死闘
夜のとばりが廃砦を静かに包み込む。
照明施設など有りはしないこの場所だったが、まったくの暗闇というわけでも無かった。満月の夜のようなやさしい光が周囲を照らしている。
テオロニアの空に月は存在していなかった。しかし、代わりに小さな衛星たちの帯、サテライトベルトがこの惑星の周りを回っている。そのサテライトベルトが太陽の光を反射して、やわらかな光の河を星空に描いていた。
そんな見るものを思わず感動させるような、幻想的な夜空の光景も、今この場所で見ることができるのは草原を奔る一匹の獣だけだった。獲物にしか興味を示さないその黒い魔獣は、夜空になど見向きもせず、ただひたすら一直線に廃砦を目指していた。
ゾクリと背筋を駆け上る寒気に、ハルカは目を覚ました。
何かが自分を狙っている。この体の持つ能力が直感という形で彼女に危険を知らせていた。
ゆっくりと起き上がり、すり足で音を立てないよう部屋から出る。通路の窓からは薄っすらと明かりが差し込み、ほのかな光と濃い影のコントラストが壁に美しく描き出されていた。
そこを何かの影が過ぎる。ハルカは立ち止まり周囲に神経を張り巡らせた。
不意に背後の暗闇から、うなるような音と共に何かが伸びてきた。体を傾けてそれを躱すと、そのまま窓の縁に手をかけ外へと飛び出る。そこから十分な距離を取ると、暗く影になった窓の奥を睨み付けた。
そいつは影からするりと出てくると、窓の縁にちょこんと四本の足を揃えて座った。全身は真っ黒だ。なぜ先ほどの攻撃が外れたのか解らない…とでも言いたげに首をすこし傾ける。ひとしきりハルカを眺め、優雅に四肢を動かし窓の縁から飛び降りた。音は全くしなかった。
その獣の体色と軽やかな身のこなしは、地球の生物でいうクロヒョウを彷彿とさせた。ただし造りは随分と違う。鼻面から尻尾の先までを鱗の帯が覆い、前足と後ろ足にも手甲と脛当てのような鱗が存在した。まるで鎧を纏った獣だ。さらに尻尾の先の鱗にはトゲがあり、もし直撃でもすればタダでは済みそうになかった。
ハルカは腰の木刀とサバイバルナイフを抜き、構えた。
前に突き出されたナイフを魔獣はじっと見る。動きは無い…いや、その場で小さく上に飛び跳ねた。
トリッキーな動きから、しなる鞭のように振られた尻尾がハルカに襲いかかる。彼女はサバイバルナイフを一閃させ、それを叩き落とした。
右手に伝わる硬い感触にハルカは眉をしかめる。このナイフではあの鱗を貫けそうに無かった。下手をすると刃こぼれするかもしれない。彼女は左半身を前に出し、手にした木刀を魔獣へと向ける。
魔獣はボクサーがステップを踏むように、その場で跳躍を続けていた。尻尾がそれに併せて不規則に揺れる。攻撃の起点を分からなくさせるための理に適った動きだった。
ヒュンと尻尾が唸りを上げて飛来する。ハルカは木刀を使いほんの僅かにソレの軌道を逸らせてやる。
言葉にすると簡単だが、実際にやるとなると神経をすり減らすような繊細な業が必要とされる、そんな攻防だった。それをもう何度も何度も行っている。彼女の持つ木刀は真っ正直に打ち合っていないとはいえ、激しい打撃に至る所を削られて、折れていないのが不思議な状態だった。
(隙がない…)
彼女が狙うのは鞭のような尾の攻撃を掻い潜ってからの、鱗に守られていない急所への一撃だ。しかし、敵はいまだに最初の場所から動いていない。うかつに踏み込んでも軽く躱され、手痛い反撃を受けるであろう事は火を見るより明らかだった。
(でも、このままでは勝機がない…まともな剣さえあれば…)
ハルカはさらに木刀の動きを最小限に抑えた。今まで彼女の体に触れることの無かった尾の攻撃が掠る様になり、傷を付け始める。
そしてついに魔獣の攻撃が彼女を完全に捉えた。そう思われた瞬間、その動きのあまりの早さに彼女の体がブレたように霞んだ。
彼女は攻撃をあえて左肩で受け、流した。申し訳程度に付いていた薄い肩の装甲が弾け、尻尾がそのまま後方へと飛ぶ。一歩、さらにもう一歩踏み込んだハルカは魔獣の頭部に向かって木刀を振り降ろした。
初めて魔獣がその場所から動く。それを追いかけ彼女のナイフが喉元を狙い、届かず数本の体毛を切り取るに留まった。
ハルカと魔獣はその場所を入れ替えて再び睨み合った。
左肩が痛い。動かすのに支障はなさそうだが、痛みが改めてこの世界が現実なのだと彼女に訴えかける。こんな異世界に放り出され、そして見たことのない獣と命のやり取りをする。ここに来るまでを思い返すとなんだか笑えてきた。
レベルも低くスキルも無い、こんな状況でも今までゲーム内で、現実の道場で、積み重ねてきた経験は彼女を裏切らなかった。
「すぅ~~~~っ、はぁ~~~~~~」
大きく深呼吸し、心を落ち着かせる。こんなところで死ぬつもりは毛頭なかった。
楽しかった。全身を快感が駆け抜ける。こんなにも充実した狩りは初めてだった。
しかし、それももう終わらせなければならない。もうじき夜が明ければこの体も動きが鈍る。そろそろ獲物を引き裂こう。黒い魔獣は決めた。
ハルカは再び左半身を前にし、木刀を中段に構えた。それに対し、魔獣は体を低くし、尻尾を左右へゆらりゆらりと振る。
数秒か…、あるいは数分か、時が過ぎる。張り詰めた空気の割れる音が聞こえた…気がした。
魔獣が左右にステップを踏みながら距離を詰める。尻尾が自在に位置を変え、上下左右から彼女の隙を狙い襲い掛かる。ハルカは後退しながら木刀でことごとくその攻撃を受け流した。
しかし、ついに強度的限界に達した木刀が、握り手の少し上から縦に裂けて吹き飛んだ。尾の先についたトゲが勢いのまま、彼女の手の甲から肘にかけて切り裂いていく。少し遅れて血飛沫が上がった。
(いける!)
激痛に顔を顰めながらも魔獣の懐に踏み込んだハルカは、そのまま爪先を蹴り上げた。
予想外の動きに魔獣は体を捻って蹴りを避けながら跳躍する。ハルカもまた上半身を捻り、左足を軸に体を反転させると、蹴り上げられた足の軌道を強引に曲げた。爪先が魔獣を追い、ついに頭部を捉えた。
突然の足技に驚かされたが、所詮は軽い打撃だった。蹴り飛ばされながらも、彼は空中で体を回転させ、四肢で大地を掴んで着地した。双眸を正面に向ける。が、すでにそこに彼女はいなかった。
視線を素早く左右へと走らせる。左からギラリと光る刃が弧を描いて迫っていた。それを軽く躱し、大振りし、隙だらけな彼女の背中に攻撃を加えるべく、尻尾を鞭のようにしならせた。ふと視界に何か黒い点が迫る。それは裂けて尖った木刀の先端だった。死角から放たれた彼女の鋭い一撃に、左の視界が消失した。
痛みに我を忘れそうになりながらも、尾を振りぬく。彼女には当たらなかったが、追い打ちは防げた。
不覚を取った。その事実に狂おしいほどの憎しみが溢れ、身を焦がす。すでに彼女は次の攻撃の動作に入っていた。このままであれば彼女のナイフが自分の喉に突き立てられる。それは許せなかった。
「グルゥラァッ、ルゥアァ~~!!」咆哮が辺りに響き渡る。
彼女よりもさらに早い一撃を叩き込む。彼は四肢を踏ん張り、真後ろに伸ばした尾に力を込めた。
黒い魔獣が野太い咆哮を放った。ハルカの繰り出した最後の渾身の一撃は、すでに魔獣の急所にあと僅か、と迫っていた。しかし、それを凌駕するスピードで繰り出された魔獣の尾の一撃が先に彼女に届く。否、届くかに見えた。
「ーうおぉおおぉおおおぉ~~~~~~~~!!」
ハルカが雄叫びをあげた。
この攻撃が先に届く。必ず!
ハルカの視界の隅にレベルアップを知らせるシステムメッセージが表示された。同時に刃が閃光を放ち、加速する。それは一瞬で残りの空間を駆け、魔獣の咢を切り裂き、咽頭を突き抜け脳を破壊した。
その衝撃で彼女の頭部を狙った魔獣の一撃は軌道がそれ、右脇腹の肉をえぐりながら背中へと傷をつけるにとどまった。
なんとか勝った…。
黒い魔獣が息絶え、地面に倒れ込むのを眺めながら、ハルカはゆっくりと膝をついた。
右手で押さえた脇腹からは血が絶え間なく流れ、足元に血だまりを作る。
彼女の視界に表示されているHPとEPのゲージはともにゼロに近い値になっていた。
「さすがに…やばいかも」
傷はともかく、血が流れすぎている。止血するものを探さなければ。彼女はのろのろと立ち上がり廃砦に向かって歩き出した。
「…あ、れ?」
しかし数歩も進まないうちによろけ、近くにあった木の幹に手をつき倒れ込む。
「おか、しいな…」
ハルカの意識はそこでぷっつりと途切れた。
黒い魔獣はこの惑星のエネミーのなかでは雑魚と言っていいです。ハルカと戦った個体は同種族の中では強い方ではありますけど。