じゅうに
結局、立ち上がれるようになったものの、ふらつきが治まらないネリキリーは、万が一に備えて用意されていた怪我人用の馬車で帰ることになった。
イリギスとケルンも心配して同乗した。
なぜかシャルロットとアンゼリカ嬢も一緒だ。
膝には中くらいの籠が載せられている。
アンゼリカ嬢と一緒に助けた猫がその中にいた。
ネリキリーはイリギスとシャルロットの真ん中に座らさせられる。
シャルロットは少しだけ子猫をかまうと、その後は終始無言で、ピタリとネリキリーに身を寄せてきた。
しばらくすると疲れと馬車の揺れのせいか、シャルロットは眠ってしまった。
「重くないか、こちらに移そうか」
ケルンが気にして言ったが、そうすると彼女が起きてしまう。
「大丈夫。ただ、湯タンポみたいで僕も眠くなる」
子供の高い体温が心地よかった。
ネリキリーの言葉にイリギスが喉の奥で笑った。アンゼリカ嬢も微笑んでいる。子猫まで優しい顔をしている気がする。
「眠れ。そのほうがよい」
「ああ、眠れよ」
「おやすみなさい」
「ミィオ」
三人と一匹の言葉に安心したのか、ネリキリーは急速にまぶたが重くなる。
「おやすみ」
ネリキリーは無意識に呟くと、眠りの中にすみやかに落ちた。
馬車が止まった感覚で目が覚める。
ネリキリーの膝にはシャルロットが頭を乗せていた。彼自身は、イリギスの肩に持たれている。
馬車に乗る前より幾分か体が軽い
夢うつつの中でイリギスと話をしたような気がしたが、よく思い出せない。
肩にもたれたことを、謝って、気にするなと言われたことだけは、覚えている。
「ありがとう」
だから、ネリキリーは感謝の言葉を口にした。
起こさないように、シャルロットの髪をそっと撫でながら。
シャルロットを抱いて運ぼうとするネリキリーを静かに制して、ケルンが彼女を抱き上げた。
「お姫様は俺に任せろ。まだ、顔色が悪い」
「よろしく頼む」
ケルンに抱えられたシャルロットは寝ぼけ眼を開けたが、小さな微笑みを浮かべて、またすぐに眠ってしまう。
その様子に心を和ませたのは、おそらくネリキリーだけではないだろう。
あてがわれた寝室に戻って、用意されていたお茶を飲むと、しばらくぼんやりとした。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、イリギスの従者さんだった。
「御主人様にネリキリー様のお世話をするよう、申し付けられました」
「いいですよ、大丈夫です」
遠慮をすると
「まだ、破れた服のままではありませんか」
と言われてしまった。
それから、従者さんが上半身をお湯で絞った布で体を拭いてくれつつ、改めて傷の手当てしてくれた。
手に数ヶ所の軽い裂傷。鎌足が掠めた肩口は、服が破れ、少し深い傷。
鎌足を拾った時についた傷は、戦闘終了直後は血が流れ、けっこう痛かったが、今は塞がって痛みもほとんどなかった。
上からの攻撃だったので、下半身には傷は一つもない。
被害が大きいのは、髪だった。前髪が不揃いに切られ、額にもうっすらと傷が見えた。
イリギスは大丈夫だったろうか。
朦朧としていて確認していない。あの綺麗な顔に傷がつくのはもったいない。
「イリギスは怪我していないのですか?」
「はい、ご心配なく。かすり傷一つ負われていらっしゃいません」
「良かった。それにしてもイリギスは強いなあ」
「オーランジェットは魔物が多い土地柄でございますから」
主人に代わって謙遜しながら、誇らしげな響きが混じる。
「あなたは、イリギスに仕えて長いのですか?」
「さようでございますね。専属の従者になりまして7年になります。その前からグラサージュ家にお仕えしております」
「そんなに前から」
話ながら新しい服に着替えるのを手伝ってもらう。人に着せてもらうなどなかったネリキリーは、幼子になったような、また自分がちょっと偉くなったような、こそばゆい気持ちになった。
「それから、イリギス様がまだふらつくようならこちらをと」
手のひらに乗るほどの小さな箱。白い氷のような粒が4つ。
魔糖菓子だった。
また、ドアがノックされる。
今度こそケルンだった。
それではと、入れ替わりにイリギスの従者さんが立ち去った。
「手当てしてくれて、ありがとうございます」
ネリキリーは礼をいう。
彼の名前はなんというのだろう。紹介をしてもらっていないので、よく分からない。
「オードブルさん、何しに来たの?」
答えをくれたのは、やはりケルンだった。
「彼、オードブルさん、か」
「何?名前知らなかった?イリギスが、よくオードが、って話に出してくるだろう?」
「あ、あの人かあ。あんなに若いと思わなかった」
「確かにイリギスの話だけ聞くと、もっと年輩な感じだよな。若い、有能、好男子。イリギスは良い従者を抱えてるね。俺はスフレさんにお世話して貰いたいけど」
「え、誰?」
「スフレ・セバスティーユさん、イリギスの世話に同行した、女従者の人。いたろ?」
「馬車が違ったから。というかなんで紹介をされてないのに、氏名を知ってるんだ」
「美人だし。お知り合いになったから。有能そうなキリリとしたところが魅力的なんだ。オードさんより偉いみたいだから、女執事候補かも」
「いつのまに」
「お前が周りを見なさすぎ。俺がいなかったら、どうなるんだよ」
「感謝してる」
真顔で言うとケルンは小さく言った。
「…いつかは離れなきゃならないんだぞ」
高等学院を出た後、最初の予定通り地方で暮らすなら、ケルンとは疎遠になるだろう。
イリギスとの別れは漠然と思い描いていたが、ケルンとは、何故かいつまでも一緒にいる気がしていた。
ケルンと離れる。
そんな未来を描いて、少しネリキリーはしんみりする。
ケルンがいつもと違う柔かな声で言う。
「ほんと、今日は永遠の別れにならなくて良かったよ」
まったくだ、とネリキリーは返した。