イースターエッグ
陽一が、説明するのも憚られる様な変態行為に勤しんでいる時だった。
突然、頭の中がぐわんぐわん振動し始め、意識の輪郭がぼやけていくのを感じた。
「うおっ」
この新しいやり方は当たりだったな、もっともここまでやるにはえらい手間がかかるんだから当然だけどな、などと快楽の中で自分の行いを見つめ返していると、やがて視界が途切れた。
そして次に錐体細胞が光を受け取った時、陽一は変態行為を続けるのを中断して、口をぽかんと開けた。
今の今まで山中の鉄塔にぶら下がっていたはずなのに、気が付くとまったく知らない部屋の中にいたからだ。
陽一はパニックに陥って辺りをきょろきょろ見回した。自分がどこにいるのか分からなかった。病院? まさか。
陽一にはこの場所がどこかまるで見当がつかなかった。調度品の類が一切なく、あるのは壁に引かれた長方形の線だけだった。
光源がどこかも分からないのに部屋の中は隅々まで明るい。空気は、漂ってくる自分の体臭を除けば清涼だった。
陽一はおもむろに立ち上がって、警戒しながら壁に触れた。触れた事のないような材質で、戸惑った。ひんやりと冷たく柔らかかった。壁は掌に吸いつくようだ。驚いて腕を引き、自分の掌を眺めたが何も付着していない。わけのわからぬまま、とにかく他の部分と違う場所まで行ってみようと考え、壁沿いに歩き、長方形の線の場所まで辿り着いた。
「これが出入り口かな……?」手を伸ばしてその場所に触れると、もう一度あの振動が脳髄を伝わった。それは不快ではなかったが、かといって気持ちよくもなかった。
振動がやみ、次に気が付くと今度は広い空間にいた。しかし先ほどとは違い、そこには三人の人間がいた。
「おい、また新たな変態が来たよ」その内の一人の白人男性が陽一を指さした。
なんで変態がばれたんだ、と陽一は狼狽したが視界の隅に、まろび出た自分のものが映ったのですべてを理解した。陽一は裸だった。急いで手をやって隠すも、隠れきらない。
すると別の白人の男が笑った。「いや、違う。あんたが変態なのを知ってるのは、あんたが裸だからじゃないんだよ」
「とにかく服を来てもらわなきゃ」褐色の肌をしたアジア人だと思われる女性が、指を鳴らすとバスローブが中空に生じ、床に落ちた。
「いいじゃないか、変態同士」
「私は変態ではないわ」
陽一は一連の会話の意味を把握しかねていた。変態という単語が何を指すのかもわからなくなってきた。
「あ、あの、これはどういう……?」陽一はバスローブを素早く羽織って、それから聞いた。
「あんた名前は? 俺はクレメンス」最初に陽一に変態のレッテルを張った白人が質問する。
「あ、木原……陽一です」本名を名乗るべきか逡巡したが、結局偽らず答えた。
「じゃあ陽一、イースターエッグって知ってるか?」
「え?」
「イースターエッグ。復活祭の方じゃなくて、ソフトウェアなんかの方の」
「……えーと、ちょっとわからないです」
「そっか、じゃあなんか例あげてみるか。うーんと……」クレメンスのシンキングタイムが始まる。時間がかかっている所を見る限り適切な例が引き出せないようだ。
「Excel」アジア人の女性が呟いた。
「そう、Excel! ああいうソフトウェアには時々隠し要素があるんだ。普通に使ってたら絶対しないような操作なんだけど、それをすればユニークな機能が使えたりするようになるっていう」
「隠しコマンドみたいなものですか?」
「そうだ。ソフトウェアの隠し要素だな」
なるほど、と陽一は頷いたが、しかしその豆知識が、今の状況とどう繋がっているのかわからなかった。
「それで、ここはどこなんです?」
「だからここがそのイースターエッグさ」
「はい?」
「陽一、お前山の中の鉄塔にぶら下がって、その――色々してただろ?」
「してません!」陽一は叫んだ。そこまで具体的な指摘に対してしてませんも糞もなかったが叫んだ。反射だった。
「隠さなくていいんだ、ここのやつらみんなお前と同じ事してたんだから」
「え?」
「いや、だから俺たちみんな同じ種類の変態なんだよ」
「あたしは、元々その時付き合ってた彼氏の性的嗜好に――」アジア人の女性は口を挟んだが、クレメンスは遮った。
「あのな、ここは地球のイースターエッグなんだ」
理解が追いつかなかった。陽一の現実認識の範囲からするとこれは夢というのが一番近いように思われた。よく考えてみるとここの連中は日本人にはとても見えないのに流暢な日本語を使っているし、この部屋の漂白されたような白さ、曖昧さといい現実味は限りなく薄かった。夢の感触を確かめるように宙で手をぶんぶんかき回す。しかし何も掴む事は出来ない。
「夢じゃないからね、一応」クレメンスではない方の白人男性が言った。「なかなか信じがたいとは思うけど」それから指をパチっと鳴らす。「まあ何か飲みなよ」
陽一は空中でピッチャーからコップに水が注がれている光景を見た。やがて水を一杯まで注がれたコップはいそいそと陽一の方向へ向かってくる。陽一はそれを受け取り、訝りながらも口をつけた。普通の水だった。どうせならコーラがよかった、と陽一は思ったが口には出さなかった。
「纏めて言うと、要は普通ならしないような変態行為が隠しコマンドだったわけだ。だからここにいるのはみんな変態行為を行った人間ってこと」クレメンスが説明する。
陽一は三人の顔を順番に見た。誰も変態には見えない。むしろ至って標準的な顔をしているように思う。もっとも陽一も職場では真面目な人間として通っているから、変態というのは案外見分けるのは難しいのかもしれない。
「今は俺たちしかいないけど、もう二十人ほど国際色豊かな変態が揃ってるよ」クレメンスじゃない方の白人男性は言う。「俺はベルト。よろしく」
便乗してアジア人女性も口を開く。「私は名乗りたくないから、Aとでも呼んで」
「あ、そういえばどうしてみんな日本語を?」
「日本語じゃないさ。すべての言語はここでは異空間エスペラントに翻訳される。それはどんな人種にでも即時理解可能な言語なのさ。意識しないと気づかないだろうけど」ベルトは言った。
「あーあーあー、本当だ」何度も口に出して確認し、陽一は感心する。「不思議ですね」
「不思議といえばこの空間が全部不思議さ。望めば大抵の事が適う。オーダーするだけで服や飲食物を作り出すことができる。Aやベルトがそうしたように」クレメンスが言った。「変態器具もな」
「へえ」平静を装いつつも、陽一の脳内は変態器具に関しての興味で占められていた。
「早速何か試してみるか?」
「あ、でも、もう日が暮れるから帰らないと。これから夜勤なんです」
「仕事前にあのプレイとは、なかなかハードワーカーみたいだな」クレメンスが笑う。
陽一は顔を真っ赤にしてうつむく。
「むしゃくしゃしてたんです」
「仕事に?」
「仕事というか生活全部ですね」
「わかるよ。俺も三ヶ月前仕事はクビになったし彼女には振られるし散々だったんだ。仕事の待遇に対して一人でハンストしてたら本当に食い詰めそうになったって話さ。ハハハ」クレメンスは身の上話を披瀝する。
「それじゃあ今は求職中で?」
「いやもうこっちで暮らすことにしたんだ。いちいち鉄塔に登ってアレすんのも大変だし。ベルトも移住組さ。Aは一週間くらい来て、一ヶ月くらい間空けて、また来るみたいな感じかな」
「ちょっと! 勝手に個人情報晒さないでよ」Aが割って入る。「私は文筆業で快適な空間を確保するためにここに仕方なく来てるの」とにらむ様に陽一を見た。
「は、はぁ……」
「ここに来るには毎回あのコマンドを入力しなくちゃいけないってことさ」ベルトが補足する。
「なるほど」陽一は頷き、その拍子にまた時間の事を思い出す。「ああ、帰らないと!」
「仕事着に着替えていけば?」Aが提案する。
「どうやるんですか?」
「こう」
「なるほど」陽一は作業着をオーダーし、バスローブの代わりにそれを身に着ける。
「ある程度衣服なんかは持ち出しできるから、服代の節約にもなるわよ」
「ありがとうございます。それでは」
最初に陽一が入ってきた部屋――エントランス――に向かい、教えられたやり方で帰還をオーダーする。
「じゃあな、また来いよな!」屈託なくクレメンスとベルトは笑う。普段の生活でお目に掛かることが難しいくらいの無邪気さが見て取れた。
「どうも」一礼をする。そして意識がぐわんぐわんするのを感じた。
「あ、言い忘れてた!」意識が消える間際ベルトが言った。
「何を?」クレメンスが聞く。
「帰るとき出る場所は入ってきたときと同じ場所だってこ――」
*****
次に気がつくと鉄塔に宙吊りだった。「うわっ」と小さく声を上げたが、高所恐怖が股間に心地よかった。
辺りを見ると、行為を始めた時はまだ高かった日が、今はもう山際を赤く染めている。
陽一はゆっくりと鉄塔を降り始める。痛いのと死ぬのはいやだったからだ。
器具のいくつかは地面に落ちて壊れていた。意識が朦朧とした時外れてしまったのだろう。陽一の賃金に対してはまあまあ高いものなので普通なら声をあげるところだが、強いショックを受けた直後ということで無感動に終わった。
無言で後始末を終え、斜面を降りて、道路脇に佇む上等からは距離をとった感じのマイカーに乗り込む。キーを回し、アクセルを踏み込んだときやっとさっきのが夢だったのかどうかという疑問が湧いたが、今自分が素っ裸ではないという事実からして本当の事だったんだと少し興奮した。
けれども仕事に行かないといけないのでとりあえず考えるのをやめた。遅刻をしたくなかったのだ。
沿岸地帯に密集する工場群の中のひとつが陽一の勤めている場所で、その付近の景色を見るとなんだか嫌な気持ちになってくるので色んな道を通るようにしてきたがもう全部嫌な気持ちになる道になってしまっていた。
駐車場に車をとめ、まずは事務室でタイムカードに署名。弁当の欄には丸を書く。
ほとんど個人的な会話を交わしたことがない同僚や上司にすれ違うたび挨拶をして現場へ向かう。単純作業製造工場だ。ついでに色んな機械の部品も製造している。何に使うのかはあまり詳しくない。いずれにせよ工程は決まっているのでその通りやればいい。ただし機械を扱うので完全にボーとするのは不可能だ。あとオイルにすべって転ばないようにしなければならない。一昨日同僚が一人こけて、掲示板に「走らないこと、足元に注意しよう」と久々に書き込まれてあった。
この日陽一の頭の中を占めたのはイースターエッグのことと早く帰りたいということだった。
休憩時間450円のありがたいお弁当を食べ、工場内に設置された自販機の安いけどよくわからないメーカーの缶コーヒーを飲み、それから改めて帰りたいと思った。いつもと同じだ。単純作業や変わらない日常にはまったく頭がどうにかなりそうになる。変態行為で発散しないとやってられない。
終業の良い音色のチャイムが聞こえた時、もうすでにずいぶん眠くなっていたので、着替えと挨拶を適当に済ませてさっさと家に帰った。レトロな雰囲気をかもし出すアパートだ。家賃は安い。道路に面していて大概いつもうるさい。でも預金通帳と相談した感じでは仕方なかった。
部屋の中には誰もいない。両親はまだ健在だが仲が良くないので実家を出て一人暮らしをしている。彼女もルームメイトもいない。ペットはなんだか飼う気になれないし住処を失う危険があるので飼えない。もう慣れていたが時々とても寂しい気持ちになった。
唯一朝日だけがカーテンを通り抜け陽一におはようを告げに来たが、陽一は万年床の上でもうぐっすりだった。とっても疲れていたのだった。それでも朝日は粘り強く待ったが、結局のところ陽一が目を覚ましたのはお昼だった。
久々に熟睡したなあと睡眠の感想を述べながら布団から転がり出て、ガスコンロと片手なべと水道水を利用してお湯を沸かしてカップラーメンとインスタントコーヒーを作り、動作の重くなってきたパソコンでニュースなんかを確認しながら、時間を掛けて食べ終えた。それからシャワーを簡単に浴びて、準備をして外に出た。まだ仕事の時間ではない。つまりは陽一は昨日の場所へわくわくしながら向かった。
そびえたつ鉄塔を見ると股間もその形態模写を始めた。
車を降りてバッグを背負い、何食わぬ顔で山の斜面を登っていく。誰かに見られて自殺者と間違えられないように登山用の服をチョイスしてある。
近づかないでくださいの看板や柵は無視して、早速鉄塔ににじり寄る。予備の器具をうまい具合に体に身につけ、全裸になってから縄梯子で人力索道を作り、ゆっくり鉄塔に登ってからザイルを枠組みと自分の体に結び付けて痛くないよう緩衝材を患部に挟んでぶら下がる。そしていやらしいことを叫んだり、しながら快楽とザイルに身を任せると、頭がぐわんぐわんするのを感じた。
*****
「また来たの?」エントランスから出てきた陽一の顔を見るなりAはそう言った。「今日は裸じゃないのね」
「そんな非常識なことはできないので」顔を赤らめ、ぼそぼそと答える。エントランスでちゃんとまとも(に思える)私服に着替えてきていたのだ。
「あなたが常識をわきまえている人間で助かるわ」Aは明らかに皮肉をこめて笑った。一応自嘲の意味もあるのかもしれない。
その時ロビーのひとつのドアが開いた。
「陽一、また来たのか。うれしいよ!」クレメンスは大げさな身振りで感情を表現しながら近づいてきた。それを見てAはまたもとの読書に戻った。
「ハウアーユー?」と答えそうになったが、ここのルールを思い出して「どうも僕も嬉しいです」と普通に喋った。
「あんまり嬉しそうに見えないんだけど」
「すみません、顔にあまり出ないタイプなんです」陽一は本当に表情を作るのが苦手だった。
「そうか、今日は時間あるのか?」
「ええ、今日は三時間くらいあります」
「そいつはいい! じゃあ今日は俺が案内してやろう」
どちらかというと一人で見て周りたいと思ったが、「助かります」と陽一は答えた。
「そういや陽一、目にクマがあるな。眠れてるか?」
「え、本当ですか? 今日は結構寝たんだけどな。確かにいつも体は重いけど」自分の目の辺りを手で触るも、わかるはずがないことに気づき、鏡をオーダーする。
「お、もう覚えたのか。柔軟だな」
「あ、ほんとだ。ちょっと黒い」陽一は自分の顔に夢中だった。
「じゃあまずはメディカルルームに行こうか」クレメンスは言った。「体の悪いとこがほとんど治る」
「じゃあお願いします」病院的な響きに一瞬逡巡したが、そういえば肩こりもひどいなと思ったので素直に頷いた。
「こっちだ」
案内されるままエントランスから見て左側八番目のドアをくぐり、通路を少し歩いてL字を曲がるとまたいくつものドアが並んでいるのが見えた。
「うわあ広いなあ。迷子になりそうです」陽一は言った。
「道順はいつでも聞けるし、なにより本当は、個人所有の部屋以外は各部屋ワープできるんだぜ。やり方教えるのめんどうだから歩いたけど」
「そうですか」
「こっちだ」そう言うと手前から三番目の部屋にクレメンスは入っていった。
後を追って陽一が中に入ると、いきなり体が温まるのを感じた。
「うわあ」思わず声が漏れる。
「気持ちいいだろ。この部屋にいるだけで勝手に色々治っていく」
「もっと色んな機械とかあってものものしい場所かと想像してました」目の重みがとれてものがだんだんと明瞭に見えるようになってくる。
「こっちの世界は大概殺風景なんだよな。もちろんカスタマイズできるけどな」クレメンスはその場に座り込んだ。
陽一もつられて正座をする。
肩から疲れが吸い取られるみたいで陽一は思わず目を瞑った。
「あー、気持ちいい」
「ハハハ、でももっと気持ちいい部屋もあるんだぜ」クレメンスは陽一ににじり寄ってにやけた。
陽一は思わず身を引く。
「あ、すみません」
「ハハ、大丈夫俺はストレートだ。ベルトは違うけどな。まあいずれにせよその部屋では仮想のパートナーと理想のシチュエーションでプレイができるからぜんぜん問題ない」クレメンスは頭の上で指をくるくる回した。「それに別にいちいち謝らなくていいんだぜ。ここにいればみんなナチュラルフラワーチャイルドになれちまう」
「その部屋って今行けますか?」陽一の表情が喜色満面に変わる。
「もちろんさ、でもようやく笑ったな。いい笑顔してるぞ、このスケベ野郎」クレメンスは胴間声を作ってガハハと笑った。
「それはクレメンスさんもじゃないですか」
「ハハハ! こいつー」クレメンスはやにわに立ち上がる。ジーンズの中では鉄塔が建設中のようだ。「さあ行くか!」
「はい!」そう答えて、陽一は自らの声の明るさに驚いた。そして立ち上がると自らの鉄塔もとんでもないことになっていることに気がついた。
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陽一が本気で移住を考え出すのにそんなに長くは掛からなかった。本当は一週間も掛からなかったけど、いくら楽しいものではなかったとはいえ慣れた生活を抜け出すのも結構大変なのだ。だから一ヶ月程度は迷い続けていた。
しかし現実の生活に対して、イースターエッグでの触れ合いや設備はあまりにも輝いていた。
鉄塔変態プレイへの面倒な準備が少しも苦にならないほど、性的な面以外からもイースターエッグは楽しかった。みんな施設によって心が大方満たされているものだがら人間同士の軋轢やいさかいも少なく、人間関係が得意ではない陽一にもすぐに打ち解けることができた。クレメンスとはすっかり仲良くなっていた。友達を持つのは本当に久しぶりだった。
それに仮想パートナーによって性的に満たされたおかげか、だんだんと女性と話すのに恐怖を感じなくなってきた。一ヶ月毎日足繁く通った間、ロビーでいつも洋書を読んでいるAと話す機会が多かったが、言葉を交わすうち案外Aとは気が合うのではないかと思えてきた。陽一の感触によるとAも孤独を抱えているように思えたし、ほかのイースターエッグの住人(定住者は九人いる)とはなかなか心を許しきれていないようなそんな感想を持った。
ある時陽一は自分がAに好意を抱き始めているということに気が付いた。久々の感覚だった。職場に女性は事務の中年女性を除いていなかった。ちなみに陽一はベルトがクレメンスに好意を抱いていることにも気が付いていた。
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「もう休職願いだそうかな」とある日車の中、職場に向かう途中呟いた。「あ、それもしなくていいのかな、帰ってこないなら」
未練という言葉を発しても誰の顔も浮かんでこない。三つ下の妹も、骨壷につまさきをちょっと入れ始めた年齢の両親も、陽一にとってすれば血のつながった他人に過ぎなかった。高校卒業から三回転職して今すがりついている会社だって、正直に言ってもううんざりしてしまっているし、変態行為以外にこれといった趣味もない。せいぜい読書か。それだって大したことはないし、イースタエッグには膨大な量のあらゆる種類の蔵書がある。キーツの言う万巻の書というやつだ。でもにわか読書好きの陽一からすれば読みきれないことを嘆く必要もない。読みたいときに読みたいものがあるって嬉しいなという感傷とはかけ離れたお気楽さしかなかった。せいぜい住み慣れた場所への極かすかな未練があるだけ。
このあいだイースターエッグで一緒にボーリングを楽しんだとき会話したエルというフィンランドの大学生は、「こっちは素敵だけど、家族や学業のことを思うとずっと住むことは考えづらいわ」とぼやいていた。例え家族を連れてきたくても、他人に変態行為やイースターエッグのことを伝えようとする場合、何かに阻害されるみたいに意味自体を理解してもらえないようだった。それはここに来た全員に共通することで確からしい。陽一は試してないのでわからなかったけれども。
そしてエルは頬を朱に染めて「こっちに来るための儀式は大変だけど、それでもこっちも捨てられないのよね。いい場所だから。でも夏はいいけど冬の間は日本とは比較にならないほど寒いから困るわ」
フィンランドはロシアの隣の国で、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドで構成されるペニスみたいな形の北欧地形の金玉部分かなというくらいの地理的知識しかなく、「寒いの?」と聞くと「冬はとっても。でも日本でも冬はこっち来るの厳しいと思うわ」と答えた。一つの冬を越えてきた少女の主張には説得力があった。だから「そうだな」と陽一は思った。もう秋も近い。移住を選択するなら今かもしれない、毎日ぜんぜん楽しくないし今の自分の境遇はここへ移住するのを運命的に促しているのではないかとさえ思えた。
車を運転しつつ、海岸線沿いから反対の岸の建物の光をぼやーと眺めながらそんな回想していると、じゃあもう今行くべきなんじゃないか、という衝動に駆られた。不随意的に車を路肩に止め、指は携帯の電話帳を検索していた。
「もしもし、今日休みます。風邪です。ゴホゴホ」陽一は辛そうに装って言った。
「なんで間際になってから連絡してくるんだ! 病気ならしかたないけど、こっちだってラインが乱れるんだからもっと前に言ってよ」上司は苛立ちを隠さずそう言ってから「お大事に」と通話を切った。
「ばーか」陽一はなんとなく腹が立ってそう言ってやったが、もしまだ通話がつながっていたらどうしようと不安に思って確かめたがちゃんと切れていた。「ふう、準備しないと」
るんるん気分で家に帰って変態器具を整理する。あと持って行きたい物を集めるがそれほどないことに気が付く。いずれにせよ向こうで調達すればいい。適当にバッグに詰め、車を出した。晩夏の夜は裸になるにはちょっと寒いけどすぐに行ける。暖かい夢の国へ。
もう何度も繰り返した行為なのでスムーズに準備をし、夜闇の中なので足元にだけ気をつけ、変態行為を始めた。気持ちよかった。オーガズムはあっという間だった。――それから気づいた。まだ自分がイースターエッグに行けていないことに。萎えたものを無理やり奮い立たせもう一度始める。もっと激しく強く!
でもやっぱりここは肌寒い闇の中だった、体と息子はぶらんぶらん揺れるだけ。
「なんで……?」
陽一は絶望感に包まれた。
******
夜だったからいけなかったのかもしれない、そう強引に思い直した陽一は翌日の昼になってまた鉄塔に向かった。
準備は万全。確実にいつもと同じやり方になるよう注意を払って厳かに始める。
……やはり行けない。
イースタエッグに行けない。なんでだ! 滑稽なブランコのまま陽一は思索する。
やっぱり理由がわからない。
コマンドが間違ってるわけじゃない。もう五回は試したのだ。
全部妄想だった? そんなはずはない。絶対違う。
病気だったのか、そういう虚偽記憶を作る類の。絶対ない……とは絶対言えないが、でもないと思う。一応自分の思考はまだなんとか自分の管理下にあるように感じる。いやまあわからないんだけど、でも違うんだ。
陽一の「なんで!」、という問いには誰も答えてくれない。だから陽一にできる事といえば過去の記憶を辿ることだけだった。
*****
「ベルトさん、ここっていつからあるんですか?」それまで完全に目の前に展開される驚くべき出来事だけに視点がしぼられ、考えるのを忘れていたがここは一体どういう場所なんだろうか。ふとそう思ったので、野原フィールドでキャッチボールをしながら聞いた。たしか一週間前のことだった。
「さあ、僕も知らないな。でも一番年輩の移住者はソーニャさんだね。もう二十年はほとんどこっちから出てないって言ってたよ」
ソーニャさんはイングランド出身の五十代の女性で、あまり美人ではないが快活で若々しく見えた。でも大抵はいつも一人で自分の好きなレジャーを満喫しているらしくそんなに頻繁には出てこないとクレメンスが言っていた。レジャーとは彼女にとって眠ることだ。スリーピングルームでは望む時間だけ、健康に害が出ないように普通の睡眠時間をはるかに越えて眠ることができる。睡眠の質は最高で、勿論短時間でも心地よい芳香と空気に包まれながら熟睡することができる。陽一も二度ここで睡眠を取ったことがある。その時彼女にはじめましてと言ったのだった。
ともかくイースターエッグは二十年以上前からあるのは確かなようだ。
「すみません、ボール速すぎます」
「あ、ごめん」
ベルトの身体能力についていけずキャッチボールが辛くなってきたので、キャッチボールはやめた。
「お腹空いたね、何か食べない?」
「そうですね」
「何が好き?」
「カレー?」
「カレーってあの辛いシチューみたいなの?」
「そうです」
「じゃあ食べてみようかな、それを」ベルトはコマンドを入力する。「食堂行こうか。もちろんここで食べてもいいけど」
「いや食堂に行きましょう」
二人は食堂までワープした。
食堂には折り良くソーニャとクレメンスとあと名前をよく知らない人たちが三人がいた。
「お、朝食時は人が集まるね」クレメンスが言う。
「あ、そういえばここは何時なんですか?」
「一応グリニッジを採用してるよ。ソーニャさんが最初の移住者だしね。だから今は朝の七時だ。といっても時間間感覚狂ってる人も多いね、ずっとこっちにいたら時間なんて関係ないからさ」
「なるほど、ソーニャさんこんにちは」陽一は挨拶する。
ソーニャは骨付きステーキを貪るのに必死だった。でもちゃんと返事はした。「まだ朝よ。あたしからすればね。だからおはよう」
「あ、そうか。おはようございます。あのソーニャさん、聞いていいですか?」
「どうぞ」咀嚼をやめるつもりはないらしく、盛大に音を立てながら答える。
「ソーニャさん見てるとテーブルマナーと馬鹿らしくなるよな」とクレメンスが笑う。
笑っていいのか迷ったが、当のソーニャさんが笑うので陽一も笑った。
「あのですね、ソーニャさんって最初にここに来た人なんですか?」ヒヨコ豆のカレーをオーダーしながら聞いた。
ベルトも真似する。
「そうよ。あたしが来たときは誰もいなかった。あんまり他人と上手にやれるタイプじゃなかったから嬉しかったけど」
「おいおい、俺たちとは上手くやってないとでも言うのか?」クレメンスが茶々を入れる。
「馬鹿ね、あんたらは別よ。変態同士気が合うのかしらね」
変態一同どっと笑う。
「それでそれって何年前ですか?」
「二十五年くらい……前だったと思うわ。サッチャーの頃よ。ザ・スミスとか流行ってた頃」ソーニャは笑う。「テイクミーアーウってしょっちゅう歌ってたら本当にここに来ちゃったんだからお笑いよね」
「はぁ、それまでここには誰かいた跡とかなかったんですか?」
「たぶんね。よくわからないけどそう思うわ。正直その頃有頂天になってたから覚えてないの。んで始めはまだ向こうでどうにか仕事転々としてたんだけど、そのうち馬鹿らしくなってきちゃってこっちに来たの」
「不思議ですね」陽一は言う。
「何が? あたしがこっちに移住したのが?」
「いえ、それまで誰もいなかったのが」カレーを一掬いして口に運ぶ。辛い、がうまい。日本のカレーとは比較にならない。というか別の料理だ。
「辛っ、無理!」ベルトが横でカレーを食べるのをやめたのが見えた。
「そうね、だけど、電気マッサージ器とかそんなに普及してなかったんじゃないの、よくわからないけど。あときっとそんなにたくさん変態はいないのよ」
「なるほど」
……とその時は納得していたが後から考えるとそんなはずはなかったことがわかった。八十年代なら間違いなく電気マッサージ器はマスタベーション用に普及していたし、調べてみると十九世紀から存在したらしい。鉄塔は昔からあるに決まってるし。変態なんていうに及ばずだ。もちろんそれら+後ろ+サムシングを一度に併用してああいう事をした人間はそんなにいなかったかもしれないが、いやでもやっぱりおかしい。変態を舐めてはいけないと陽一は知っている。自分が少しそうだからわかるのだ。変態はなんでも試す。
つまりどういうことだ。四半世紀前以前にはイースターエッグはなかった……?
でもなんで急にそんなものがポンとにできたんだ?
それでなぜ今は入り口がまたポンと消えた……?
いや入り口ではなくイースターエッグそのものが消えたとは考えられないだろうか。
陽一には特定のコマンド入力して生ずる現象で、しかもイースターエッグ以外に、一つだけ覚えがあった。
それは古いゲームによくあった。昔よりは数が減ったが最近のものにももちろんある。
――バグだ。
*****
「つまりバグが修正されたってこと?」
「そうなんじゃないですかね。多分」
「二十五年も放置で?」
「時間間隔が人間と同じとは限りませんよ、開発者のね」
「なるほどね、でもよかったわ」
*****
これも一同でボーリングに興じていた時のことだった。他の人に投げている間の待ち時間、陽一はAとお喋りしていた。Aはボーリングに乗り気でなかったが、陽一が積極的に誘ったら一緒にやってくれたのだった。最終的にスコアは陽一が67、Aは125だった。いやそんなことはどうでもいい。
Aはストライクが二回決まった後なので機嫌がよかったのだろう。陽一にこう言った。
「私も日本人なのよ」
「え?」陽一は目を見開いた。
「ハーフなのよ、カンボジア人との」
「ああ、なるほど」陽一は頷く。「どこ住んでるの?」
「言わないわよ。あなたは?」
拒絶を感じちょっとへこんだ陽一だったが、素直に答えた。
「○○県」
「あ、隣の県だね。そのどこ?」
「××市の△△」
「へえー県境だね。案外近い」
「そうなんだ、向こうでは会わない?」大胆すぎたと陽一は反省したが、もう遅かった。
「うーんどうだろ。こっちで会って話すから楽しいんだと私は思うけどな」Aはやんわりと断った。
だが後半部分に関しては本心だったはずだ。陽一はその部分に関して嬉しかった。仮想パートナーの咲ちゃんを除いて、女性に一緒に話して楽しいと言われたことはそれまでなかった。
「おい、陽一の番」クレメンスが陽一の肩をたたく。「はははガーターなしにする?」
「いいえ、次はストライクいけると思います」といった傍から投げたボールはガーターにはまった。
*****
「本当ですね。みんなが消えたか死んだと考えたら悲しくて悲しくて」
「気づいたら鉄柱のふもとに転がってたと思うわよ、他のみんなも」
「追い出されたってわけですか」陽一はアイスコーヒーをすする。
「そうなるわね。私はそうだった。勿論服は着てたわよ。ついでに原稿も一緒に添えてくれたら書き直さなくてよかったのに」
「でも移住組みのクレメンスさんたちは大変ですね。それに現実で暮らすのしんどいですよ。あんな理想郷の後だと」
「なんとか生きてけるわよ。なんだかんだでみんな自分の特技を伸ばしてたみたいだし、環境が良かったからね。まあ彼らが生きていたいならの話だけど」
「うーん、でもまた会いたいなあ」
「世界中探して同窓会でもするつもり?」
「お金がないです」
「貯めりゃいいのよ。さすがに私も名残惜しくはあるし、そんなに仲が良かったわけじゃないけどもう会えないとなるとね……」
「だから僕に会いに来てくれた」
「まあそういうことね。職種聞いてたから探しやすかったわ。それとまあ、別にまた会ってあげてもいいけどね」
「本当ですか、Aさん!」陽一は身を乗り出す。
「もう相沢でいいわよ、ほとんど身ばれしちゃったし」
「僕は木原です。木原陽一」興奮して自己紹介をする陽一。
「知ってる」
「相沢さん下の名前は?」
「……サリカ」
「ハーフでしたね。そういえば」
「うん母さんがカンボジア人だから」
喫茶店のドアがチャランと音を立てて開く。現れたのは他の客。まったく知らない他人。
「でもこんな冴えない男と会ってくれるんですか? しかも変態なのに」
「まあ私も友達多いほうじゃないし、せっかくだからね」サリカは言った。「やっぱあの場所がなくなったのは寂しいのよ。なんだかんだで二年くらいは入り浸ってたから」
「僕は一ヶ月だけど、寂しいですね」
「はあ人間って弱いわね」
「だから変態行為に走ってまで生きてくんですよ」
「そうね」
陽一は窓から空を見上げる。あの空の先のどこかには他の変態仲間がまだたくさん生きているのだ。そう考えると日々ももうちょっとマシに思える気がした。生きるのが下手なやつだって自分以外にもいっぱいいるんだ。
まあなにより今は女性とデートみたいなことをしているので幸せだった。人間って結局単純だよなと陽一は腕で股間を隠しながら思った。
一回書き上げて、更新中に全部消えて泣いてまた書き直した。ちゃんとバックアップとるべきだと思ったね。




