910 世界総インフレ
私はナスターシャ。
しがない人族の主婦さね。
何の変哲もないありふれた、一般家庭のどこにでもいるような、しがないオバサンさね。
夫は農夫で、子どもは三人。
息子二人の娘一人で、今は魔族さんらが統治時代に設立した学校に通って読み書きを教わっているところさ。
私らのような一般庶民が文字や計算を習えるようになるなんて、思ってもみないことさね。
かつて人間王が治めていた頃からは想像もできない。いい時代になったもんさ。
ここ最近は、何?
統治が人族に戻ってきて人間大統領なる輩が新しい王様になったとか言うけど、私ら庶民にゃよくわからない話さね。
今の生活が乱されなければ、それで万々歳なんだがねー。
まあそんなことより私ら庶民が思うのは、何より今日の飯をどうするかってことなんだがね。
今日腹を膨らまさないと、一年後の繁栄なんて知ったこっちゃないよ。
子どもたちもますます食べ盛りで、家の多少の蓄えがあってもすぐ消え去っちまう。
夫も農家なだけに力がないと務まらない。だから日頃からたくさん食べなきゃねえ。
その上、味にも文句を言ってくるんだから作る側は毎日大変だよ。
工夫して頭を悩ませて……、手を変え品を変えて満足いくものを作らなきゃなんだから……。
さて、そんなうちに今日も夕食の時間が迫ってくるよ。
皆、家に貯蔵している芋のふかしは飽きた……なんて贅沢なことぬかしてやがったからねえ。
何だい、ちょっと十日連続で出したからって。
ここはいい加減、一捻り加えたメニューが必要になってくるのかもしれないねえ。
幸い、ここのところ豊作続きで懐はあったかいんだ。
今日は、向こうの大きな街から行商人が来るようだし、何か珍しい調味料でもあれば芋にかけて違った味わいを出せるんだがねえ。
ちょっと覗いてみようか。
村の広場へ出てみると、既に行商人がやってきていて陽気に声を張り上げてやがるよ。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 今日は大変珍しいものを仕入れてきたよ! 是非とも皆さん買っていってくんなまし!」
またお決まりの売り文句だねえ。
珍しい物って何だい? どうせまた街で売れ残った土産の置物とかじゃないのかい?
「今日こそは正真正銘の珍品名品。ドラゴンラーメンなるシロモノだ! これが今、街で……いや人間国で……いや世界中で大流行りになってるんだぜ!!」
また大きく出たねえ。
あんまり大袈裟なこと言ってると、そのうち詐欺に疑われてしょっ引かれるよ?
「いいやこれがウソのようで本当の話! なんとあの魔族の大商会が率先して世界中に売り出してるってものだ! さらには人間国の新しい王様も推奨していて、拡大に補助金まで出してるって話だ! それだけ凄いもので、さらには美味い! 何せ食い物だからな!!」
何それ食い物なの?
まったく聞き慣れない名前の響きで、耳にしただけじゃ何者か想像つかなかったんだけれど……。
また仰々しい置物か何かかと思ったよ?
「それがビックリ、とっても美味しいものなんだねえ。今日は特別に行商人みずから、どうやって食べるものか説明しちゃうよ! 見てごらん、袋から出すと……なんだぁ? このカチコチ固まったモノはぁ!?」
またあからさまに芝居臭いね……。
しかし行商人が取り出した者は本当に見慣れないもので、パッと見た感じ食べ物とはとても思えない。
何も知らなければ厳かに祭壇にお供えしていたかもしれないねえ。
「コイツをナマのままバリバリ齧っちゃいけないよ! これには専用の調理法ってものがあるんだから! まずは鍋いっぱいにグツグツに煮立ったお湯を用意だ。皆さんのご家庭にも水と鍋ぐらいはあるだろう!!
……そりゃ、まあね。
「その熱湯の中に麺をぶち込む! するとどうだい!? あの硬かった麺がお湯を吸って柔らかに!? ななな、なんということだぁーッ!?」
だからリアクションが芝居臭いって。
「こうして茹った麺をお湯ごと深い皿に移し、最後にこの小袋に入った液体スープの素をだばぁとかけてかき混ぜれば完成よ!! これがハイカラな都市部で大流行り! ナウなヤングにバカウケのドラゴンラーメンだぁ!!」
お湯に入れて茹でるだけ?
そんなに簡単なのかい?
だとしたら日頃から忙しい主婦にはとてもありがたいシロモノだけど……!?
「さらにそれだけで寂しいなら、刻んだネギでも入れれば彩りが増すよ!! やっぱりどんな食い物にも青みがほしいよねえ!!」
いや知らんけれど。
「こんな珍しいドラゴンラーメンが、今日なら十個セットに加えてもう一品! この一振りで雑草を一束を刈り尽くす、命を刈り取る形をした鎌をおまけしてお手頃価格でご提供!! 皆さん、ここ最近お上の気前よさで景気がいいんだろう!? ケチケチせずどんどん買ってってよぉ!」
また安易にセットにしておまけもつけて……。
まあ、たしかに景気がいいのは事実なんだがさぁ。昔の人間国を滅ぼした魔族様が、当地の最初の年に税をまったく取り立てなかったからねえ。
旧人間国の圧政に疲弊した農家への救済措置とか言ってたけど、言われた当初はあまりの情け深さにお涙がちょちょぎれたよ。
こんなことならもっと早く魔族様に占領してほしかったよねえ。
まあ、昔を思い出すのはそれくらいにして今はドラゴンラーメンさね。
いまだに怪しさは消えないけれど、茹でるだけで食べられるっていうのは途轍もなく魅力的な話だねえ。
主婦はいつだって時間がないんだよ。
料理も手間はできるだけ少ない方がいいし、その点茹でるだけで済む料理なんて大歓迎だよ。
よし決めた。
行商人さん、そのドラゴンラーメンとやらを単品で五つね。
セット?
そんな得体のしれない商品をいきなり数買えるものかい。
とりあえずお試しで、美味かったらまた買ってみるよ。おまけもいらん。
ついでに納豆セットも買っていかないかって?
それもいい。
* * *
というわけでドラゴンラーメンとやらを家族分買ってきたよ。
さて、そろそろ飯の支度をしないと夫や子どもらが帰ってくるねえ。
少しでも飯が遅れたらギャーギャー騒ぎ出すんだから、手早く準備しておかないと。
しかし、今日の夕食は早速ドラゴンラーメンとやらを出すので準備は簡単さ。
お湯を沸かして、このカチカチの麺とやらをぶち込めばいいんだろう?
こんなに簡単な調理が、この世の中にあっていいのかね?
この手軽さだけでも、買った意義は充分にあったよ。多少不味かったとしても家族らに我慢させて食わせるさ!
……でもまあ、美味ければそれに越したことはないんだよねえ。
どうしよう、味も確かめずに買ったことが今さら不安に思えてきたわ。
調理の手軽さがあまりに衝撃的だったんで、すっかり見落としていたわ。
とりあえず味見だけはしておくか。
この液体スープとか言うのをぶっかけて……?
これで完成なんだよね?
では、このスープを一匙。
ズズ……。
……!
これは……これは!?
キタキタキタキタキタキタキタキタキタキタぁああああああああああああああああーーーーーーーーッッ!?
何だいこれは!?
スープを飲んだ途端に体中に力が漲ってきたぁあああああああああああッッ!?
これまでの人生で一番動ける気がするよッ!
主婦最強レベルアップ!
このドラゴンラーメンのスープを飲んだだけでこんなに力が湧き上がるなんて、一体どういう理屈なんだいいいいいいいいいッッ!?
とにかく、こんな簡単に調理しただけじゃあ今の私の主婦力は持て余されてしまうよ!
もう一品……いや、この最高のドラゴンラーメンに野菜などをトッピングして私の独自主婦性をアピールしないとぉおおおおおおおおおッッ!
力を得るだけじゃなくてとても美味しい。
このドラゴンラーメンは、凄まじいシロモンだよ。さらにはちゃんと美味しい!
これをたった一食分だなんてもったいないよ!
今からでもあの行商人のところへ突撃して在庫を買い占めねば! 納豆も買わねば!
グズグズしていたらあの行商人、次の村へ向かってしまいかねないからね!
待ちなさい、残ったドラゴンラーメンは全部私のものだよ!
さっきから力が溢れて止まらねぇええええええ!
こうなったらもう今夜から次の子どもを拵えるしかないねぇええええええええええッッ!!






