薄紅の薔薇
薄紅の薔薇の花言葉:【温かな心】
故郷を出たローズは自国がひどく閉塞した場所なのだと知った。
小父につき、隣国でさまざまな人と出会うことでローズの呼吸を奪っていたものは霧散した。新しい生活はローズの視野を拓き、時折届く両親からの手紙が一時的に彼女の視界に闇をもたらしても些末なもの。読まなければいいだけだ。
ローズは自身を練磨する事に全力を注ぎ、それは知識というかたちで身についた。
もはや国に帰る事など考えていない。小父は正式にローズに事業を譲る事を打診してくれた。自分はこの新天地で生まれ変わった。ここで生きていくのだと、完全に故郷を捨てようとしていた矢先。
ローズの両親が取引先で事故死した報せが届いた。
呆然とするローズを、悲しみゆえだと思ったらしい。小父は慌てて船の切符を取り、ローズを故郷に帰した。
久々に踏んだ故郷の土は冷たく、空気は冷えて乾いていた。港から辻馬車に乗り込み見た路地には浮浪者がうずくまり、景色は薄茶けてくすんでいる。
灰色の雲がどんよりと垂れこめた曇天のせいだけではあるまい。…記憶にあるよりもはるかにうらぶれた故郷の有り様に、ローズは戦慄した。国全体が、端から色を無くしていっている、そんな印象だ。
実家に帰れば、船旅のローズの到着がいつになるかわからぬゆえ、両親と交流のあった事業主や近所の住人が葬儀の準備を整えていてくれた。喪服を纏い、憔悴した様子で牧師の言葉を聞くローズの姿に、参列者はハンカチで涙を押さえる。
参列者は皆、両親の早すぎる死を悼んでくれたが、正直彼らの口から語られる両親の為人が真実なのか、ローズには計りかねた。
―――だって、わたしに隠れて「あんな事」をしていたのに。
両親の死はもちろん悲しむべき事だ。だがそれ以上に、ローズは安堵していた。もう彼らの行状を勘繰らずにすむ。彼らは真実過去のひととなったのだから。
…そんなふうに考えてしまう自分の歪みに、ローズは自嘲を禁じ得ない。
葬儀を終え、家路についたローズを迎えてくれたふたつの影に彼女は震えあがった。
葬儀の時には姿も見せなかったアーサーとルナールが揃って玄関に立っていたのだ。
離れて過ごした時間は、彼らを翳りを帯びた美しい【雄】にしていた。過去の悪夢の具現は、まるでそれまでの時間を取り戻そうとするかのようにローズ凍りつくを抱きしめた。
「ひっ」とローズの咽喉が引き攣れた音を放つが、ルナールは頓着しない。乾いた黒髪に愛おしそうに頬を寄せられ呼ばれる名は、ローズには呪詛のように響いた。
「ローズ、ローズ…!会いたかった…!!」
ルナールの熱を孕んだ吐息が耳にかかり、ローズの脳裏にあの初夏の夜がよみがえる。
瞬間、ローズの咽喉は悲鳴をあげ、腕はルナールを突き飛ばしていた。
よろめいたルナールだけではない。やや離れた場所で微笑を浮かべ静観していたアーサーもまた、信じられないものを見る目でローズを凝視していた。
ふたりの被害者面と咎める眼差しに、ローズの脳が沸騰した。
そして、気付けば吐き捨てていた―――気持ち悪い、と。
ひとが希望から絶望の奈落に叩き落される様を、ローズは初めて目にした。
彫像のように動かなくなってしまったふたりの間をすり抜け、ローズは自室に飛び込んだ。
やはり帰ってくるべきでは無かった。ルナールの感触の残る腕を擦りながら、ローズは破れるほどに唇を噛み締める。
葬儀は終わった。明日にでも船の手続きをして国を出よう。両親の会社は誰かに譲って、この家はアーサーとルナールに残せばいい。
この国にはもう帰らない。
ローズの思いをよそに、海は大荒れ。これでは出航できない。自室に閉じこもり苛々と爪を噛むローズに来客が告げられた。
客は両親の商談相手だった男だ。男は取ってつけた悲哀で今回の不幸を悼み、「非常に心苦しい事だが」ともったいつけて前置き、ドランディード社との取り引きを打ち切る旨を伝えてきた。
別に驚く事も無い。隣国で小父に就いて事業の手伝いをして信を得ていたにしろ、ローズはこの国ではまったく実績の無い小娘だ。ローズを傀儡にしてドランディード社を乗っ取ったとしても旨味は少ない。
男はローズがまったく動揺しない事に鼻白んだが、すぐに親切ごかした笑みを浮かべた。猫撫で声で告げられた内容に、ローズの肌が総毛立つ。
アーサーとルナールを譲れ、と目の前の男は恥知らずにもそう言ったのだ。未婚の若い娘が年頃の【雄】の獣人をそばに置いておくのは世間体が悪いだの、これから経済的に苦労するかもしれないから食客を減らしておいた方がいいだの。口先ではそう言いつつ、男の目は欲に淀んでいた。
この国にも隣国にも、扱いは違えど獣人はいた。だがアーサーとルナールほど美しい獣人はそうはいなかった。
アーサーとルナールは立場的にはローズの【所有物】だ。ローズの意志ひとつで、彼らは目の前の男の奴隷と成り下がる。それは、ローズが所有権を放棄してもおなじ。
―――わたしは両親とも、この国の豚共とも違う!
「…お話はそれだけでしょうか」
どこまでも静かで冷ややかな―――のちに【荊の淑女】と呼ばれるに相応しい口調で、ローズは目の前の男を切って捨てた。腹にはどろどろとした溶岩のような憤怒が渦巻いていたが、ローズの血色の悪い顔は氷のような無表情だ。
「ご親切にありがとうございます。ですが、お話はお受けできません。ご理解いただけたようでしたら、お引き取りを」
「ぇ、あ、ミス・ドランディード…」
―――「お引き取りを」
ローズは無礼にも立ち上がると、刃物のような目で男を見下ろした。
後悔するだのなんだの男は唾を散らしながら去っていったが、それまでの取り引き先が無くなるのはローズにとって逆にありがたかった。
…これからドランディード社は【外】に打って出るのだから、国内から身に覚えのない恩を売られても困るだけだ。
ローズは小父に手紙を書き、ドランディード社を継ぐ旨をしたためた。ひとの善い小父はローズの決意にいたく感銘し、「すこし残念だが」と本音をこぼしつつ、協力は惜しまない事を伝えてくれた。
小父の言葉はすぐに実行された。自身の伝手、ローズが隣国で培った人脈を駆使し、ドランディード社に商談を持ち掛けてくれたのだ。小父の援助と、それまでの経験を生かし、ローズは先方の依頼に完璧にこたえた。
国内の不景気は今に始まった事ではない。ローズは取り引きを他国に絞る事によって確実な利益を出し、業界で確固たる立ち位置を得る事に腐心した。
その間にもローズはアーサーとルナールとはきっちりと線を引き、自分たちの関係はあくまで【主人】と【使用人】であると明言した。名前で呼ぶ事はもちろん、馴れ馴れしく接触してくるなどもってのほかだ。
思い出が悪夢で塗り潰された実家は早々に売却し、新しい邸宅でローズは放逐された獣人たちを雇い入れた。奴隷ではない、【使用人】として。
ローズの念願が叶うまで、薔薇の咲き誇るドランディード邸は人間の女主人と獣人たちが歯車のように、淡々と己の務めを果たす箱庭となった。
*
「―――っ…!」
うたた寝から覚醒し、ローズは思わず周囲を見回した。窓の外では相変わらず小雨が降り続け、静かに大地を侵食しようとしている。
ソファの肘掛けにもたれて眠っていたらしい、ローズのそばにはブランケットを持ったアーサーが立っていた。
「…お疲れのようです、奥様。着替えをなさって、寝室でお休みください」
急に頭を動かしたためか、軽い眩暈がする。額に手をあて、ローズは力なくうなずいた。
どっしりとした色で統一されている書斎に一点、陶器の花瓶に挿された一輪の薄紅の薔薇が視界に飛び込んでくる。とたん、ローズは表情を険しくした。
ルナールだ。すでにローズにとって薔薇は嫌悪の対象だ。だがルナールの新種の薔薇を咲かせたいと願っているから、不快を承知で許してやっているというのに、…当てつけにしか思えない。
薔薇は色や本数によっても花言葉が違う。薄紅の薔薇の花言葉は、【温かな心】。
ぎり、とローズは唇を噛んだ。完全に当てつけだ。
「あの薔薇は処分なさい。書斎には不要だわ」
アーサーは唇を震わせたものの、すぐに首肯した。
「…猫のきょうだいですが、取り敢えず、ルナールのもとで庭師として働かせてみるとのことです」
「それは必要な報告なの?わたしは一切関知しないと言ったはずだけれど」
わずらわしげな、舌打ちせんばかりの女主人の様子に、アーサーはぎくりと顔を強張らせ、頭を垂れた。
「…申し訳ありません」
「……」
無言のまま、ローズは追い払うように手を振った。ブランケットを持ったアーサーが退室するのを待ってから、大きく息をついてソファに身を沈める。
…もう少し。
もう少しでこの泥沼から這い出る事が出来る。