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荊の報徳  作者: 卯浪 糸
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野薔薇

野薔薇の花言葉:【悲しみから立ち上がる】

【あれ】からいったいどれくらいの時間が過ぎたのか。ローズは腫れぼったい瞼をこじ開けた。


全身が乾いて熱い。ローズはのろのろと、額にはりついた髪を払った。客室の天井には野薔薇の花が描かれているのだと初めて知った。水彩画調の繊細な白い花がさしこむ夕陽で橙色に染められている。


関節も乾いてきしむようだ。鈍く痛む。焦点が、天井から赤い痣のついた腕に勝手に合わさり、ローズは眉をひそめた。


「ローズ、目が覚めた?」


ローズの胸中などまったく意に介さない、はしゃいだ声にうんざりとする。溜め息すらも熱がこもって不快だ。声のした方とは逆に顔を背けると、生身とは違う感触の掌がローズの頬を包んだ。


「おはよう、ローズ。よく眠っていたね、気分はどう?」


「……さいあく」


たっぷりの沈黙の後、水分の足らない嗄れた声で吐き捨てても、白皙に白いシャツを羽織っただけのルナールは気分を害した様子も無くにっこりと微笑んだ。真上からローズを覗き込み、無理矢理視線を合わせてくる。飴玉のような琥珀色の双眸に、不機嫌を絵にかいた女の顔が映っていた。


「ローズの好きな檸檬水、冷やしてあるよ。飲むでしょ、起きて起きて」


…生後3ヶ月の子犬でもまだ落ち着きがあるだろうに。足音も忙しくルナールが部屋から出ていくのを見送り、ローズは忌々しく舌打ちしようとして、乾いた口腔では果たせなかった。それがまた不快だ。


反抗すればますますルナールがかまってくる事は目に見えているので、彼が戻ってくるより早く、くたくたに酷使された身体に鞭打ってローズは上半身を起こした。…身体の一部でもベッドから離れるのが、久方ぶりの気がする。


ローズは素肌にブランケットをだらしなく巻いただけの姿だが、羞恥心はもはや遠い。すでにこの男には裸どころか、自分でも見たこと無いような場所も暴かれている。恐怖も絶望も通り過ぎ、ローズにまとわりつくのは虚無だけだ。


初心な少女でもないし、貞操云々を語るつもりも無い。それでも好きに翻弄されてみじめにならないわけでもない。額を押さえて、ローズは呻いた。


アンナが作り置きしておいたオレンジのマーマレードと同じ色の尻尾を忙しく振りながら、ルナールは南方の土産物として人気の高い硝子のグラスに檸檬水を満たしてローズに差し出した。


「飲める?飲ませてあげようか?」


「……」


力の入らない手でグラスをひったくり、ローズはルナールから顔を背けて檸檬水に口をつけた。すっきりとした酸味と香りがくさくさとした気分をほんの少し和らげてくれる。


時間をかけて檸檬水を乾すローズを、ルナールはベッドの端に頬杖をついて上機嫌で見つめている。やがてグラスが空になると、それを受け取りざま、ルナールはローズの肉の薄い頬に素早く口付けた。


ぎょっとして反射的に距離をとろうとしても、ローズの身体はわずかに右に傾いただけ。彼女がろくに動けない―――逃げられないと悟ったルナールはローズに全身で抱きついた。赤い薔薇の花弁のような痣を散らしたローズの白い胸に頬をぴったりとくっつけて、ルナールはくすくすと笑う。


獣人は個体差はあれ、多くが獣の習性を受け継いでいる。アーサーは忠義厚く、同時に獰猛な狼犬。そしてルナールは狡猾な狩りを得意とする狐。共通するのが肉食である事、そして狩猟本能。


弱った獲物が逃げようとすれば彼らの興味を惹くだけ。わかりきっていた事だというのに、自身の迂闊さにローズは顔を強張らせる。


「ローズ、僕とアーサーの匂いがついちゃったね」


首筋に顔をうずめたルナールに囁かれ、ローズの青褪めていた頬に朱が昇った。


媚薬だか催淫剤だかいう胡散臭い薬は本物だった。注射された直後くらいから、幸か不幸かローズの記憶は曖昧だ。痛みの記憶は無い。しかし快楽だけは植えつけられ、薬が切れた後も同様。自分のなかには両親とおなじように、どうしようもなく淫蕩なものが流れているのではないかと悲嘆に暮れた時間はわずかなもの。それどころではなかった。


アーサーとルナールにどろどろに溶かされ、食事と排泄と睡眠以外の時間はどちらかと肌を重ねているという、娼婦も真っ青な時間を過ごせば体臭がうつるのも当然だ。


甘ったるい声をあげて乱れていた事実が恥ずかしく、ローズの腿にいやらしく指を滑らせる【雄】をひっぱたいてやろうと反応の鈍い腕をふりあげたと同時に、ふたりが転がっている客室の扉が開いた。


アーサーだ。


薄茶色の紙袋を抱えた男は、少しばかり目を瞠ると、嘆息しつつ灰銀の頭を振った。


「ルナール、今日はローズを休ませるって言ったろ。ほら、離れろ」


アーサーは小父から送られてきた東の大陸の黒檀のテーブルに紙袋を置いた。揃いの黒檀の椅子にかけてあったローズの鶯色の上着を手に、アーサーはルナールと反対側に腰を落ち着けた。おろしたままの黒髪がはりつく薄い肩に上着をかけると、アーサーはローズの視界にかかる髪をそっと払った。


「ただいま、ローズ」


慈愛と労わりがこぼれんばかりの淡水色の双眸に寄りかかりそうになり、自己嫌悪に唇を噛んでローズはアーサーを睨みつけた。アーサーが苦笑する。


「思ったより元気そうだ。…ローズ、今日、会社に行ってきたよ。おまえが準備してた退職金を従業員に渡してきた。…勝手な事して悪いな」


「…本当よ…」


会社の事には一切口をはさまず、影のように付き従っていた獣人の所業にローズは呆然と返した。


ドランディード社は“まだ”ローズのものだ。それを、いったい何をしてくれるのだ、この男は。従業員も、社長の【使用人】が彼らの退職金を持っている事、それを受け取る事に疑問は無かったのだろうか。


「ローズ、皆それどころじゃないんだよ」


ローズの胸中を読んだように、憐れみすら滲ませてアーサーは彼女の頭を撫でた。蚊帳の外に置かれたルナールが、自分を忘れるな、と言わんばかりにローズの背後から柔らかく腕を絡めてくる。


「おまえは言った、この国はもう【国】としてのかたちを保てない、と。その通りだ。少なくとも、おまえの下で働いてきた奴らは気付いてる。…いや、もう皆気付いてるかもな」


季節のせいだけではい。すでに流通は滞りはじめ、市場に並ぶ品の品質はもちろん、数も減少してきたという。


「食料庫に缶詰や塩漬けなんかの備蓄はあるけど、生鮮食品は無いだろ?足を伸ばして買いに行ってみたら、まあひどいもんさ。粗悪品をえらい値でふっかけられた。俺が獣人だっていうのもあったんだろうけど。…その金も、近いうちに紙切れ同然になるってのに」


「……」


「ローズ、おまえの読みは正しい。俺としてももう少し邪魔の入らないこの屋敷で過ごしたかったけど、状況が待ってくれない。明日にもこの国を出るよ。…いやだなんて、言わないよな?」


抵抗しても、力づくで連れて行く。ローズを見据えるアーサーの淡水色の瞳に宿る断固とした意志は、決して溶けない極北の氷を思わせた。氷が脆いのは不純物が入っているからだと言っていたのは、かつて商談に同席していた学者だったか。


…不純物を持たない―――ローズとルナールへの情以外ならばあっさりと捨て去れるアーサーはつよい。ローズなど、ほんとうは太刀打ちできないほどに。


ローズとて、二度目にこの国の土を踏んだ時から故郷くにを捨てる心積もりだったし、その為に準備してきたのだ。出国に否やは無い。だからといってアーサーの言葉に素直に頷けるはずもなく。


ローズは唇を噛んで顔を背けた。子供の頃、算術がどうしても解けなくて「アーサーの教え方が悪いのだ」と八つ当たり気味にふてた時を思い出し、ローズはますますきつく唇を噛み締める。


「…血が滲んでる」


前歯で傷付けたらしい。はっとわななかせたローズの唇をアーサーが犬そのものの所作で舐める。


硬直するローズを、やはり子供の頃の記憶にある、たしなめる微笑を浮かべてアーサーが見ていた。



                            *



ローズがいかにきつい言葉を連ね、拒否したところで、調子に乗ったけだもの2頭が首肯してくれるわけではない。


アーサーとルナールは、疲労から抜け出せないローズの入浴から食事から嬉々として介助し、彼女を閉口させた。経過は置いておくとして、倦怠感はあっても、ようやくさっぱりと出来た事からつかえていた呼吸も楽になり、ローズは自室のベッドで休めると安堵していた、のだが。


「久しぶりだね、こうやって3人並んでさ。子供の頃に戻ったみたい」


睡魔など寄せ付けないルナールの弾んだ声が右から聞こえたと思えば。


「…いい加減寝ろよ、おまえ。明日はやいんだぞ。寝坊したら置いて行くからな」


アーサーのまるで穴釣りに行くかのような気楽な声が左からかかる。


「……」


客室のベッドと違い、ローズの私室のベッドは決して大きくない。ひとりで寝る分には充分だが、3人―――しかも大の男ふたりがもぐりこめば、体がぴったりとくっついてしまい、窮屈な事この上ない。


せめて今夜くらいはこの男たちの匂いも熱も感じずにいたかったものを。ローズの苛立ちは、屈託の無い獣人ふたりの声で増していく。


【荊の淑女】の棘は相手に届かず、蔓は我が身を持て余して持ち主をちくちくと突き刺す。小さな痛みは怒りへと姿を変え、ローズをひどく残酷な気分にさせた。


「…あなたたち、わたしの両親を恨んでいないの?」


凌辱への意趣返しの一言は、浮ついた空気を鉛へと変化させた。口にした後でローズは後悔したが遅い。どれだけ怒りを覚えても、けっして言葉にしなかった問いはアーサーとルナールが両親による行為・・を示唆するパンドラのはこだ。開けてしまえば、そこに収まった黒々としたものは上っ面の平穏を吹き飛ばし、負の感情を撒き散らす。


これまでもローズはアーサーとルナールを傷付けてきた。時には意図的に。


…それでも、彼らのいちばん深い場所にある、触れてはならない傷を悪意をもって抉ってしまった罪悪感にローズは震えた。


「…恨んでは、ない、…と思う」


ローズの腹の上できつく握った拳をそっと包んで、ぽつりとつぶやいたのはルナールだった。


息を呑み、思わず目をやると、サイドテーブルに置かれた灯りに照らされたルナールの双眸もローズをじっと見つめていた。


「されてた事は、ほんとうに嫌だった。気持ち良くても“あれ”が良くない事・・・・・だってわかってたから、ローズには絶対知られたくなかった。…ローズに見られて、僕らのこと避け始めて、そのうえ遠くに行っちゃって…。ローズのお父さんとお母さんを憎んだ事もあったよ」


動けないローズの肩に、ルナールが頬を寄せる。


「でも、僕が死に損なった時、お母さんすごく泣いてね。お父さんはずっと遠くからお医者さんを呼んでくれて…、死んじゃだめだって」


ふ、と息をついてルナールは甘えかかるようにローズの首に腕をまわした。


「憎んだ事は事実だよ。でも嫌いにはなれなかった、最後まで」


「…よくわからないのだけど」


途方に暮れたローズの頭を撫でて、アーサーが苦笑をこぼす。


「ローズ、深く考えなくていい。おまえたち人間に比べて、俺たち獣人は単純にできてる。…うるさくして悪かったな、もう休みなさい」


ローズの額にアーサーの唇が柔らかく触れる。


「おやすみ、ローズ。良い夢を」


アーサーの唇が触れた場所からゆるゆるとあたたかなものが流れ、ローズは逆らえず、とろとろと目を閉じる。さっきまであれほど煩わしかったふたりの体温が心地良い。少し速い、心臓の音。


子供に戻ったようだ。アーサーのおやすみのキスは、まるで魔術のようにローズを夢の世界へ誘ってしまう。


「…ねえローズ。僕ら、君に、君がすごくいやがってたことをしたよ。…君は僕らを恨む?憎んで、…嫌いになっちゃうの?」


母親の愛情を希い、すがりつく幼子を思わせるルナールの声と、それをなだめるアーサーの声を遠くに聞きながらローズは闇に堕ちていく。


前も後ろも左右もわからない暗闇でも、不思議と怖くない。


―――憎んだ事は事実だよ。でも嫌いになれなかった、最後まで


この世のあらゆる災厄を詰め込んだパンドラの匣は解放された。


空っぽになってしまった匣の、その奥底でひっそりと儚く輝きながら頭をもたげたのは―――希望。































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