1076 寄る辺なき者
僕の名は火藤健。
しかしその名前で僕の名前を呼ぶものは、もう誰もいない。
今、僕の周りにいる人たちは僕のことをこう呼ぶ。
ブラウン・カトウ。
S級冒険者ブラウン・カトウと。
かつての僕は、この世界にはいなかった。
こことは別の世界にいた。
その世界で僕は受験に失敗し、行きたくもない私立高校へ進み、そこでのいじめを受けて登校拒否になった引きこもりだった。
両親はとっくの昔に僕を見限り、干渉することもなかった。
出来のいい兄や妹と比較して、僕の不出来ぶりが余計に引き立ったんだろう。
僕以外の子どもたちこそを本当の子どもとして、僕の存在はないもののように扱った。
食事の世話を家政婦に押し付けて、真実僕の存在など頭から消失したのだろう。
対する僕も二十四時間部屋に引きこもり、昼夜の区別もなく何日部屋から出ていないかもわからなくなった頃……。
……急に、部屋とは違う場所に投げ出された。
僕が引きこもっていた八畳間よりずっと広く、厳かな調度の空間。
自分に何が起こったのかわからずしばらくパニックに陥った。
そして時間と共に精神も沈静化し、そして居合わせた神官たちによる説明もあって、自分が異世界に召喚されてしまったことを知った。
元の世界に帰りたいとは思わなかった。
帰ったところで自分を見下してくる家族やクラスメイトしかいない。
そんなクソみたいな世界よりは、こちらの方がまだいくばくか希望は残っていると思ったから。
しかしこの世界もまた僕には微笑まなかった。
この異世界を訪れた者には、漏れなくスキルというものが与えられるらしい。
神から人へ、大抵のものは粉砕して立ち塞がることもない奇跡の力であるらしい。
詳しいスキルの特性は与えられた各人によってまちまちらしいが、当たりというべき高性能スキルを獲得した者は、勇者と讃えられていい待遇を受ける。
そして僕は、大したスキルに恵まれなかったようだ。
すぐさま城を追い出されて、自分の力で食い扶持を探し求めなければならなかった。
何も頼るもののない環境で、技術も実力もなく一人きりなんて地獄のような状況だ。
でもこの世界は少なくとも前の世界よりは優しかった。
見ず知らずの人々が優しくしてくれて、僕は日雇いをしながらなんとか生き延びることができた。
引きこもりからこの世界へやってきた僕としては奇跡と言っていいだろう。
そのうちさらに運が向いてきた。
お城では役立たずと言われた僕のスキルであったが、よくよく使いこなすとある一面においては無類の高性能を誇ることがわかった。
お陰で僕は、とある分野でめきめきと頭角を現し、ほんの数年のうちにトップへと踊りたった。
S級冒険者ブラウン・カトウの誕生だった。
多くの人が僕に尊敬し、丁重に扱ってくれた。
お城の人たちなどは成り上がった僕の噂を聞きつけ、改めて勇者として招聘しようとしたが、ギルドマスターが割って入り、思惑を阻止した。
僕という存在を守ってくれたのが嬉しかった。
かつて引きこもりだった前の世界では考えることもできない。
僕という存在が肯定され、承認され、憧れすら受ける。
この世界は僕にとって夢の実現ですらあった。
それからしばらくして後輩さえできた。
S級冒険者の。
僕のあとにS級となった冒険者はビル・ブルソンさん。
S級冒険者としてピンクトントンの称号を得た。
冒険者としての実績はほぼゼロで、冒険者ギルドに加入すると同時のS級認定。異例の大昇進だった。
その理由としてはピンクトントンさんの前職が傭兵であったということ。
魔族との戦争が行われている間、ピンクトントンさんは傭兵の代表格として知らぬ人ない有名人だったという。
終戦になって、職を失った傭兵の多くが冒険者に転向するに当たり、スムーズな融和を目指して傭兵代表というべきピンクトントンさんにS級の地位を与えたという。
この政治的判断に、ゴールデンバットさんなどは『S級の品格を落とす!』とか言って文句たらたらだったけれど、僕は彼女と仲よくやった。
せっかくの新参者&先代新参者だからね。
僕が一つ上の先輩としてS級冒険者の心得を教えてあげてくれとシルバーウルフさんからも頼まれたし、僕もそうすべきだと思った。
経歴が特殊なだけに、ピンクトントンさんは今までにない方法で冒険者業界を盛り上げ始めた。
とあるきっかけから、この異世界でプロレス興行が始まり、ピンクトントンさんがその主宰を務めるようになった。
この事態に僕も興味津々。
前の世界でもプロレスは好きでよく見ていたから、培った経験を生かせると思い自分から企画に参加した。
レフェリーを務めたりプロモーターを務めたり。
色々な役目でプロレス興行を盛り上げて、ピンクトントンさんとも二人三脚で進み続けた。
お陰様というかイベントは連続満席で、興行の人気はうなぎ上り。
僕とピンクトントンさんが組めば失敗などない。
僕らは最強コンビだ。
そんな風にここ最近ずっと思っていた。
正直浮かれていたのだと思う。
そんな浮かれまくった僕に冷や水をぶっかける出来事が起こったのは。
* * *
ピンクトントンさんが妊娠した。
僕の子どもだった。
何かの間違いだとしか思えなかった。
心当たりと言えば、去年の冬の日。
前の世界で言うところのクリスマスというべき日頃だった。
その夜は、一年の総合成果が上々だったことのお祝いとして、プロレス興行の関係者全員で祝宴を上げていた。
自分の主宰する企画が大成功で余程嬉しかったのだろう。
ピンクトントンさんは開催直後から酒のペースが進み、中盤に差し掛かる頃にはベロベロだった。
さらにトップのペースに巻き込まれたのか泥酔するメンバーが続出し、解放のための人員も行き渡らず、僕がピンクトントンさんの面倒を見るしかなくなった。
いつもであったらありえない事態だった。
僕は異世界人としてコンプラとかセンシティブな事案には一際鋭敏なのだ。
スキャンダルになりかねない事態には触れるどころか近づくことさえ避けた方がいい。
君子危うきに逆ダッシュ。
それこそ僕が異世界生活で身に着けた座右の銘だった。
しかしあの夜だけはおかしかった。
酔って顔を赤くしたピンクトントンさんがやけに色っぽく見えたし。
普通ならばドアの前で回れ右して帰るところを、その晩だけは何故か誘われるまま家に上がってしまった。
ピンクトントンさんはイノシシの獣人で、それゆえの怪力強力に恵まれたがゆえに傭兵としても冒険者としても成功した。
そのパワータイプとして女性ながらもかなり太ましい体格ではあったが、僕からしてみればそれが母親のような包容力を感じさせて、とても好ましかった。
結果から言ってその夜は、とても艶めかしい一夜となった。
それから何ヶ月かして衝撃の報告だ。
ピンクトントンさん最初は隠していたが、体調不良までは隠し通すこともできず、僕もプロレス団体の大黒柱に万が一があってはと、気が急くままに病院へと担ぎこんだ。
そうして判明したのがオメデタだ。
医者から『お父さんおめでとうございます』と言われて図らずも真実を言い当てていることに戦慄した。
真実を知ってまず僕の中に湧き上がるのは恐怖だった。
自分が父親に?
まだ夫にもなっていないのに?
心の準備も覚悟もできていないままに、自分のまったく知らない新しい肩書きが降ってくることには、想像を遥かに超えて恐ろしいことだった。
かつては過酷な人間関係から逃げ出して引きこもりとなり、異世界にやってきてからは親類もなく、根無し草としてただユラユラと生きてきた。
冒険者ギルドに所属し、S級冒険者になるまで登り詰めたが、僕の本質は引きこもりの頃から何も変わっていない。
僕は今日まで、誰とも深く関わらず、関わらるにしてもどこかに必ず逃げ道を用意していた。
他人と深く関わることを恐れていたからだ。
冒険者も所詮は無頼の職業、S級だなんだと成り上がってもその気になればその身一つでどこにでも行ける。
僕は他人と希薄な繋がりでいたかったんだ。
それなのに子どもができる? 自分の?
逃れようのない責任感に我が身が押し潰されそうだった。
どうしよう?
いっそ逃げてしまおうか?
何を言ってるんだと思われるかもしれないが、僕にとってはそれぐらい人間関係や責任というものが恐ろしく向かい合えないものだった。
そうして僕が葛藤していると……。
* * *
「……ほらコイツ」
いきなり後ろから指さされた。
「コイツ今にも逃げ出しそうな顔してるでしょう? コイツに持ちかけたら喜んで元の世界に帰っていくんじゃないかなと思って」