Recht“レヒト“
「ねぇ、先輩、今日のみに行きませんか?」
仕事終わり、後輩の女子が話しかけてくる。
そこそこ仲良くしている子で、みんなからはマリとかマッちゃんとか呼ばれている子だ。
「んや………おれあんま金持ってねーぞ」
暗に奢ってやれないことを匂わせて、断るように含みを持たせた返答をする。ぶっちゃけ女の子とサシ飲みはキツい、とはいえ課人気者の彼女の誘いをそのまま断ったら皆からどう扱われるかなど目に見えている。
「自分の分は自分で払いますよ。だから、ね?」
上目使いでおねだりしてくるんじゃねぇ、てか食い下がってきたぞおい
「………わかったよ………」
俺は渋々了承すると、はしゃぐ彼女に付いて会社を出た
さて、ここは俺のよく行く居酒屋である。おっさん御用達の、雑多な雰囲気の飲み屋だ。………すくなくとも若い女の子は目の前でにこにこしている俺の後輩以外にはいない。
「お前、本当にこんなとこでいいの?」
「大丈夫ですよ、わりと、こういうとこの方が気を使わずに飲めますし、あ、すみませーん、生ひとつー」
やけに慣れたようすで店員さんを呼び止め、注文していく彼女を見ながらふと頬笑む、なるほど、洒落たバーとかじゃなくてもいいというのは、おれのようなおっさんからしたら気楽でいい。実際彼女もこういうところにはよく来るようで、俺たちは酒を飲みながら話を弾ませた。
「うーん、飲みすぎちゃいましたぁ………」
帰りみち、ふらふらと歩く彼女の肩を抱いて、駅まで送る。
「マリはわりと酒、弱いんだな………」
「うぇへへ~~」
だらしない顔になりながら笑う彼女は、酔っていても愛らしい。さすが我が課のアイドル。
「せんぱーい、今日はうちまで送ってくださいよ~~」
完全に泥酔してるな、真っ赤な顔でモゾモゾとこちらの体をまさぐってくる。………少し無防備すぎじゃないか?
「まぁ、いいけど………」
今さらだが俺はマリのことが嫌いじゃない、好ましい後輩が事故に遭ったりしないためにも、こんなに酔っているのだし送ってやろうと考えて、一緒な電車に乗り込んだ
(終電、送ってったらたぶんねーな。ビジネスホテルかカプセルホテルでも泊まりゃいいか)
そして、マリの部屋に到着して。
俺は
彼女のベッドに押し倒されていた
(なっなんだこれなんだこれ!!なんだこれ!)
混乱、喉が乾く、訳がわからない。なぜ俺は彼女に押し倒されてるんだ?
「お、おい。マリッ何してるんだ!俺だって一応男だぞ!こんなことされたら…………!」
思わず叫ぶ、無防備とか、そういう問題じゃない。さすがにこれはーーー
「“できませんよ“」
「!!」
酔っているはずの彼女の、ぽやんとした声音にしてはやけに明瞭に届いた、声。
酔っぱらって間違いでも起きたら大変だと、酔う前に飲むのをやめていた俺の脳に、するりと入り込だだそそれにつづく内容は、背筋まで駆けて背骨を震わせるのに充分な鋭さがあった。
「刑法第178条2項、準強制性交等罪。人の心神喪失・抗拒不能………私が今そうなっている泥酔状態なんてモロにそれですが………に乗じ、又は心神喪失・抗拒不能にさせて性交等をしたものはこれを5年以上の有期懲役に処す、…………先輩は、1後輩の体と一時の快楽のために人生の五年間と社会的地位を捨てるほど…………バカな人でしたかぁ……………?あ………それと、“私が酔ってるとこ、顔馴染みなった店員さんに見られてましたね、ここにはいるとこも、バッチリ、お隣さんに………えへへ………」
とろん、とした目でこちらを見ながら発したその長文は、国家権力と法執行システムを担保にした、盾。
今あなたから手を出したら、“本気で詰ませる、証人も居る“。という、通達。だが、本当に彼女に戦慄したのは、ここから。
「そういえば私………ハジメテ、まだなんですよね………」
潤んだ目と、頬笑みから発せられる言葉は、魅力的に聞こえるだろうか?あぁ、否である。
これは、ーー口撃ーー
“ヤったらヤった物的証拠、つーか端的にあれの血がシーツに付くぞ“という、王手の宣言、盾の補強材ーー。
読者諸君はこの様子をぶちまければ良いとお思いだろうか?否である。映像だと酔っているようにも見えるそれに、おれに有利に働く証拠能力など一切なく、冷徹勝つシステマチックに駆動する法は、心神喪失で免責される後輩ではなく、おれに牙をむく、いや、それ以前におれは“録音録画器機など持ち歩いていない………!“
だが、まだまだこれなら盾の範疇なのだ。そう、“ここまでならば“
「ですが……」
熱い吐息と共に、言葉が奏でられる。
「私が先輩を犯す分には……今なら………
刑法39条第1項が、味方になってくれる………ん、です……よ?」
「………っ!」
刑法39条第1項、心神喪失者の不処罰。
泥酔した……後輩は、“何をしても裁かれない“
完全に詰みである、イニシアチブを取られたなどというものでなく、法で、合法的に、自由と性的な選択肢を簒奪された………!?
「ふふっ………先輩は賢いです、それに、ジェントルマンだからぁ、ほーりつやぶるなんて、しません、よね………?」
瞳を潤ませて、熱い吐息をはきかけてくる“それ“は、このとき
「あぁ、そう………だな」
獲物ーーーおれを仕留めた
次の日の朝、後輩の恐ろしい一面を見させられたおれは、寝起きの間抜け面を晒して後輩の笑顔を眺めていた。
「これで先輩、まごうことなき犯罪者さんですねー」
いけしゃあしゃあとのたまう。くそ、可愛いじゃないか。
「なぁ、正直に言ってみ?最初から狙ってたろ。お前。」
思えば電車に入る前、駅でのボデイタッチ、あれは布石なのではないか。俺がこいつに不利な証拠を保存するものを持っていないことを確認するためにやったのでは?と。
「当たり前じゃないですかーなんのためにここまで布石打ったと?あ、終わったあとのもろもろ、保存しておきましたから」
あーうん、やっぱりな。寝てるときになんかごそごそやってるなと思ったよ。でもしゃあないじゃんこいつを力づくで止めようもんなら確実に詰まれるもん。
「お前それ………ぶっちゃけていいの?」
答えがわかりきったことを聞く。すると
「私がこれ言ったの、どうやって立証します?水掛け論で本当に私からキングを取れる………私を有罪にできるとお思いで?」
「疑わしきは罰せず」………証拠がなければ裁けないという法治国家の尊き原理原則でぶん殴る回答…………チェスにも絡めたか、てかこいつ、今の一手で「あんなに明瞭に話してたし昨日の泥酔は演技だろ準強制性行になるのか?」という返しも潰したな。あっちは泥酔していたという証拠を揃え………駅とか自宅前の監視カメラにも自分の千鳥足をうつしてやがったよこいつ………てこっちは当人の言い分のみ、法廷では明らかにあちらの方が採用される。
しかし、もしおれがあの時、自首しますって警察署に駆け込んでたら………?
なんとなくは、予想している答えは、はたして。
「刑法第27章傷害罪、そのうち、暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときに暴行罪となる………故意に押すのも、ですよ。私をどかそうと押した瞬間に大声で騒ぎ立てるなり警報作動させるなりして指紋と先輩の手に付いた繊維で一発です、知ってますか?うち、交番が近くにあるのですぐお巡りさんが来るんですよ?」
あぁ…………百点満点だ。準強制性行で公に訴え出ていないなら、俺を告発する内容はどうとでも変えられる。思わず背中にゾクゾクとした感触が走る。ヤバイな、この関係性が
…………心地いい。
「お前は………法治国家の敵だな」
苦みばしった顔で本心を鎧い、吐き捨てるようにいう。すると、“裁けないパブリックエネミー“にまでその身を堕とした、愛らしいおれの後輩はキョトンとした顔で、狂気を吐き出す
「好きな人って、自分の行使できる力の全てを使ってでも手に入れたくなるのが普通では?私は、“ちょっぴりその力が強かっただけで。“」
あぁ、あぁ、そうだとも。そこまで愛してくれるのは、怖くて、狂ってて、
…………嬉しい。
「そうかい、ま、逆らわないよ。脅迫で訴状送りつけても返す刀で切られそうだし」
こうは言ったが、立証どころかこいつからなにも要求すらしてきてない以上脅迫罪にはならず、いくらおれが喚こうともこいつは犯罪者ですらないのだ。それを理解しているであろうおれの後輩は、によによと笑みを浮かべてこちらを見ている。くそ、可愛いな。
と、不意にマリがおれに抱きつく。おれはベッドに座り、彼女は寝ているので、ちょうど腰に手が回る。
ポソリと、呟かれたそれは、
「大丈夫ですよ、私は、まだ、先輩の味方ですから………」
頼もしくも、もし機嫌を損ねたら、わかってるな?という意図を含ませた、酷く刺激的な旋律だった。
………今さらだが、おれもトチったものである、なんてことはない、マリが無防備だなんだと思いながら、本当に隙だらけなのはおれだったのだ。
とはいえそこからいきなり嵌められて相手の意図だけはある程度見抜けたのは凄いと思えばいいのか情けないと思えばいいのか…………。
「いや、あるいは、どこかで期待してたのかもな………こうやって搦め手で、自分を簒奪されることを、だから無防備に嵌まって、直ぐにわかった。」
自分はそこに、愛を感じてしまう、酷くねじれて拗らせた性癖を持っているのかもしれない。とはいえーーーーやられっぱなしというのも男が廃る。
(さて、俺も、どうやってこいつの虚偽告訴を立証する準備を整えようかね。)
などと、愛らしく、逞しく、賢しいおれの愛しの後輩の頭を撫でながら考えるのであった。