荊 *
荊の花言葉:【あなたの不快さがわたしを悩ませる】
民放ラジオから流れてきたアナウンサーの切羽詰まった声に、ローズは書類をめくる手を止め、やにわに立ち上がった。
なにか冷厳な女経営者の癇に障る事があっただろうか、と従業員たちは顔を強張らせるが、彼女が仕立ての良い鉛色のコートを手に部屋を出るなり安堵と共に疑問を顔に浮かべ、視線をかわす。
ローズは会社の敷地内で待機していたアーサーと車に乗り込み、自宅へと向かう。
突然の主人の帰宅に執事のウィリアムとアンナは目を丸くしたが、冷静なローズがはっきりと浮足立っている事に気付き、彼女の指示を待つのみ。
「ウィリアム、一緒にいらっしゃい。アンナは使用人たちを客間に集めて」
軍用犬と山羊の獣人はすぐに首肯し、お仕着せを翻した。
ローズは自室の金庫から、獣人たちの首輪の鍵を取り出した。瞬きを忘れた体で立ち竦むウィリアムの三つ揃いにそぐわない首輪の鍵を、ためらいなくはずす。
獣人の首輪は所有のしるしだが、同時に彼らがすでに誰かの【財産】であるという事も示す。首輪をつけた獣人に無体を働けば、相手は罪に問われる。
一度、【荊の淑女】の獣人だとわかったうえで、彼女の使用人に暴力を振るった者がいた。事業でローズに煮え湯を飲まされた事を逆恨みしての犯行だったのだが、「器物損壊」にのみ問われる罪状だった。しかし彼女は自身の持ちうるものを総動員し、わざわざ隣国から獣人の権利擁護の権威を呼び寄せ、相手に凄まじい社会的鉄槌を下した。
ドランディードの首輪は獣人たちにとって【枷】であり、自分を守ってくれる唯一のものでもある。それをはずすという事は、自由を得るかわりに、庇護を失うという事。
「奥様」
「ウィリアム、使用人たちの首輪をはずしてちょうだい」
ドランディードの付け札のぶらさがった銀メッキの鍵を押し付けられ、ウィリアムはひとつ大きく震えたものの、すぐに一礼し部屋を出た。
まずは、ひとつ。
ローズは大枚をはたいて設置した電報を打ち、鍵付きの引き出しから一通の封筒を取り出すと、階下に向かった。
客間には片手で足りるほどの使用人たちが首輪をはずされ、緊張の面持ちで揃っていた。しかし、そこにアーサーとルナールの姿はない。
ちりり、と苛立ちが脳を焼くが、ローズは大きく息をついて頭を切り替え、戦々恐々といった使用人たちに向かって口を開いた。
「今日限りで、あななたちを解雇します」
空気が凍りつく。
ドランディード邸を終の棲家と決めていたアンナの白い毛に覆われていない頬は真っ青になっていた。蹄が印象的な両手をきつく組んで、消え入りそうな声でローズを呼ぶ。
「お、おくさま…。わたくしたちはこれまで必死に奥様にお仕えしてきたつもりです。…それを、なぜ今になって…、あまりに心無い仕打ちではございませんか」
「この国が、もう国のかたちを保てなくなるからよ」
アンナの悲哀は、ローズの見えない壁に阻まれて届かなかった。しかし、ローズの言葉はアンナの涙を止めるに十分な威力を持っていた。
この国の経済が破綻寸前なのは皆わかっている事だ。しかし「劣った種族」である獣人たちを認め、あまつさえ政権の首脳部に据えるような他国に擦り寄るなど矜持が許さない。ほんの数十年前までこの国は屈指の経済大国だったのだ。その事に胡坐をかき、練磨を忘れていれば、衰えていくのは目に見えていただろうに、歪んだ、空っぽの誇りに依り過ぎた。
純粋な人間たちだけで形成された、あの頃の栄光は亜人たちに穢されていいものではない。
そういった思想は旧き良き富裕層、そして過去を知る多数の者たちに受け継がれ、改革派はなかなか声をあげられない状況がつづいた。
そしてよりにもよって、そんな多数代表の政権のお偉方が、他国の首脳部の獣人を公式な場で罵倒してしまったのだ。自国の衰退から目を逸らさせる為とはいえ、あまりに愚かな。
国力が対等であれば、もしくはこの国に旨味があれば切り捨てられる事も無かっただろう。しかし、この国はもう死に体だ。侮辱されたと戦争を仕掛けなくても、国交を断絶すれば勝手に崩壊する。戦うだけ馬鹿を見る―――この国はもう、そんなものに成り下がってしまった。他国の首脳の心配は、この国の崩壊と共に溢れ出る難民くらいだろう。
「それでも先の見える者や、他国に伝手のある者はさっさとこの国に見切りをつけて、あちらで生活できるように準備をしているわ。…わたしのように」
ローズは封筒をウィリアムに差し出した。
「隣国では獣人たちの人権が認められているわ。先方にはあなた達の事は連絡済み。わたしを育ててくださった小父さまだから、公平な扱いをして下さるでしょう。封筒の中に人数分の船の切符と、わたしがむこうでつくっておいた銀行口座の書類が入ってる。お金は好きに使いなさい」
「…奥様」
「じきすれば、国民の流出を防ぐ為の出国制限がかけられるでしょう。幸いわたしはその範疇にないけど、あなた達獣人は報酬の必要のない労働力として拘束されかねない。急ぎなさい。わたしはまだやる事があるから、…あとの事は頼んだわよ、ウィリアム」
傷を負い、軍人として使いものにならぬと放逐され、【荊の淑女】に拾われた男はこみあがるものを堪えつつ、深々と頭を下げた。
「…最後の忠義を尽くさせていただきます」
「まあまあ最後だなんて、縁起の悪い!」
金色の瞳を盛大に潤ませ、アンナがつとめて大袈裟な声をあげる。
「奥様、わたくし達はあちらでいちまでも奥様をお待ちしておりますからね!奥様のお好きなジンジャープディングを毎日お作りして!」
ローズは曖昧にうなずいて、別れを惜しむかつての使用人たちを送り出した。
とたん、静まり返った邸宅をぐるりと見渡し、脱力したようにカウチに腰を落とす。
ぼんやりと庭の薔薇を見ていたローズだが、ふと低く嗤い始めた。最初は小さく、しばらくしてそれは哄笑に取って代わられた。普段の彼女を知る者がいれば目を疑っていただろう、ありえない姿だった。
「ふ、く、…はは…!」
ようやく笑いを収め、ローズは窮屈な襟の釦をはずした。
やっと、やっと長い茶番劇を終わらせる事が出来た。
自分は両親のように、そしてこの国で獣人を踏みにじって生きている人間のようにはならない。嫌悪してやまないこの国に留まる事を決めた時、ローズはそう自身に誓った。
差別を当然としている輩と、この国の住人になんと言われようとかまわない。彼らこそが、時流に取り残されているのだ。
―――そう遠くないうちに、この国は崩壊する。それは先見の明のあった小父も言っていた事。ローズもまったくの同感だった。
獣人たちを搾取するこの国で、影に日向に、ローズは出来うる限り獣人の庇護に努めた。この国の指針と逆行し、そのうえで国の滅びを見届けてやる。それがローズの両親と、彼らのいびつさを育んだこの国への復讐だ。
復讐を遂げてこそ、真実ローズは過去から解放され、生まれ変わる事が出来るのだ。
悪夢も過去も、すべてこの国に捨てていく。ローズの新しい生への、今日はめでたい門出だ。
未来の為に、ローズは準備を欠かしていない。財産のほとんどは中立国の金庫にあずけてあるし、彼の国への永住権も取得済み。小父には申し訳ないが、ローズはそこで新たな事業を始める気だった。
「…ごめんなさいね、アンナ。ジンジャープディングは食べに行けそうにないわ」
そもそもなにを勘違いしているのか、ローズはジンジャープディングが好きではないのだ。出されたから食べていただけ。この国ではおおかたのものがローズの苛立ちを誘うものばかり。
きっと精神的なものだろう。ならば国から出れば、さまざまなものに好意を抱けるようになるはずだ。
その前に、従業員たちの処遇だ。退職金は十分すぎるほど用意してある。ドランディード社で働いていたというのなら、色眼鏡をかけていない勤め先であればそれが好印象を与えるだろうが、果たして再就職を斡旋してこの国で食っていけるだろうか。
…やめよう。
今日はもうなにも考えない。せっかくなのだ、祝杯をあげて、ぐっすり眠って。明日考えればいい。
大きく伸びをしつつ、ローズはカウチに倒れ込んだ。長い時間かけ、やりきった満足で知らず口元が緩む。
うっとりと目を閉じ、このまま睡魔に身を委ねてしまおう、とローズが身体から力を抜いた直後だった。
―――「ご機嫌だね、ローズ」
突然の声にぎょっと目を開けると、ルナールがローズをまたぐ格好でのしかかっていた。反射的に起き上がろうとするが、ルナールの手がローズの腕をカウチに縫いとめているため果たせない。
混乱するローズを見下ろし、ルナールがにっこりと笑う。カウチの傍には、東方の花が象嵌された長方形の小箱を持ったアーサーがおっとりと微笑み立っていた。
「ふふ、ローズ、びっくりしてる」
「な、なんで…。ウィリアムと…」
共に行ったのではないかと、ローズは勝手に解釈していた。軍勤めだったウィリアムは与えられた仕事をきっちりとこなす男だ。だから…
ルナールはちょっと首を傾げたが、子供の頃とおなじ笑顔で「ああ」とうなずいた。
「僕とアーサーはローズと一緒にいるって言ったんだ。僕らがローズを守るからって。そしたらウィリアム、頼むって頭下げて行ったよ。ウィリアム、ローズにすごく感謝してた」
「……!!」
こればかりは子供の頃とちがう、男の力でルナールはローズを無理矢理起こすと、背後から抱きしめた。ゾッとローズの肌が粟立つ。
「はっ…放しなさい!!」
「やだよー。ローズ、柔らかくてあったかい。…いい匂いする」
ローズの首筋にルナールの唇が押し付けられる。あまりの事にローズは悲鳴をあげる事もできず、必死でもがくが、ルナールの拘束はびくともしない。ルナールにはなにを言っても無駄だと悟り、ローズは涙目でアーサーに助けを求めた。
ローズの懇願する眼差しにすこし目を見開いたアーサーは、苦笑してゆるゆると首を振ると、カウチの前にしゃがみこんだ。大きな手が、強張ったローズの頬をそっとすべる。
「おまえが悪いんだぞ、ローズ。俺たちを裏切ろうとするから」
慰める表情と口調で、しかしアーサーはローズを柔らかく弾劾した。
「うらぎ…、なに…?」
「1度目はまあ許すよ。状況が状況だったし、きちんと帰って来てくれたからな。でも今回のは無い。俺たちもさすがに頭にきたよ」
「なっ、なによそれ!!」
アーサーの指が頬から首、そして胸元に降りていく。【雄】の気配のする指先に心底震えながら、ローズは金切り声をあげた。
「わたしがどうして裏切った事になるの!わたしはお父さんとお母さんとは違うわ、【使用人】としてあなた達を尊重してきた!!こっ、今回の事だって、この国はもうだめになるから、獣人の差別の少ない国でやり直せるように計ったじゃない!!それなのに…」
「ぜんぶ自分がやり直す為だろ?」
子供の癇癪を見る大人の目で、いっそ優しくアーサーはローズをさえぎった。
「ローズは女の子だから、ちょっとくらい利己的で計算高くていいよ。それくらいじゃ、僕らはローズを嫌いにならない。でもその計算の中に、いつだって僕らを組み込んでくれなきゃ。ね、僕ら、ずっと一緒だって言ったじゃない。ローズがそう言ってくれたから、僕ら【どんな事】だって耐えられたんだよ?」
凍りつくローズに頬をすり寄せ、彼女を拘束したまま、ルナールは器用に右手の黒い手袋をはずした。目の前に晒されたものに、ローズの身体が跳ねる。
ルナールの右手は醜く欠けていた。人差し指と中指は木製の義指だ。掌の肉もえぐれ、火傷の痕もひどい。
「ローズがいなくなっちゃって、僕すごく寂しくて死のうと思ったんだ。兎でもないのにね。でも銃が暴発して死ねなくて、あ、頭にも傷が残っちゃったんだよね。これ」
ルナールが艶々とした柑子色の髪をかきあげれば、こめかみあたりに引き攣れた傷痕があった。言葉を無くすローズを、ルナールは全身で抱きしめる。
「怪我をした時は痛くて痛くて、ほんと、どうして死ねなかったのかなって何度も思ったよ。アーサーはずっと側で小言ばっかりだしさぁ」
「自分でやったくせに、泣き言ばかり聞かされていたこちらの身にもなってみろ」
アーサーがむっとして反論すれば、ルナールは「ごめんね」と耳を下げた。
「でもローズが帰って来て、やっぱり死ななくて良かったって。寂しがり屋のアーサーを独りにしないですんだ。ね、ローズ。みんなみんないなくなったよ。これからは3人だけだ」
冗談じゃない。そう言いたいのに、狂気すら孕んだルナールの笑顔にローズの声は出ない。
がたがたと震えながら涙を流すローズに、ルナールはますます笑みを深くする。
「嬉しいな、泣き虫ローズが帰ってきた。でも、ね、…まだ足りない」
ルナールの手がローズの口をふさいだ。そのままアーサーに向けて剥き出しの首が晒される。
「…!?」
ローズの視線の先では、アーサーが小箱から注射器を出していた。慣れた手つきでアンプルの薬液を注射器に吸わせる。
「ん、これ?」
空気が入っていないか針の先から薬液を出して確認し、アーサーはローズの首に指を這わせる。
「平たく言えば、媚薬とか催淫剤の類だな。最初の頃は俺たちもこれを打たれてたから、そんな害になるもんじゃないよ。大丈夫」
「―――!!」
「ねぇ、よく言うでしょ。相手の身になって考えてみなさいって。あれってさ、結局無理なんだよね。同じ目に遭わないと理解できない。きちんと体験しないと、その瞬間は同情しても、すぐ忘れちゃうんだ」
くぐもった悲鳴をあげ、どうにか逃れようともがくローズを苦も無く拘束し、ルナールは溜息を吐いた。
「ローズはさ、僕たちと全然ちがう場所に立ってるって、そう思ってるみたいだから。僕らとおなじ場所まで引きずり下ろしてあげる。そしたらきっと、僕らの事も理解できるようになれるよ」
いやだ。やめて。そう言いたいのに、声は出ない。例え出ていたとしても、ふたりは平然と笑いながらローズを貶めるだろう事は想像に難くない。
―――「堕ちておいで、ローズ」
優しく優しく、アーサーが囁く。
ローズの首に刺さった針は冷たく、流し込まれる毒は熱い。
ルナールのはしゃいだ声を聞きながら、ローズの意識は絶望に染まっていった。