さんじゅうろく
久しぶりに帰る故郷の村はうっすらと雪が積もっていた。
長距離の辻馬車が走る町まで兄のシルコーが迎えに来てくれた。
「少し背が伸びたか?」
「うん、少しだけね」
「そうか」
荷馬車に揺られて眺める景色は陽の光で白く輝いている。
兄は雪に車輪を取られぬように慎重に馬を進めていく。
高等学院の生活は楽しいが、やはり帰ってくるとほっとする。
「ルイスが子供を産んだよ」
兄が教えてくれる。ルイスは家にいるころ、ネリキリーが主に乗ってきた馬だ。
「へえ、男の子?女の子?」
「オスだ。かなり気が強い」
そんな近況を兄がネリキリーに教えてくれる。
家に入ると、母が両手を広げて出迎えてくれた。
「おかえり、ネル」
「ただいま」
母と挨拶の抱擁をして椅子に座っている父にも挨拶をする。
「だだいま帰りました」
「おう、おかえり」
手にした茶杯をあげて父が言った。ネリキリーが小さい頃に外遊びをして帰って来た時と同じ挨拶。相変わらずだ。
「外は寒かったでしょ?ネルもシルも座ってお茶を飲みなさい」
かいがいしくお茶を入れようとしてくれる母にネリキリーは土産を差し出す。
「これ、お土産、お茶とお菓子」
中身はファンネルのところで購入したお茶と王都のお菓子。自分のお金で買ったものだ。
お茶を買うとき、ファンネルは、二人の間でお金が行ったり来たりしてますね、と笑っていた。
お菓子と聞いて弟のウィローが食べたいと騒ぐ。
明日にしなさいと母が言う。
「いま、働かせてもらっているところのお茶なんだよ」
「働いているって、高等学院は?」
母の声に心配そうな響きが乗る。
「放課後とお休みの時に、庭の手入れのお手伝いをしてるんだよ」
大丈夫とネリキリーは母に手を振ったが、代わりに父がネリキリーに尋ねてきた。
「金が足りないのか。王都は何でもここより高いから」
「普通にしているなら十分だよ。ただ、ちょっとだけお金が必要で」
「女か」
父が立ち上がっていきなり言った。図星をつかれてネリキリーは狼狽する。
「た、確かに女の子だけど」
「お前、都の悪い女に引っかかったわけじゃないだろうな」
父の心配が的外れなことにほっとしてネリキリーは椅子に座った。
「授業を受けてから放課後にファンネルさんの庭で働いてたらそんな暇はないよ」
「だが、今、女の子っていったぞ」
黙っていた兄がネリキリーの顔を覗き込んだ。
「上級生に狩りに招待されて、その時知り合った上級生の親戚の七歳の女の子の誕生日の贈り物を用意したんだよ」
「七歳の女の子」
母がつぶやく。
「まあ、そんなとこだよな」
兄は立ち上がった父の肩に手を置いた。父がその動きをきっかけに座り直す。
「驚かせるな」
勘違いをしたのは自分なのに、父はまるでネリキリーが悪かったように言った。
寮のみんなと食べる食事も楽しいけれど、家族と食べる食事はまた別だ。
ネリキリーが帰るので、母は好物をそろえてくれていた。
牛肉の煮込みに、冬野菜の酢漬け。麺麭は黒麦が混ぜてあるので少し色は悪いが風味がある。
肉がほろりと口の中でほどける。
最後には姫りんごに串を刺して暖炉であぶる。
甘くなった小さなりんごを温かいまま食べる。冬のささやかな贅沢。
それは、ネリキリーの心を温かくする。
「そうだ、これ母さんに」
ネリキリーは姫りんご片手に小さな包みを母に渡した。
「冬至の贈り物を渡せなかったから」
冬至には普段、世話になっている人に贈りものを渡す習慣がある。ここいらでは、たいてい家族から家を切り盛りしている母親に渡す。
「ネル、まあ、ありがとう」
母親はネリキリーの包みを開くとその品に見入った。
葉の円環の小さな銀の髪飾り。
オルデン師の奥方のところで見て気に入って、残りの200リーブで購入したものだ。
カールは冬に落ちない葉なので、無病息災のお守りにもなる。
「高かったのじゃない」
「たいしたことないよ。知り合った細工師の人が安く譲ってくれたんだ」
生意気だとシルコー兄がネルを小突いて、まだ10歳の弟は母と一緒にきれいだと褒める。
父は無言だが微笑んでいてくれた。
故郷での穏やかな休暇が過ぎてゆく。
弟のウィローと共に近くの森のとば口に向かう。
冬の森は厳しく、そして美しい。
「ネル、リスがいる」
木の枝にリスがいた。その小さな生き物は何か食べ物を探しているようだった。
ネリキリーはリスを弟と見つめる。
やがてリスは小さな木の実を見つける。
そのリスはほんの少しだけ木の実をかじると、同じ枝にいたもう一匹のリスに渡した。
木の実を貰ったリスはうれしそうに木の実を食べる。
「あのリスは仲良しね。兄弟なのかな」
ウィローがネリキリーを見上げて言った。
「そうだね。兄弟なのかもしれないね。それか、大事な友達かも」
ネリキリーはウィローに優しく答える。
「ネルは学校で、友達ができた?」
「できたよ。ウィローはできたか?」
「うん、エルバに、ハロルにマルティナ」
ウィローはうれしげに次々に友達の名前を挙げていく。
それを聞きながら、ネリキリーはケルンとイリギスの顔を思い出していた。
◇◇◇
仲が良いリスを見守っていると、その向こうに何かの気配がした。
同時にリスたちが落ち着かなくなり、枝を伝って上へと逃げ出す。
雪をたたえる木立の向こうに四つ足の獣。
二尾狐だ。
姿は狐に似ているが、気性は狐に比べて、とんでもなく荒い。
ネリキリーはゆっくりと弟を背後にかばう。
「ウィロー、静かに戻るぞ」
ウィローがネリキリーの服の裾をつかんでうなずく。
そろそろと二尾狐から距離を取った。
魔物はこちらに気がついていないのか動かない。
ただ、念のために静かな動作で腰の鎌を手にとり、刃を引き出した。
ゆっくり、慎重に。
大抵の獣は急に動くものを追いかける。
二尾狐がこちらを向いた。
気づかれた。
しかし、まだ向かってはこない。
このまま行ってくれとネリキリーは願う。
「ネル兄さん」
ウィローが小さく呟く。裾を掴む力が強くなる。
「大丈夫だ」
ネリキリーは安心させるように低く返した。
その間も二人はじりじりと下がる。
何がきっかけだったのか。
二尾狐が跳躍した。
明らかにこちらを狙っている。
隙を狙うように獣が頭を低く下げる。飛びかかる前の体制。
「ウィロー、木に登れ」
二尾狐は木には登れない。
ウィローをかばいながら、戦うのは無理だ。
そう判断してネリキリーはウィローに言った。
弟を背後にしながら、木の近くに寄る。
二人の意図を悟ったように二尾狐が飛びかかる。
鎌を閃かせて、ネリキリーは応戦した。
二尾狐は油断していたのか、肉を切る手応えがネリキリーに伝わった。
白い雪の上に、赤黒い魔物の血。
「早く」
弟に登れと短く叱咤した。
固まっていたウィローが木にとりついて、登っていく。
ウィローに分散されていた意識を二尾狐に集中する。
獣は一歩動いたかと思うと、ネリキリーの足をめがけて牙を向いた。
とっさにネリキリーは足を振り上げた。足が二尾狐の口に当たる。
牙が食い込むのは辛くも避けたが、鋭い牙は服を破って、ネリキリーの皮膚を切った。
ざわりと空気が揺れる。
冷たい空気の中に熱が走った。
火の魔法。
そうだ。二尾狐は火を操る。
裾についた小さな火を消し止めるため、ネリキリーは片手で火を押しつぶす。
酸素がなくなり、火は消えた。
しかし、二尾狐がその隙をついて襲いかかってきた。
鎌を左右に振って近づくのを防いだ。二尾狐の赤みを帯びた体毛が風に舞った。
ギュイーン
二尾狐が悔し気に低く唸り、後ろへと飛び退る。
だが、まだあきらめてはくれないらしい。
少し距離を置いて、誘うようにネリキリーの周りを徘徊する。
すでに血は乾いたのか、雪の上には赤い跡は残らない。
EGO OPT INIM ambu1 Nix V1B//Aq
二尾狐の足元の雪が溶ける。
急にぬかるみになった地面を警戒してか獣の足が止まった。すかさずネリキリーは次の魔導式を唱えた。
EGO OPT Fum et Aq FRG//G1ac
ぬかるんだ地面が凍り、獣の足を捕らえる。
MGAE1Ec//Ut Sup /TE1-m
魔力を武器に帯同させて、一息に敵との距離を詰める。
二尾狐は火を放って威嚇してくる。小さな炎が顔をかすめて、痛みが走る。
獣の足が自由になる。
敵が跳躍する瞬間、ネリキリーは鎌を振り下ろした。
ネリキリーの動きのままに二尾狐が地面に落ちる。
獣は動かない。
ネリキリーは息を大きく吐き、ウィローの上った木を振り返った。
とたん、右手に強い痛みが走った。ネリキリーは鎌を雪の上に取り落とした。
熱い炎がネリキリーの腕を掴んでいた。二尾狐が力を振り絞ってかけた魔法。
ネリキリーは雪の上に転がり、炎を振り払う。
とびかかろうとする二尾狐。
馬鹿だ
ネリキリーは油断した自分を罵倒した。
そのとき、雪玉が獣の目に当たった。
ウィローが木の上から投げたのだ。
次々に雪玉が投げられた。
二尾狐は低く唸ると、雪玉がくる方向に炎を放つ。
木に積もった雪が根本に落ち、攻撃が止む。
ウィローの思わぬ援護に、ネリキリーは立ち上がり、二尾狐から距離をおいた。
しかし、武器はまだ雪の上だ。
位置は敵の方が近い。
毛皮を赤く染めながら、二尾狐はネリキリーを睨みつけている。
獣とネリキリーの吐く息が白く煙る。
もう一度、相手の足下の雪を溶かすか。
いや、ぬかるんだ途端、魔法を放つわずかな間を捉えて、二尾狐は自分に飛びかかるだろう。
だが、このままでは、水を含んだ服が体力を奪っていくだけだ。
右腕の袖と手袋は溶けた雪で重く、氷のようだ。
氷。
ネリキリーは瞬時に魔導式を展開し、武器に駆け寄る。
EGO OPT Aq FRG//G1ac
二尾狐がそれに反応した。
初めの敏捷さは無いが、それでも人間より勝った動きだ。
腹を食いちぎろうとする獣の口。
EGO OPT MGAE1Ec//G1ac Quam FRG
氷となった右袖をさらに凍てつかせて口に押し込む。
二尾狐は耐えきれずに口を放した。
ネリキリーは薄緑の刃をした鎌を拾い上げ、今度こそ留めを刺すために、自分からから飛びかかった。
狙いは二つの尾。二尾狐の弱点。
獣は必死に振りほどこうとするが、二度の魔力の攻撃で、かなり弱っていた。
二つの尾の一つをネリキリーが切り取る。
二尾狐は悔しげに一声鳴くと雪の上に転がった。
ネリキリーは残された尾を切り取る。
ウィローが木の上から降りてきた。
「ネル兄さん、大丈夫?」
不安げな弟にネリキリーはなんとか笑顔を返す。
体に上手く力が入らない。
この症状は前にも経験した。魔力の欠乏だ。
闘っている間は感じなかった右腕もかすかに痛み始めた。炎と、さらに氷のような冷たさにふれた右腕。
「これを持って」
ネリキリーはウィローに二つの尾を渡す。
懐からイリギスからもらった飴を自分の口に入れ、弟にも一つ口に放り込んでやる。
最後の一つだ。
飴に含まれた魔糖が体に力を与えてくれる。
具合が悪い時の方が、顕著に効果を感じた。
ネリキリーは二尾狐の体を抱えて、弟と家へ戻った。
傷だらけのネリキリーを見て、母が声もなく驚いている。
「森のとばくちで二尾狐に出くわした。父さん、兄さん、みんなに報せて」
父とシルコーはすぐさま支度をして家をでた。
ネリキリーは服を脱いで腕を調べる。肘から下が赤くなっていた。しかし、水膨れはあるが、思った程ではない。
母がネリキリーに軟膏を塗って清潔な布で巻いてくれた。
しばらくは少し不自由かもしれない。
ただ、体のだるさはまだ残っていた。
父達の帰りを待つ間、暖炉近くの長椅子に座ってうとうとする。
ウィローもネリキリーの左側に寄り添って、まぶたを閉じたり開けたりしていた。
やがて父と兄が帰って来る。
明日、何人かで森を回るそうだ。弓が上手いものが中心に行くらしい。
罠も仕掛けるという。
「しばらくは、女と子供は森に近づかないことになった」
「なら、良かった」
ネリキリーは安心して、自室に下がった。
それから、ネリキリーは真夜中まで眠りこんだ。
ふと真夜中に目が覚めた。
しかし、体がまだふらついていた。
ネリキリーは以前に魔力欠乏に陥った時に、イリギスからもらっていた魔糖菓子を取り出した。
あまりに貴重で、勿体なくて、今まで食べずにおいたのだ。
箱に入った四つのうちの一つを口に含む。
涼やかな甘さ。魔糖の薄い衣に歯をたてる。
口の中で衣が割れて、とろりとした液体が舌をとろけさせた。
前回と同じように、魔力が体をめぐるように感じる。
だるさは薄れ、ネリキリーは深い眠りへおちていった。
◇◇◇
扉を開ける音でネリキリーは目を覚ました。
顔を向ければ、母が朝食を持ってきてくれたようだった。
その陰にはウィローが付き従っている。
「ネル、食欲はある?」
柔らかに母が尋ねてくる。
ネリキリーはゆっくりと身を起こした。
心配しためまいやだるさはなく、体が軽い。
「あるよ。昼も夜も食べなかったから、ものすごくお腹がすいた」
塩漬けの豚肉と野菜が入った羹に、焼きたてのナーン、砂糖煮の無花果。
お茶の香りで、自分が土産に持ち帰ったものだと分かった。
「朝から豪勢だね」
ネリキリーは、寝台から降りて、部屋着を引っかける。
右腕につれるような痛みが走ったが、昨日とは雲泥の差だ。
机に座ってネリキリーは朝食を食べ始める。
寝台には代わりにウィローが座った。
「ゆっくり食べなさい」
羮をかきこむように食べようとして、母から注意が入った。
「はい。……美味しいよ」
言われた通りにゆっくりと、だが、できるだけ早く羮とナーンを胃に納める。
無花果を口にするとウィローが「おいしい?」と聞いてきた。
目が無花果に向いている。ネリキリーは苦笑して無花果の皿を渡してやる。
「昨日は助けてもらったからな」
「ありがとう!」
母が止める間も無く、ウィローは無花果をぱくついた。
仕方がないわねと、母は改めて無花果を持ってこようとするのを、ネリキリーは押し留めた。
「いいよ。お腹は一杯になったし、着替えて下に行く。父さん達はまだ、森に行ってない?」
「ええ、まだだけど」
「じゃあ、先に下に降りて僕も行くって伝えてよ」
「ネル、無理しないで」
「無理してないよ。体は楽になったし。どこで二尾狐に遭ったか案内しないと」
こいつを案内人にするわけにはいかないし、とネリキリーは弟を指差した。
荒れた雪の痕が昨日の様子を物語っている。
雪はところどころ溶け、木にもいくつか焦げ付いた痕がある。
「これはひどい」
村の男衆の一人が言う。
「二尾狐は向こうからやってきたんだな」
足跡を見つけた兄が言った。
「たどるれるか?」
村長の息子のニチュードが兄に問いかけた。
父と同年輩の四十がらみの逞しい男だ。
「たぶん。昨日は雪が降らなかったので、足跡が続いていますから。ただ、森の最奥までは無理ですが」
ニチュードは兄の言葉に短くうなずくと、ネリキリーを振り返った。
「ネリキリーは怪我をしているのだったな。ここからは帰った方がいい。誰か一緒に……」
「いえ、行きます。怪我と言ってもこの通り弓も引けます」
ネリキリーは弓を軽く引いた。それに、魔法を使う二尾狐が相手なら、魔力が多少は高い自分がいた方がいいはずだ。
今日は魔糖菓子も用意してある。
ニチュードは父を見てから、いいだろうと許可をだした。
人が通れる道を外れて雪の上の足跡を辿る。
時おり、木の上から雪が落ちてきた。木々の間が次第に狭くなる。
二時間近くも歩いたころ、低い崖を利用した巣穴が見つかった。
二尾狐は大きな群れは作らないが、冬には数頭で過ごすこともある。
巣穴が見つかれば、手順通りに巣穴をいぶして追い立て、狩るだけだ。
まずは、木から作った乾留液をしみこませた布を被せた松明に火をつけ、巣穴に放り込む。
ネリキリーはその役を自ら買って出た。一同のなかで一番に身が軽く、火をつける魔法にも慣れている。
心配げなシルコーに平気だと告げて、ネリキリーは巣穴に近づいた。
魔導式を使って松明に着火し、巣穴に放り込む。そして、すぐにそこから離れた。
数人が空気を動かす魔法を使って煙を中へと押し込めたようだ。
巣穴から魔物が三匹、飛び出してきた。
村の男達の二分の一が矢を射かける。二尾狐の炎の魔法が、何本かの矢を燃えさせた。
しかし、すべてではない。
何本かが魔物の身体に突き刺さった。
すぐさま残りの半分が矢を放った。
一匹が矢を潜り抜けて、こちらに飛びかかろうとする。
ネリキリーはあらかじめ魔法を乗せた矢をつがえ、獣を射た。
矢は二尾狐の胴体を捕らえて、的中する。地に伏した獣の尾を父が短剣を使って切り取った。
ほぼ同時に、もう一匹も倒された。ニチュードがふさふさとした尾を手にしている。
不利を悟ったのか、残った二尾狐が逃げ出した。
その背を矢が追った。
そして、最後の一匹も動かなくなる。
昨日の戦いとはうって変わって、あっけなく魔物は狩られた。
人数の差もあるだろうが、個体もネリキリーの倒した二尾狐より一回り小さく、魔力も弱かった。
「昨日のやつは長だったのかもな」
魔物の大きさの差を知るシルコーが言った。
「二尾狐がこんなに近くに出るのは、7年ぶりだな」
「ネリキリーが最初に遭遇した場所に出たのは初めてじゃないか?」
「オーランジェットとの国境の山には毎年でるらしいが」
「国境の山はここから、3日は離れてるぞ」
「魔物は足が速いからな」
魔物を狩り終えた男たちの口が軽くなる。
「とりあえず、当面の脅威は無くなった。念のためにいくつかこの辺りに罠をしかけよう。それから、森に入る時には、何人かで入るよう村のみんなに徹底しなければな」
そう言ったニチュードがネリキリーに向き直る。
「そういえば、何でネリキリー達は二人だけで森へ?」
ネリキリーはごまかそうかと一瞬だけ思ったが、うまい言い訳が見つからない。
「きのこ、冬ショーロを採りに行ったんです。採る前に二尾狐に出会ったけど」
「なに、あのあたりに冬ショーロがあるのか」
男たちは色めきたった。
冬の雪の下から採れるきのこ、冬ショーロの味と香りはすばらしく、その発生場所は親兄弟にも教えないと言われるほどだ。
さっそく探しながら帰ろうと一同は言い出した。
ウィローにだけ教えるつもりだった秘密のきのこ畑の一つは村のものなりそうだ。
その他のきのこ畑の秘密の場所は、どうか知られませんようにと祈るネリキリーだった。
◇◇◇
しんとした森の中をネリキリー達は進んでいく。
明け方の森は小暗く、ともすれば足をとられそうだ。
ましてや小さな弟も一緒だった。
先頭を行く兄が時折、心配げにウィローとネリキリーを振り返る。
「ネル、あとどれくらいだ?」
「もう少しだよ、兄さん」
村のみんなに知られてしまった冬ショーロの群生地とは別の場所にネリキリーは向かっていた。
三日後にはネリキリーは寮へ帰る。
ケルンやイリギス、そしてファンネルらのお土産にしようと密かに採りに行くつもりだった。
本当は一人で出るはずだった。
部屋を抜けるところで、兄に見つかり、外へ出たところで、朝一番に水揚げをしにきたウィローに見つかった。
まだ、10歳だというのに勤勉すぎる。
といっても家にいるときはネリキリー自身もそうだった。東の空が白み始めた頃に起きだして、井戸から揚水機を使って水を上げていた
密生している木の間を抜けて、少し開けた場所にでる。
その先に冬ショーロは眠っている。
森に差し込む朝の光が森の隙間地を照らしていた。
歩を進めると、小さな影がうごめいているのが見えた。
木立の隙間から白っぽい毛皮が動くのが見えた。
しっぽが二つに分かれている。狩りきったと思った二尾狐だ。
ネリキリーとシルコーはすぐに弓を構えるが、その小ささに矢を放つのをためらう。
片手で掴めるほどの大きさだ。子供というより赤子に近い。
ネリキリーとシルコーはお互いに目を見交わす。
赤子の二尾狐など初めて見た。
今狩らねば、やがて大きくなり、森を焼き、家畜を人を襲うかもしれない。
そう思うものの、矢を射かけることができない。
小さな獣は雪を前足で掻き出し、ついでその下の土も掻き出し、小さな泥団子のようなものを見つけた。器用に前足を使って、座るようにして食べ始める。
手にしているのは冬ショーロだった。
「二尾狐は両手持ちで餌を食べるんだな」
シルコーがぽつりとつぶやく。
獣はとてもうれしそうだ。その姿は愛らしいと言っていい。
「卑怯だ」
我知らず、ネリキリーは言葉を漏らす。
いったん番えた弓を戻して、改めて弓を引き分ける。
すると、脇をすり抜けてウィローが獣に向かって飛びかかった。
「やめろ」
シルコーが慌てて駆け寄った。小さくても魔物だ。火を放つかもしれない。
しかし、それは杞憂だった。
二尾狐は逃げようとしたが、ぽてんと自分が掘った穴に足を取られた。
「捕まえた!!」
ウィローが誇らかに獣の首を掴んで持ち上げる。二尾狐は冬ショーロをまだ掴んだままだ。
……それを持ったままだから、逃げられなかったのじゃないだろうか。
捕らえられた二尾狐は不思議なほど大人しい。
暴れるどころか、ウィローの身体にすり寄る。
赤い毛はほとんどなく、ほぼ白い毛におおわれている。子供の頃は皆そうなのか、それとも突然変異か。
「へえ、魔物も子供だと人になつくのか」
シルコーが珍しがって手を出すと、獣は唸り声をあげて威嚇した。
「危ないな。やはり魔物は魔物か」
シルコーは短剣を取り出した。
「兄さん、待って」
ネリキリーは殺気立つ兄に待ったをかけた。
今度はネリキリーが手をだしてみると、こちらにすり寄り素直に抱かれた。
ふわふわの冬毛。毛皮のかたまりが腕の中にすっぽりと納まり、首にすり寄った。
「やっぱりだ。僕とウィローは最初に倒した二尾狐のしっぽを首に巻いている。仲間だと思われているのかもしれない。ウィロー、しっぽをシルコー兄さんに渡してみて」
「はい、ネル兄さん」
ウィローは自分が襟巻にして巻いていたしっぽをシルコーに渡した。
シルコーは半信半疑といった態で首に巻き、二尾狐に手を伸ばす。
獣は少し戸惑ったようにしたが、今度は威嚇をしなかった。
「匂いかな。それとも魔力の残滓か」
「どちらでもいいが、これはどうするんだ」
シルコーは自分の腕の中にいる二尾狐を見下ろした。獣はウィローが掘り起こした二つ目の冬ショーロを食べている。
「本来なら、屠らなきゃならないとこだけど」
「え、殺しちゃうの?駄目、こんなに可愛いのに」
ウィローが強硬な反対の声を挙げた。ネリキリーもこの手で抱いてしまった後では忍びない。
最初に狩るべきだった。いや、兄を押しとどめなければ良かったか。だが、好奇心が勝ってしまった。
「僕がずっと襟巻をつけてるからさ」
ウィローは家で飼いたいらしい。
「夏はどうするんだ」
シルコーが冷静に言ったが、獣をなでる手は優しい。
「たしか、オーランジェットでは、魔物を家畜化するのに、魔糖の残滓を使うんだったな」
ネリキリーは懐から魔糖菓子を取り出して、二尾狐に見せてみる。
ぴくりと二尾狐が反応し、手に乗った魔糖菓子とネリキリーの目を見つめた。
その顔はひどく神妙で、ネリキリーの言葉を待っているようだった。
「一つの願いに一つの望み。お前がこのお菓子を望むなら、僕らの願いも叶えて欲しい」
獣がかすかにうなずいたように見える。
「お前がこれから人を襲うことのないように。この誓いは、われら三人がお前を襲うまで破られることなし」
二尾狐は前足を伸ばして、ネリキリーの手から魔糖菓子を受けっ取った。
赤子の二尾狐を伴って、冬ショーロを採っていく。
驚いたのは、獣が雪の下の冬ショーロを次々と見つけていくことだ。
ネリキリーの知っていた群生地だけでなく、違う場所も見つかった。
だが、問題もあった。うっかりするとサキオーキが穴を掘って、ネリキリー達が収穫する前に食べようとする。
すでに5つも食べているのに、足りないらしい。
ネリキリーは小さな二尾狐を抱き上げた。
「このくらいで良いのじゃないか」
シルコーが冬ショーロでいっぱいになった袋を揺すった。土産と自家用を合わせても十分な数である。
冬ショーロの香りは10日ほどで落ちてしまう。欲しくなればまた取りにくればいい。
「そうだね。じゃあ、帰ろうか」
ネリキリーは食べ足りないのか不満げな獣を抱えて森を引き返した。
母は小さな訪問者にすぐに陥落した。
白い毛並みに耳の先としっぽの先がほんのりと赤茶に染められた獣を膝に抱いている。
獣も姫りんごを抱えてご満悦な様子だった。
先に鳥の生肉をもらっていたのに果物まで食べるらしい。
ただ、姫りんごのほうは、まだ匂いを嗅ぐだけで口してはいない。
母には念のために狩った二尾狐のしっぽを巻いてもらっていた。
父は赤子でも魔物とあって渋い顔をしていた。
「オーランジェットでは魔物が家畜されているのは知っている」
母の膝の上にいる獣に父は視線をやった。
「だが、ネリキリー、お前は馴らすには魔糖の廃棄物とやらを餌にすると言っていたな。どうやってそんなものを手に入れるつもりだ」
「この二尾狐とは僕たちと【一つの誓約】が結ばれた気がする。魔物だから、どこまで有効かは未知数だけど。たぶん魔糖の廃棄物がなくても、大丈夫じゃないかなあ」
ネリキリーは出されたお茶を口に含む。ウィローは母のそばに立ってときどき獣を撫でていた。
「たぶんじゃこまるぞ」
「高等学院にオーランジェット出の友人がいるので、どうにか手に入れられないか聞いてみる。……それにオーランジェットには魔物を研究している所があるようだから、ここで飼えないようなら、そちらに渡すことができないかも聞くよ」
ネリキリーは秋のドーファン上級生達との狩りのことを念頭に置いて言った。
わざわざ、飛びかまきりのために国境を超えるくらいだ。
この少し珍しい二尾狐の赤子も引き取ってもらえるのではないかと思う。
「研究って何するの?いじめられない?」
ウィローが聞き慣れない言葉を耳にして、少し不安そうに言った。
「この子がこのまま、大人しければ大丈夫だよ」
ネリキリーは弟を安心させるために微笑んだ。
「どっちにしろ連れてきてしまったんだし、今日明日は様子見でいいんじゃないか。ねえ、母さん?」
それまで、黙っていたシルコーが一家の刀自である母に確認する。
「そうね。この子はとても魔物とは思えないほど大人しいから」
母が父に優し気に微笑んだ。お前がそういうならと、父も二尾狐をしばらく家に置くことを許可をだした。
ネリキリーは、処分しないで良いことに胸を撫で下ろす。
話題になっていた二尾狐はまるで、話を分かっていたかのように姫りんごをかじりはじめた。
小さな獣が丸くなって寄り添うようにして寝ている。
魔糖菓子をあげたのがネリキリーだったせいだろうか、二尾狐は一番ネリキリーにまとわりついていた。
「捕まえたのは僕なのに」
とウィローは少々不満そうだった。
夜に寝るときも獣は当然というようにネリキリーの寝台に上がった。
狐はほんらい夜行性なのに、いっしょに寝ているし、獣臭さもほとんどない。
寝る前には自らネリキリーの裾をひいて外へ出て、穴を掘り、用を足していた。
かなり知能が高い様子であり、他の家族も驚いていた。
高位の幻獣や魔物は人語を解し、中には人の姿を取るというのも、あながち伝説だけではないかもしれない。
ネリキリーが着替えて鞄を持つと、二尾狐はくくうと小さく高く啼く。
一日早く、ネリキリーは王都へ戻る。この獣のことをイリギスに相談するためだ。
冒険者だったファンネルにも話を聞いておこうと思う。
王都までは、高速の駅馬車で18時間。昼夜を行く強行軍だが仕方がない。
残っている魔糖菓子は母に預けた。
「お前のために無理するんだぞ」
耳と耳の間を人差し指で掻いてやりながら、ネリキリーは獣に言い聞かせた。