にじゅう
今までよじ登っていた屋敷の門を開けて入るのは不思議な気がした。
ファンネルが格安で購入したという屋敷。
正面の庭だけでなく、建物の背後に樹木が立ち並び、ちょっとした林を作り出している。
それが建物の古さとあいまって、「幽霊屋敷」の呼び名にふさわしい風情を醸し出していた。
チャービル邸という名前だと初めて知った。
実は高等学院が委託されて管理していた屋敷だというのも。
だから、伝統的にこの屋敷で寮の肝試しが行われていたのか。
来年からのそれを心配する僕に、ファンネルは
「平気だよ。その時は屋敷を開放して、私も協力するから」
と言っていた。
来年からは、より一層の恐怖が新入生を待ち受けるに違いない。
ネリキリーは植生を確かめるためにゆっくりと歩いた。
見慣れた植物が多いと感じた。野菜や香草や薬草。
繁殖力の強い山の喜びなどは、我が物顔に庭の一角を占領しているし、
門の脇には銀葉柳が数本植えられていた。
ひょっとしたらかつてここに暮らした人は薬茶師だったのかもしれないとネリキリーは思った。
その推測は当たっているような気がする。ファンネルが「庭が甦る」という言葉を使ったから。
今は秋なので枯れているものが大分あるが、春ともなれば緑が氾濫するだろう。
呼び出し用の小さな鐘を鳴らす。
すぐにファンネルが扉を開けてくれた。明るい笑顔だった。
「ようこそ、わが家へ」
「よろしくお願いします」
玄関を入ってすぐの板土間に荷物が入った木箱と袋が置かれていた。
「肝試し」はもっぱら庭で行われるので、ネリキリーが屋敷の中に入ったのは初めてだった。
「まだ、荷物の整理もろくに行っていない。台所をはじめとする水回り、それから居間だけは何とかしたけど」
居間の長椅子で夜は寝ているのさ、とファンネルは両手を広げる。
「僕の他にお手伝いをしてくださる方はいないのですか」
「幽霊屋敷とういう評判が立っているから、みんな嫌がっていてね。庭がまともになれば、誰か見つかるだろうけど」
話しながら屋敷の中を案内してくれる。
台所、風呂場、居間。広い食事室もあるが一人暮らしなので、そこは、調合室として使って、食事などは居間で済ませるつもりだという。
使用人用の控室に、来客用の応接室もあった。応接室には布のかけられた家具がいくつか残っていた。
「ここに手を入れて薬草茶を求める客を迎えるつもりだ」
二階には部屋が6つに書斎が1つ。風呂場も一つある。さらには使用人用に二つと物置用に一つの屋根裏部屋。
「一つは書庫になってしまうだろうな」
「書斎があるのにですか?」
「本は繁殖するからね。魔力が少ない地域でも育つ紙織麻が発見されてからは尚更だ」
引っ越す前に少しは手を入れているようで、埃は思ったよりひどくない。
「さて、どこから始めるかな。君ならどうする?」
どう片付けるかの計画はファンネルには無いようだった。期待をするような顔でネリキリーを見ている。
「失礼なことを言いますが、ファンネルさんは薬茶師の仕事以外ではあまり几帳面でないのでは?」
「ほんとに失礼だけど、なぜ?」
「台所と食堂の整頓はかなりできているのに、板土間に衣服の袋が転がっていること。本を書斎に運ぼうとした途中で、気になるものがあったのか、開いたままの本があること。しかも複数。従って、仕事には気を使うが、自分の生活にはさっぱりというおおらかな性格と感じました」
「物は言いようだな。しかし、ネリキリー君の推測は当たってるよ」
「了解しました。では、二階は捨てましょう」
「捨てるって、くっついているものは捨てられないよ」
「居住空間のとして使うのは止めにしましょうということです」
「寝るところは?」
「今だって居間で寝ていらっしゃいますよね」
ネリキリーは居間へと入る。かなりの大きさの部屋である。自分たちの寮の部屋の少なくとも3倍はある。
「ここの大きな棚を動かして、仕切りにして、寝るところと居間部分を分けます。奥行きがあるので、洋服入れとしても使えますから」
「裏が見えるよ」
「きれいな布でも貼り付ければよいです。もしくは反対側に、本棚を置く。寝台はこれから買うのですよね。一人用ですか?」
「……二人用が欲しい、なっと」
「あ、ご婚約者がいらっしゃるのですか。だから大きな家を。すみません。なら、考え直さないと」
「…………これから探す。いや、でも、ほら、大人だし、いろいろと」
ファンネルの言葉が最後は呟くようになる。
「なら、居間と一緒のほうが、いろいろ都合が良いと思いますよ」
ネリキリーは首をかしげて笑って言った。
「こんなに可愛いのに、言ってることが手練れすぎる……」
ネリキリーは笑顔のまま、青少年はいろいろと将来の計画を練るものなんです、と心の中だけで答えを返した。
「二階を使いたいというなら、そうします。でも、できれば、屋敷の方には時間をかけずに庭の方に力を入れたいと思っています。収穫できるものもあるようですから」
ネリキリーが力強く断言すると、ファンネルも大きくうなずいた。本来の目的を思い出したらしい。
二人は、二階の書斎から掃除を始めた。まずは玄関の正面の板土間にある本を片付ける。
目に見えて成果があがる本の移動は、片づけに必要な意欲を上げるのに最適だから。
二日目 水曜日
ネリキリーが来ない間に寝台が届いていた。完全に二人用の広いものではなく、少し狭い、「親子の」あるいは「恋人の」と呼ばれる大きさ。
ネリキリーが提案した通り、居間が棚で仕切られ、その奥に寝台が設置されている。
「寝台を運んできてくれた家具屋に頼んだ。お礼に疲労回復の香草茶とお菓子をふるまってね」
仕切りの棚の居間側には一角獣と乙女ルピュセルの織物絵が貼り付けられていた。
「一角獣のユニコーンとリオンの乙女ルピュセルは薬茶師の象徴だからね」
「応接室には掛けないのですか?」
「応接室は庭に広く面しているから余計な飾りは置きたくない」
一方、応接室はがらんとしていた。椅子の座面の綿がへったっているので、修復のため家具屋が持っていったということだ。
丁寧に掃き、丁寧に床を磨く。
見違えるように部屋はきれいになった。
ここに修復された家具が入れば居心地のいい空間になるはずだ。
三日目 木曜日
二階の部屋を掃除した。
ファンネルは一階で香草茶の調合をしている。
部屋の中の家具をよく見ると形がかなり古いうえ、最後に使われたのは相当に前らしく、あちこちの塗装が剥げている。
「作られたころは相当に立派だったろうな」
部屋の一つ一つが別の趣向で装飾されていて、箪笥や鏡台に施された細かい彫刻もその趣向に合わせてある。
この屋敷の昔の主人は相当な趣味人だったようだ。
どんな人だったのだろう?
屋敷の風情には、幽霊屋敷の噂の内容とは明らかに違う人物象が記されていた。
女性かな?男性かな?
噂だと、女性のために男性が造った屋敷だけれど、屋敷の趣を見ると女性自身の手が入っているような気がする。
国境を守る上級騎士が愛する妻のために造った屋敷なんていうのはどうだろうか?
オーランジェットとの国境は至って平穏だが、北の国境は百年に一度くらいは小競り合いがあるので、砦がいくつかある。オーランジェットは人の争いに対しては、あまり介入しないからだ。
薬茶師である妻は夫の帰りを待っていたけど、夫は戦死。
妻は悲しみのあまり、病気になってしまい、はかなくなってしまうのだ。
……古典の授業でやった韻文詩に影響受けすぎかもしれない。
ネリキリーは自分の想像力のなさに苦笑しながら掃除を続けた。
四日目 金曜日
チャービル邸、改めメルバ邸を訪ねるとファンネルが庭の手入れをしていた。
雑草を引き抜き、かごに入れる。ただそれだけの動作をしているのに、胸をつかれるような不思議な神聖さをまとっていた。
それは、彼がとても丁寧に雑草を抜いて、優しい手つきでかごに入れているからだと気づく。
その風景を壊したくなくてネリキリーはしばらくその場に佇んでいた。
「あれ、来てたのか。早いね」
約束の時間には、まだ1時間ほどある。今日は半日で終わる日だったので、オルデン師のところに行ったのだが、時間を気にして集中できてないネリキリーに、気になるなら行きなさいと師が言ってくれたのだ。
「雑草なのにとても丁寧に扱うんですね」
雑草を抜くのを手伝いながらネリキリーはそう口にした。
「丁寧に抜かないとまた生えてくる。……雑草なんてまとめていわれているが、それぞれに名前もあり、生きているには変わりないからね」
また抜くのが嫌なんだよ、と少し乱暴な口調で言って、ファンネルは抜き取った雑草を優しい手つきでまたかごへと入れる。
故郷にいたころのネリキリーとって果樹園や畑に生える雑草は敵だった。
よくて堆肥の原料だ。
「抜くのは巣基菜や家枯らしなどの地下茎を張るものだけでいいよ。それ以外は刃物で刈り取るから」
ファンネルは指でいくつかの植物を示す。
「雑草はすべて抜かなくてはならないのでは?」
「根が張らないものは、根だけ残しておけば土の中で枯れて栄養になるものが多いからね。頑張って伸びてきてしまうやつもいるけど。あ、家枯らしはこちらのかごに入れて。根は薬になるから」
この人は、とても良い薬茶師なのだろうな。
自然にそんな思いがわいてきた。
ファンネルの手つきを真似して、できるだけ丁寧に雑草を引き抜いて、かごに入れる。
この日から、ファンネルはネリキリーにとって敬愛する人の一人になった。
五日目 土曜日
今日は休日。
まだ寝ぼけているケルンに出かけてくると声をかけてネリキリーは部屋を出る。休日の朝のケルンは食事より寝ることを優先する場合が多い。
たいていはイリギスと二人で食事を取るのだが、彼は昨日の昼過ぎから寮にいない。オーランジェットからの客人を出迎えるためだ。
故国の人と久々に会えるのに、イリギスはなんだか緊張していた。そのことについて話すとき、ごくごくわずかに眉を顰めている。
気が合わない客人らしいと思ったので、ネリキリー達も話題は極力控えた。
ネルもイギリスもいないなら、家に帰るかとケルンが言っていたから、そうなれば週明けにはお菓子が山ほどになるだろう。
八時きっかりに仕事場へ到着する。
ネリキリーは、ファンネルに腐葉土を作るために庭の落ち葉を集めてくれと頼まれた。
集め終わったころに、ルベンス講師が顔をだした。
ファンネルが今から、腐葉土用の穴を掘るから手伝ってくれと交渉をする。
「なんで俺が」
「今日の昼食と夕食を奢りましょう」
「どうせお前の手料理だろ」
「ファンネルさんはお料理をなさるのですか?」
「休日に来てくれた時には、君の食事もこちらで用意すると言ったよ」
そういえば言っていたと、ネリキリーはファンネルが提示した雇用条件を思い出す。
男にしては珍しいと思った。職業で料理人をしている人は多いが、家庭料理を作る人はあまりいない。
ネリキリー自身は田舎で狩りや釣りを父や兄から教えられたので、さばいて焼くくらいはできるがそれを料理とは大きな声では言えない
ルベンス講師との交渉は、夕飯に辛口の白葡萄酒と食後にオーランジェット特産のフラウ蜂の蜂蜜酒をつけるということで成立した。
「私は食事の支度があるから」
屋敷の中にファンネルが入っていく。
ネリキリーとルベンス講師は円匙を使って指定された場所に穴を掘っていく。
二人で掘るとやはり早い。
「どうだ、慣れたか」
「もっと大変かなと思いまいしたが、秋なのでそうでもないです」
「ファンネルには?夢中になると周りが見えなくなる癖はあるが、良い奴だろ?」
「ファンネルさんは優れた薬茶師なのが良く解りました。仕事に対する姿勢を学ばせていただきたいと思っています」
「固いな、もっと肩の力を抜けよ。ここは高等学院じゃない」
「講師は講師ですから」
ルベンス講師の言語学の知識は広くて深い。大学時代に書いた散文詩が激賞されたこともある。
今は、大学に研究生として籍を置くかたわら、高等学院で我々に古典を教えてくれている。
古典を教えてくれる師や講師は他に3人いるが、難解な古典を分かりやすく教えてくれる彼の講義は生徒の中でも人気が高い。
ネリキリーが学究の徒を志すようになったのも、彼の顰に倣いたいと考えたからだ。
ルベンス講師の上背のある体格も、明るい気性もネリキリーのひそかな憧れだった。
「ま、こんなものだろう」
円匙でかき回せるくらいの深さの穴が二つできる。板で囲いを作り落葉と雑草を入れ、穴より大きい蓋用の板をかぶせた。
「終わったぞ」
屋敷に入り、ルベンス講師が台所にいるファンネルに声をかけた。
料理のいい匂いが台所には立ちこめていた。
「ご苦労様。少し早いがお昼にしようか」
出してくれたのは、カロリングではあまり見ない麺状の食べ物だった。
小麦の粉を練り、平たく伸ばした生地を包丁で細く長く切る。それをゆでてさまざまなたれに絡めてつくるオーランジェットの麺料理。
豚肉の塩漬けが入った赤ナスのたれの色が食欲をそそる。添えられたゆでた緑の葉物野菜も鮮やかだ。さらに新鮮なマラミヤのお茶。
「飲みにくいので蜂蜜をどうぞ。でも少しだけね」
まずは、なにも入れずに飲んでみる。少し癖はあるが香りがすばらしい。でも、やはり飲みにくかったので少量の蜂蜜を垂らした。ほのかな甘みが舌に優しい。
「美味しいです。これオーランジェトの料理ですよね。ファンネルさんはオーランジェトにどれくらい?」
ネリキリーは私的なことを初めて尋ねてみた。
「高等学院を卒業してすぐだから、四年かな。ここ一年は、他の国にもあちこち行っていたから」
「フロランタンみたいに?」
「フロランタンのように空を飛べれば楽だったろうな」
「でも、やっぱりカロリングが落ち着くよ。オーランジェットで生まれたけど、育ったのはほとんどこっちだから。友達も多い」
ネリキリーはルベンス講師とファンネルを見比べた。
「こいつの母さんがオーランジェットの人でさ、すごい美人」
ルベンス講師が我がことのように自慢する。
「今度会ったら言ってやってくれ、喜ぶ」
「オーランジェットまで会いに行けってか?」
「留学したいのだろ?下宿先はうちにくればいいって言っていたよ」
「ルベンス講師がオーランジェットに?」
「夢だよ、夢。オーランジェットの大図書館へ研修生として行けたらいいな、ってな」
世界のすべてがあるとさえ言われる大図書館。知識を重んじるものなら、言語学者でなくても通い詰めたい場所である。
「そうえば、ファンネル、お前はアルファリアに通ったか?」
「うちのお師匠は実践を重んじる方でしたから、残念ながらそんなには。でも、ネリキリー君、機会があったら、オーランジェットに行ってごらん。一見どころかそれ以上の価値はある。どんな職業に就くにしても、できる限り見聞は広げたほうがいい」
カロリングが良いといいながらも、オーランジェトも捨てがたいという顔をファンネルは見せる。
「俺もお前みたいにオーランジェットで冒険者になるかな」
空になった器にお茶をルベンス講師が注いでくれながら言った。
「ファンネルさんが冒険者!」
驚きのあまりネリキリーは大きな声をあげた。細身のファンネルはとても魔物と戦う冒険者には見えない。
「師匠に無理やり勧められてね。冒険者といっても私は片手間で植物の採取専門。階級も準中級止まりだった。結果、薬茶師の特級を取れたわけだし、こうしてカロリングで屋敷を構えることができるまで貯蓄できたから師匠には感謝をしているけれど」
ファンネルの顔に苦笑いが浮かぶ。
「何かしらの目的があればよいけど、気軽にはお勧めできない職業だよ」
「俺が手伝うといったのは穴掘りだけだ」
ルベンス講師はそう宣言すると二階の書斎に籠ってしまった。彼のお目当てはそれだったらしい。
「雑草を刃物で刈りましょう」
残されたネリキリーは時間まで黙々と雑草を刈り続けた。