じゅうきゅう
翌日の放課後、オルデン師の部屋の前でネリキリーは発動式を組み込まず、頭の中に基本の魔道式を繰り返す。
Cab V1B//F1am
Aq FRG//G1ac
Ae MOV//Vent
Fum CONC//1ap
Pu PERC//E1EC
頭を冴えさせるため、落ち着つかせるための儀式。
すでに何度も通っているが、自分より二十歳以上も年上の師の部屋を訪ねることは幾分かの緊張をもたらす。
扉を三回たたくと「お入り」と応えがあった。
失礼します、とネリキリーが中に入ると珍しく先客がいた。経済学のディゴヤ師と言語学の講師のルベンス、それともう一人の見知らぬ男性。
魔導式は言語学にも関わりがあるから、ルベンス講師とはこの部屋でたまに顔を合わせていた。
経済学はイリギスとケルンの得意分野だ。
他の学問は、知識は蓄えるが成績にはこだわらないケルンが、これだけは熱心さも成績もイリギスと肩を並べている。
ネリキリーは統計的、数理的な部分は得意だが、社会学や政治学との関連ではかなり分が悪い。従って、評価は平均程度に留まっていた。
「王立高等学院の三頭竜の一頭じゃないか。他の二人はどうした?」
ルベンス講師達が振り返った。ルベンス講師は大学を二年前に卒業したばかりで、ネリキリー達とは十歳も違わない。
その後は、大学の研究に身をおきつつ、リゼラで講師をしている。
気さくな人柄で、ネリキリーを生徒というより後輩のように扱う。
「ルベンス講師、その呼び方はやめてください」
「じゃ、三頭犬にしておこうか」
「冥府の使者じゃないですか、余計に悪くなってません?」
「死者の魂を運ぶというお犬様だぞ。綽名としては悪くないはずだ」
同時に罪人を屈強な牙で引き裂くとされている犬型の幻獣だ。
三つの頭はそれぞれ、告発、弁護、判定の名を与えられている。
「三人ともかなりの甘党だからぴったりだろう」
「それは否定するつもりはありませんが」
二人のやり取りに見知らぬ客人がクスクスと笑い出した。
オルデン師への挨拶もそこそこにルベンス講師と話しだしてしまったネリキリーは恐縮した。
「ピットは変わりませんね。初めまして、私はファンネル・メルバ。ピット・ルベンスと同期です。」
「卒業生の方でしたか。初めまして。僕はネリキリー・ヴィンセントです。」
「で、ネリキリー君、今日は何かね」
挨拶が終わるのを見計らってオルデン師が声をかけてくれた。
「実家から姫りんごが送られてきましたので、日頃お世話になっているオルデン師に貰っていただきたくて持ってきました」
紙の袋に入れた姫りんごを差し出した。
「そういう気使いは不要だ」
オルデン師は持って帰ってくれと手を振った。僭越だったろうかとネリキリーは少し落ち込む。ネリキリーに魔導式の面白さを教えてくれ、貴重な文献を貸してくださるオルデン師に故郷の味を賞味して欲しかったのだ。
「あまり固いことを言わなくとも良いではないですか」
袋を取り上げて開いたのはディゴヤ師だった。艶のある赤い実のかわいらしさがディゴヤ師の大きな手に乗ると余計に引き立つ。
「姫りんごの産地ということは、君は北部出身だね」
各地の作物の収穫量を計算して数値化するのは経済学の授業で行った。
「はい、北部の農村が僕の故郷です。これも父母が今年作ったものです。小さいころから僕も果樹園や畑の仕事を手伝ってました」
「いい味だ。」
ディゴヤ師は洗いもせずに姫りんごを食べ始めた。わりと神経質に見えるのに意外な行動だ。
「この姫りんごは人の手で作り上げたものだ。苦みも酸味も強く、しかも親指の先くらいの大きさで、食用に適さなかった野生種、小人りんごを甘みの強い普通のりんごと交配させて120年ほど前にできた。この小ささと姫りんごと言う名前付け方の良さから、人気がでて北部の名産品の一つとなった。では、近年の収穫量は?」
ディゴヤ師がネリキリーを見据えた。
「273,180メガグレン、ここ10年で、3.6割の増加が認められています。これは近年、他国、特にオーランジェットへの輸出が多くなったためで、貿易品としての価値も高まっています」
ネリキリーはよどみなく答える。
「よろしい」
ディゴヤ師は満足そうに姫りんごを投げ上げた。そして再び掴むと、
「ちなみに花言葉は『密やかな誘惑』」
微笑んでりんごを他の人に渡そうとする。
ネリキリーは、洗いますと言って差し止め、人数分をすすいだ。
「用はそれだけかな」
なんだかうれし気に姫りんごを受け取ってくれたオルデン師がネリキリーに問いかけてきた。
「実は一つお願いがあります」
「成績に手心はつけられないぞ」
「そんなこと考えていません」
ネリキリーは慌てて首を振った。珍しいオルデン師の冗談だと分かっていても冷汗がでる。
「もっとも魔導式の成績はこれ以上、上がりようがないが」
これはもしかして褒めていただいたのだろうか?
ネリキリーの気持ちが上向く。
「ネリキリー君は優秀なのですね」
「少なくとも私の授業中によく居眠りをしていたファンネル君よりは優秀だな」
痛いところを突かれたとファンネルが頭をかいた。
「で、オルデン師にお願いって?」
ルベンス講師がネリキリーの顔を覗き込んでくる。
「学校があっせんしている短時間の労働を紹介していただけないかと」
オルデン師は少し目を見張って、どうしたものかという風に顎に手を当てた。
他の三人も口を閉ざしてなりゆきを見守る雰囲気である。
高等学院では、学生が放課後や休日に働くことを禁止してはいないが、推奨もしていない。一部の奨学生が学校からの紹介で学業に障りがない程度に働いているくらいだ。さらに学生が働く場をあっせんしてもらうには、授業を担当している師のうちの一人から推薦されなければならない。相手先に紹介しても大丈夫だという証明が必要なのだ。
「どうして働きたいのかね」
もちろん、お金が欲しいからだ。しかし、そう言ったら許しが貰えるはずもない。
ネリキリーは一番の理由を挙げる。
「子供用の弓を買って贈りたい人がいます」
先日のドーファン上級生に招待された狩りの出来事をかいつまんで説明した。
「魔物を狩るのに小さな令嬢の弓を壊してしまいました。だから、感謝とお詫びの印に弓を贈りたいのです」
上級の貴族の令嬢への贈り物だ。見栄といわれようとそれなりの物を用意したい。実は魔物を素材として売ったお金で買うことも考えていた。しかし、記念の鎌を仕立てることを優先した結果、それはできなくなった。
イリギスやケルンに相談すれば、三人で贈ろうと言い出されるのは目に見えていた。昨日受け取った金と二人が出してくれるだろう金額で購入はできるだろう。
だが、ネリキリーはそうしたくなかった。
あれほど懐いてくれたシャルロットに贈る物は自分の手ですべて用意したい。
並々ならぬネリキリーの意思が伝わったのか、オルデン師は「推薦はしましょう」とおっしゃってくれた。
「ですが、すぐにあっせんがくるとは限りませんよ」
「かまいません」
1ヶ月くらいなら待つつもりはあった。それ以上に待つとなると少し考えないといけない。
長期の休みにまとめて働くのも視野にいれておこうとネリキリーは考えた。
「それならば、私の手伝いをしませんか?」
一同が一斉にファンネルを見た。オルデン師は少し眉をひそめ、ディエゴ師は興味深そうに、ルベンス講師はけげんな顔で。
「私は薬茶師なんですが、こちらで店を開こうとオーランジェットから戻ってきたのですよ」
「薬茶師ならオーランジェットのほうが本場ですよね」
「本場ですから、当然、競争率も高いのです。店を出す資金も高くて、手持ちのお金ではちょっと足りない。だから、ネリキリー君の気持ちもすごく解ります」
先立つものがないとね、とファンネルはため息をついた。
「なので、恩師に挨拶がてらと店の宣伝を兼ねて高等学院を訪れたのです」
「ですが、僕は薬茶師の勉強なんてしたことがないです」
魔法薬についての基礎知識は教わったし、これからも授業がある。しかし、それはあくまで基礎だけで、薬学の最初の一文字の半分を習った程度。
「別に薬茶師の主な仕事である調合をお願いしようというわけではありませんよ」
とんでもないとファンネルは手のひらを振った。
「お願いしたいのは畑のお手伝いです。私はこの近くにかなり広い庭のある家を購入しました。ここは少し街の中心から離れているでしょう?かなりお安かったのですよ」
「この近く、広い庭、安い。もしかしてあれか?幽霊屋敷」
ルベンス講師が答えを割り出した。
それはネリキリーも知っている家だった。大きめに家にかなりの広さの庭があるが、ほとんど手入れされていなくて、草や木の楽園になっている。
噂では、道ならぬ関係に陥った貴族が相手の女性を住まわせていたが、奥さんにばれて流血沙汰になったとか。捨てられた女性が相手を恨んだまま亡くなったとか言われている。
なんで、ネリキリーが詳しいのかと言えば、そこは学生、入寮の通過儀礼(むろん非公式)である「肝試し」に使われる場所だからだ。
「来年からどこでやるのかな」
余計な心配をネリキリーはしてしまう。ふふふ、とファンネルが含み笑いをした。
「やはり高等学院の学生なら知っていますよね。まず家の掃除も行わなければならないし、庭にもかなり手を入れる必要がある。そこで」
ファンネルが必要のない間を入れた。
「ネリキリー君、農家出身の君の出番です」
ネリキリーがすぐに答えられずにいると、ファンネルが立ち上がった。
「そうと決まれば早速ですが、事務局に届け出をだしましょう」
拉致するような勢いでネリキリーの腕をファンネルが掴んだ。
「ファンネル君、君は雇用条件を何も提示してないじゃないか。それではオルデン師もネリキリー君も是非を出せないよ」
そんなファンネルをディゴヤ師が諭した。
「ああ、すみません。労働力を早く確保したいと焦ってしまいました」
「そうだな。まず条件からだ。ネルキリー君には私の研究の手伝いをしてもらっている。その時間も確保できなければ、許可は出せんよ」
オルデン師は言ったが、研究の手伝いなどした覚えはネリキリーにはない。
たまに質問に来て、一緒に文献を調べたりしているだけだ。古すぎて痛んだ文献の写本をしたりもしているが、あくまで自分の勉強のためだ。
ただ、ネリキリーとしても魔導式について学ぶ時間があまりにも減るのは避けたかった。
「しばらくは毎日来て欲しいのですけどね。では、授業のある日は午後三時半から2時間から3時間。午後六時半の寮の夕食までには返す」
ファンネルは少し悩んで付け足す。
「授業が半日で終わる日が週に二日あるから、ここでオルデン師のお手伝いをしてもらう。休日は授業が始まる時間と同じ、朝8時から午後3時までを基本で。昼食はこちらで用意するよ。家の中と庭が整ったら、拘束時間は減ると思うけど、かまわないよね?支払いは週払い。……賃金は1時間5リーブでいいかな」
「安すぎる」
ディゴヤ師が文句を言った。
「ですが、学生さんですし」
「だが、農業の経験者だ。基本はできているわけだ。だから君も声をかけたのだろう?」
「わかりました。時間、6リーブで。これ以上は、今はちょっと出せない」
「いいだろう」
ディゴヤ師が首肯してオルデン師を顧みた。
「妥当なところだろう」
とオルデン師の許可がおりるとファンネルは、さあ、行こうとネリキリーを即した。
オルデン師が推薦状を書くまで待てとふたたび引きとめた。
「これを機に、賃金の職業別の相場や平均、地方ごと、国家ごとの差なども調べてみるといい」
ディゴヤ師が経済学の担当らしい助言をくれる。ネリキリーも興味を持ったので助言通り空いた時間に調べてみようと思った。
「俺もついていくよ」
ルベンス講師が立ち上がった。ネリキリーがとんでもないと断ろうとすると、講師が真顔で言う。
「ネリキリー君、一人じゃ心配だ」
「何もとって食うわけじゃあるまいし」
「今の勢いじゃ当てにならない。それに職員が一緒のほうが、話が早い」
「それも、そうだな。あ、ありがとうございます、オルデン師」
ファンネルはオルデン師から書類を受け取ると丁寧に礼を返した。
「では、お邪魔しました。オルデン師、ディゴヤ師。庭が甦ったらお茶を差し入れいたしますね」
「いったん、失礼します」
「オルデン師、ディゴヤ師、貴重な時間を割いていただきありがとうございました。ファンネルさんのところで頑張って働きます」
オルデン師の部屋を辞し、ファンネル、ルベンス講師と三人で連れ立って事務局へ行くと、労働の許可はあっさり下りた。
ファンネルが卒業生なこと、オルデン師の推薦状、(ありがたいことにディゴヤ師も一筆入れてくれていた)さらにはルベンス講師が過剰な労働を強いていないか、時々見回ってくれるということが、決め手のようだった。
「ピットに監視されるのか」とファンネルはいささか嫌そうであったけれども。
こうして、ネリキリーは働く場を確保して、明日からファンネルの家へ通うことになった。
早く決まったのはいいが、なんだかファンネルの勢いに乗せられた気もする。
もしかして、自分は押しに弱くて流されやすいのか?
寮に帰って食事を終えたネリキリーはここのところの自分の行動を一考していた。
「お先―」
風呂に入っていたケルンが出てくる。寝台で休んでいたネリキリーは体を起こして何気なく言った。
「明日からしばらくの間、寮に帰ってくるのが遅くなるよ。休日もしばらくは予定が入った」
「え、何で」
「オルデン師の知り合いの引っ越しの手伝いに行くことになって」
これはあながち間違っていない。ファンネルとはオルデン師の部屋で出会ったから。
「あと、庭師が決まるまで手伝ってくれないかって。ほら、僕の実家は農家だから」
「オルデン師に頼まれたのか、じゃあ、仕方ないな」
頼んだのはネリキリーの方からだが、あいまいに笑っておく。
「イリギスにも後で言っとけよ」
「あー、うん。」
今夜、イリギスは食堂に来なかった。何でも、近々、カロリングの王都にあるグラサージュ家が所有する屋敷にオーランジェットから客人が来るのだという。
その準備のために、授業が終わるとすぐに、迎えに来たオードブルと出かけて行った。
ケルンと違い、屋敷の所有者であるイリギスは度々こうして屋敷へ帰っていた。
「明日の朝食の時にでも話すよ」
ネリキリーは話を切り上げ風呂場に入る。風呂場にはケルンの剃刀が出しっぱなしだ。
鏡に映るネリキリーの顔は剃刀の必要がないほどつるつるしている。少し悔しくて、いつもは片づけてしまう剃刀をそのままにしておいた。