との昼食は気が置けない楽しいものだろうから。
「だから、今日は冬ショーロの味と香りを確かめるために、一品なにか作ろうと思う。ネリキリー君も食べていかないか?」
ファンネルが気を使ってくれた誘いに、ネリキリーは一も二もなくうなずいた。
翌日の朝にその知らせはもたらされた。
魔物を審査するべくネリキリーの故郷グラース村にオーランジェットからすでに向かっていると。
イリギスがその知らせを携えてネリキリーを馬車で迎えに来た。
荷ほどきをせぬままにしていた鞄を持って、ネリキリーはグラッサージュ家の四頭立て馬車に乗り込んだ。後方の見張り台に従者のオードブルが乗っていた。
前回と馬と馬車の様子が違う気がしてネリキリーはイリギスに尋ねてみる。
「今回、風足馬の血を引く馬でカロリングに戻ってきた。普通の馬よりかなり速い。馬車もそれ用のものに変えているよ」
さっそく役に立ってくれるとイリギスは微笑む。
「足速きエポナの血を引く馬。さすがフロランタンのお膝元だね」
イリギスの言葉通り、飛ぶように馬車は走っていた。その速さは普通の馬の2倍近く。そのうえ、乗り心地もネリキリーが二日前に乗って戻ってきたものとは段違いだった。
「日が暮れる頃には君の村に着く予定でいる。オーランジェットから来る者たちも、明日の朝には到着するだろう。いきなり大勢が押し掛けることになって申し訳ないが」
すまなそうにイリギスが言った。ネリキリーはその言葉で重大なことに気が付いた。
「イリギス達は今日の夜は泊まりになるのか。村には専用の宿はなくて、食堂が酔っぱらいを泊めるために作られたようなものだから、二部屋しかなくて。それにとても狭くて、イリギスが泊まるような部屋じゃないと思う」
ネリキリーの家にも客用寝室はあるが、一部屋だけでこれも貴族を泊まらせるような部屋ではない。
「少し離れるけど、イリギス達は長距離用の馬車が出ている街にある宿で泊まってもらう方がいいかもしれない」
「私はオーランジェットで野営の訓練もしている。部屋が多少狭かろうが、寝台があるだけで十分だ」
イリギスはネリキリーを安心させるように言った。
ただ、ネリキリーの心配はイリギス達だけでなく、村の住民のことも含まれていた。
貴族然とした彼が村の宿に泊まったら、気のいい宿屋のご夫婦は恐慌をきたすのではないかということだ。
ネリキリーの家族も、大丈夫だとは思うが、多少は気がかりだ。
今更ながら、そこに考えがいく。
そして、ネリキリーは大事になってしまった小さな二尾狐のことを思う。
処分はしないまでも、国境の山の方へ追い立てるべきだったかと。
今度のことはネリキリーの故郷のグレース村では100年は語り継がれることになるだろう。
王都から北上するにつれて、雪景色が多くなっていく。
オーランジェットの王都も、グラッサージュ家の領地もカロリングの王都より緯度が南にある。
ゆえに雪が降るのは数十年に一度だと高等学院で学んだ。
騒ぎになるのを嫌って村の中央は通らず、迂回路を使って、ネリキリーは自宅への道案内をした。
イリギスは馬車から降りると少しうれしそうに雪を踏む。
「雪を見るのは、三年ぶりだ。高等学院に入る前は毎年のようにアーデイス山脈で雪の行軍の訓練をしていたが」
滑らないようにイリギスの足取りは慎重だった。
外の気配に気が付いたのか、家からシルコーが出てくる。
「やあ、兄さん」
ネリキリーはいたって平静にシルコーに声をかけた。かけられたシルコーはぽかんとした顔でこちらを見る。
「ネル、お前、どうして」
先日王都へ行ったばかりの弟と見慣れない四頭立て馬車と知らない三人の顔。シルコーが驚くのも無理はなかった。
イリギスがどのような人物か知ったらもっと驚くだろうけど。
「イリギス、この人は僕の兄さんのシルコー・ヴィンセント。兄さん、この方は僕の同級生で、オーランジェットからの留学生のブラウニー子爵、イギリス・グラッサージュ卿」
ネリキリーの紹介を受けてイリギスはシルコーに手を差し出して握手を求めた。
「初めまして。突然のご訪問をお許しください。紹介にあずかりましたイリギス・グラサージュです」
シルコーは我に返ったらしく、慎重な身振りでイリギスの握手に応えた。
「初めまして。私はシルコー・ヴィンセントです。弟がお世話になってます。ブラウニー子爵」
「どうぞ、ネリキリーと同じく、イリギスとお呼びください」
「では、お言葉に甘えてそうさせていただきます。どうぞ、むさくるしいところですが、よろしければ中にお入りください。……お連れの方もご一緒に」
シルコーの薦めに御者の人が申し訳ありませんがと首を振った。
「ありがたいお言葉ですが、私は馬のそばに残らせていただきます」
「では、空いている馬車小屋がありますから、そちらへ案内しましょう。ネリキリー、お前は客人を中に案内しなさい」
玄関には母が待っていた。
再び紹介と挨拶をする。
「イギリス・グラサージュです」「スアマ・ヴィンセントです」
応接室に案内してから、母は父の不在について話し出した。
「あいにく主人は、村の集まりに出ております。夜には戻ってくるのですけれども」
ネリキリーには、母の声が少し上ずっているように聞こえた。
イリギスのことは帰省した際に話しているが、事前に連絡もなく、連れてくるとは思ってもみなかったはずだ。
それとも、イリギスの美貌に驚いているのかも知れない。
ネリキリーは何となく、胸がざわつく。
「お茶を用意して参りますわ」
母が淑やかに部屋を出ていく。
「ネルは母上に似ているね」
「そうかな」
「ああ。とても素敵な方だ。それに洗練されていらっしゃるね」
平素を知っているネリキリーは、少しばかり母がアルミラッジの耳を生やしていると感じた。しかし、母は村長の娘で、州都の女学院にも通っていた人だ。
礼儀作法にはもともと厳しい。
いくらもしない内に母が戻ってくる。
お茶は、家のことを手伝っている小作人の娘さんのリリアナが運んでくれていた。
部屋に入るなり、リリアナの目はイリギスに釘付けになる。
そんなリリアナを従えた母の足元には、耳と尻尾の先が、淡い赤茶色に染まった白い獣がまとわりついていた。
生かすべきか、死なすべきか迷った問題の魔物。
イリギスは、その登場を注視していた。
まろぶように幼い二尾狐はネリキリーに駆け寄ってきた。
ネリキリーは目を細めて獣を見つめる。
しかし、獣は急に足を止めて不審そうにイリギスを見上げた。
二尾狐の身に纏う雰囲気が明らかに変わる。
獣はイリギスから距離をおく。
しかし、飛びかかりはしない。
相手の強さが判るためか、それともネリキリーとの誓いを守ろうとしているのか。
低い唸り声が二尾狐の小さな体から洩れる。
獣がイリギスに飛びかかれば、このまま飼うことは出来ない。
見つめ合う人間と獣の気を削ぐように、扉が急に開かれた。
「ネルー、お客さんが来てるって!?」
弟のウィローの元気な声が応接室に響き渡った。
友達と雪遊びでもしてきたのか、その髪には雪のかけらがついて光っている。
室内を見回したウィローはイリギスを発見して一瞬だけ目を丸くし、次の瞬間には素早く彼に近づいた。
「こんにちは。僕、ウィロー・ヴィンセントです。すごいな、僕、こんな綺麗な人、初めて見た」
そして、ウィルは思い出したように右手を差し出す。
年下の方から手を差し出すのは、本当は礼儀としては失格だ。けれども、イリギスは嫌な顔ひとつせず、手を握って自己紹介する。
「初めまして。私はイリギス・グラサージュ。君のお兄さんの友達です」
差し出されたイリギスの手を、弟は大きく振るように握手をした。
「それから、これ、僕の弟分」
毒気を抜かれたように臨戦態勢を解いた二尾狐を抱き上げて、ウィローは獣をイリギスに紹介した。
「毛がほわほわしていてとっても柔らかいんだ。抱いてみる?」
自分が可愛がっている二尾狐を嫌いな人などいないと思っている様子で、ウィローはイリギスに勧めた。
部屋の隅で気配を殺して立っていたオードーブルが警戒して、イリギスとウィローに近寄ろうとする。
イリギスはそれを目で制した。
「そうだね。抱いてみたいな」
ネリキリーには、イリギスの身体から緊張が抜けたのが解った。彼は身を少しかがめて、幼い二尾狐をウィローから抱き取る。
獣は小さく鼻を鳴らしたが、されるままイリギスの腕へと移った。
「そうしているとまるで絵のようですわね」
母が感嘆の言葉を洩らす。出て行くきっかけがないまま盆を持って部屋にいたリリアナが「本当に」と相槌を打った。
ネリキリーも心の中で母に同意をしていた。
「イリギス様、どうぞイナリーを降ろして、お座りになってくださいませ。リリアナ、お茶をとおしぼりをお出しして。それからウィロー、イナリーを連れて自分の部屋にお帰りなさい」
「僕もいちゃいけない?」
母は黙って首を横に振った。
ウィローはつまらないなという風にため息をつくと二尾狐、イナリーに手を差し伸べた。
イリギスが開いた腕から、獣は飛び降りた。
ネリキリーは、イナリーが離れるのをイリギスが少し名残惜しそうにしているように思えた。
「失礼します。イリギスさ…ま、どうぞごゆっくりしていってください」
やっと礼儀を思い出したのか、胸に手を置く挨拶をしてウィローは応接室を出て行く。
その姿が消えてから、ネリキリーは自分がイナリーに触れていないことに気が付いた。
「このおしぼりというのは良いですね」
言ってイリギスは口にした茶杯を置いた。
「そうでございましょう?これは東の島国、アーシアンの風習だそうです」
「オーランジェットを飛び越して伝わったと、それは珍しい」
「なんでも、この地方でとれる姫りんごがアーシアンの祭事にかかせないらしいので、遠くから買い付けにきてくれるのですわ。その買い付け人が、泊まっていた宿屋のご主人に教えたとか。それでこの辺りに広まった聞いています」
母は、ほほほ、と笑うが、ネリキリーはそんな笑い方をするのを初めて見た。
「水に濡らしておきさえすれば、冬は魔法で温かく、夏は冷たくできます」
「カロリングの王都周辺やオーランジェットでは、手洗い鉢を設えるのですが」
「それはオーランジェット発祥の作法でございますわね」
母とイリギスは半時間ほど当たり障りのない会話を続けていた。
慌ただしい足音がしたかと思うと、父と兄が入ってきた。
「不在をしていて申し訳ありませんでした。私が、ネリキリーの父のカールカンです」
「イリギス・グラサージュです。いえ、こちらこそ、不躾に突然に訪問をしました」
お互いに握手をすると、イリギスは訪問の目的を告げた。
「やはり、家のイナリーのことでしたか」
父はある程度予想していたようだったが、オーランジェット本国からも調査に人が来ると聞いて、驚きを隠せなかった。
「まさか、オーランジェットからわざわざ来るとは。イナリーは大人しく、そこらの犬や猫と変わらない。いや、犬猫よりも手がかからないくらいだ。」
「確かに魔物は知能が高い。しかし、高いが故により、きちんとした対応が必用なのです」
イリギスはヴィンセント家の一同を見回して言った。
「失礼を承知で申し上げますが、カロリングに住む方は、魔物にうとい。これは、オーランジェットの者、いえ、竜王フロランタンが魔物を領内から出さないよう努めていらっしゃるため、当たり前ではありますが」
わずかに憂えるようなイリギスの言葉だった。
しかし、カロリングを始めとしてオーランジェットと盟約を結んでいる国々は、そのことは承知している。
だからこそオーランジェットはこの大陸にある国と周辺の海に浮かぶ島国から盟主と仰がれているのだ。
ネリキリーは、王都のグラサージュの屋敷を訪ねた時に、一番最初に出てきた従僕の言葉を思い出した。
図らずも聞いてしまったあの言葉こそが、オーランジェットに住む人達の本音なのだろうか。
自分達、周辺国はオーランジェットの人の負担になりすぎているのかも知れない。
「偉大なるフロランタンに幸いあれ」
父は決まり文句を言うと手を胸に置いて、かすかにお辞儀をした。
フロランタンの名前しか出さないが、これは竜王の直参の国と自負しているオーランジェットへの感謝でもある。
「我等がフロランタンに幸いあれ」
イリギスも決まり文句で父の言葉に応えた。
「そう、確かに幸いなことに、アーデイス山脈に程近い私達の村でも、魔法を操るような魔物はめったに現れることはありません。二尾狐も7年振りに見ましたよ」
父は、言外に強い魔物が出ないわけではないと言う。
事実、百年ほど前には首雀という風を起こす魔物が現れて、作物を荒らし、近隣の村の男達が総出で追い出したという話がある。
「二尾狐は、アーデイス山脈に出現しますが、あまり山から降りない魔物と聞いていましたけれど」
イリギスは、こちら側に降りてくるサキオーキの行動に疑問を持ったようだった。
「二尾狐は、どうやら冬ショーロが大好きなようだから、それでかも」
ネリキリーは、イナリーと出会った時のことを詳しく話した。
「冬ショーロで思い出しましたわ。そろそろ夕飯の支度をしませんと。イリギス様、田舎料理ですが、我慢してくださいませね」
母はネリキリーの話の途中で立ち上がった。
「いや、私達は、村にある食堂で取ろうと思っております。宿も兼ねているとネルから聞いてますから」
遠慮するイリギスに、残念そうに母が言った。
「こちらにお泊まりなると思って、リリアナに部屋の用意を頼みましたのに」
「でも、母さん、客用寝室は一つだけだよね」
ネリキリーが問いかけると母は事も無げに言った。
「従者と御者の方は屋根裏部屋になりますけれど、家族が多い時に使用していた部屋ですから、問題はないとぞんじますわ」
イリギスはちょっとの間、考えていた。
「私が泊まる寝室の数はいくつででしょうか?」
「二つです」
「では、そこにいるオードブルは私と同じ部屋で、御者のクネルは屋根裏にしていただけますか」
「承知しましたわ。では、失礼して私は席を外しますわね。あなた、難しいお話しは、後で私に分かりやすく説明してくださいね」
父に一声かけて、母が軽やかな足取りで出て行こうとする。するとオードブルが母のために扉を開けてくれた。
「申しわけない。家内は昔から自分の感覚を優先して動く質でして。話の腰を折ってしまいましたな」
大丈夫だとイリギスは首を振った。
「話を聞いた限りでは、二尾狐に今のところ危険はありませんが、アルミラッジのためしもあります。明日の審査をする人間が、この状況をどう判断するかで話は変わります。飼い続けるなら、魔物用のエサを定期的に運ぶ必用がでてきます」
「ちなみに、魔物のエサはいくらくらいですか」
家の収支について父を手伝っているシルコーが尋ねた。
「一ヶ月、だいたい、500リーブほどになると思います。与えなければいけない量で増減はありますが、それも明日来る人間が量を算定するでしょう」
500リーブと聞いて父と兄が驚きを顕にした。
ネリキリーもその値段の高さに驚く。
もし、イナリーを飼い続けられるなら、ファンネルのところで稼いだお金を送ろうと、ネリキリーは心に誓った。
母の言う通り、料理は普段と変わりなかった。
玉葱の透明な汁物、豚肉を焼いて香辛料を振りかけた肉料理、付け合わせのゆでた豆と甘藍の酢漬け。
贅沢と言えば、汁物に冬ショーロが散らしてあるくらいである。
しかし、香り立つ冬ショーロはそれだけで食事を豊かにする。
台所ではリリアナが、オードブルとクネルに同じものを出しているはずだ。
父は客人である二人にも家族と同じ席に着くように勧めたのだが、二人は主人と同じ席に座ることを良しとしなかった。
そのあたりの感覚は、主と使用人が同じ席で食べるのが当たり前であり、理想とされているこの地方の古き風習とは違っている。
小さな二尾狐のイナリーは家族と同じく食堂にいる。
犬のように食べ残しを貰うのではなく、自分の居場所に座って両の前足で肉を食べていた。
「いつもあんな風に?」
イリギスがイナリーを見て誰ともなく尋ねた。
「そうです。あの子が来てまだ幾日も経っていませんが、家族と一緒に食べていますよ」
父は珍しく葡萄酒を開けていた。父と兄にはたっぷり、母の杯には半分ほど注がれていた。
ネリキリーとイリギスは葡萄酒を水と姫りんごの果汁で薄めた飲み物。
ウィローは果汁を薄めた水である。
「イナリーはすごくお利口さんなんだよ」
ウィローは我がことのように自慢をした。
「そうだな。ウィローはイナリーをお手本に行儀よくしなくちゃな」
シルコーが弟をからかう。酒を飲んで気分がほぐれたのか、イリギスの前なのに、いつもの調子だった。
「違うよ、イナリーは僕をお手本にしているから、いい子なんだよ」
ウィローは負けじと言い返した。
「そうだよね、イナリー」
振り返ってウィローは小さな獣に同意を求める。が、イナリーは名前を呼ばれたのは解ったようだが、何で呼ばれたのか解らなかったらしく、きょとんとしたように人間達を見た。
そして、何かもらえるのかと、いそいそと近づいてきた。
ウィローが、姫りんごをあげていいかと母に訊ねた。
「良いけれど。そうだわ。お嫌でなければ、イリギス様がイナリーに渡してあげてくださいませんか?」
いきなり、指名されてイリギスは母の顔を見た。
微笑む母に女性にことのほか優しいイリギスは逆らえるはずもない。
「では、ラ・ベッラのおっしゃる通りに」
イリギスが姫りんごを投げて与えようとすると、ウィローがそれじゃ駄目と、恐れげもなく言った。
「小さなものには優しくしないといけないんだよ」
ウィローがは立ち上がってイナリーを呼び、それから二尾狐と共にイリギスの側に寄った。
イリギスが戸惑ったようにネリキリーに視線を走らせてきた。
ネリキリーは立ち上がってイナリーを抱き上げ、友人に近づける。
初対面の時と違って、イナリーは大人しくしていた。
イリギスは手にした姫りんごを差し出した。
小さな前足がそれを受け取る。
家族たちは満足そうにその光景を眺めていた。
ネリキリーの腕の中で小さな毛皮の塊は、果物をしゃくしゃくと食み始めた。