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夜になる  作者: 近藤近道
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第九話

 井上さんから初めてメールが届いたのは、テストが終わった日の夜だった。

「今何やってる?」とだけ書いてある。

 こちらも短く「シュレッダー」とだけ書いて送る。テスト関係の紙をシュレッダーに掛けるのは答えが返ってきてからにする予定で、今裁断しているのは通信教育の案内であった。

「今から煙草吸いに公園行こうと思ってるんだけど、来る?」

「すぐ行く」

 着替えて、ライトと携帯電話と財布と鍵をズボンのポケットに入れる。そのまま飛び出そうと思ったが、心配したんだという旨の説教をさせるのはばつが悪いので、

「コンビニ行ってくる」と母に告げる。

「行ってらっしゃい」

 諦めている声だ。聞かなかったことにして、外に出る。

 小走りで公園に向かう。この前は二本目を吸い終えると帰ってしまった。煙草二本分の時間は短かった。彼女が一人でその時間を潰してしまう前に着きたい。

 夜の外出は一週間振りだった。テスト前に来たのはあれが最後だった。テストが始まってからは勉強しなければならないという一心で、実際に勉強していたかどうかはともかくとして、ふらつく余裕は無かったのである。

 昼間は暑くてたまらないのだが夜はまだ涼しい日がある。今日はそういう日だった。走ってもさほど汗をかかない。井上さんはまだ来ていなかった。

「やっほ」

 遠くからお互いの姿は見えていたのだが、彼女はにこにことした表情がライトではっきりとわかるようになってから言った。

「やけに嬉しそうだね」

「そりゃね。煙草吸うの久々だから」

 早速、といった感じで井上さんはポーチから次々と取り出していく。

「テスト中は我慢してたんだ?」

「うん。外に出るわけにいかないでしょ」

「家の中で吸わないの?」

「親に隠してるからね」

 それでここまで来て吸っているというわけなのか。

 井上さんがくわえた煙草に火をつける。彼女の煙草から出る匂いがこちらに来るのだが、煙草の匂いは昔から好きだ。こちらに来るまでに薄くなっているせいなのか、新品のぬいぐるみやクッションを想起させるような、ふわふわとした匂いを中に感じるのである。そのせいで副流煙の方が有害であると習っているのに、思い切り吸い込みたくなる。受動喫煙を楽しむのは犯罪だろうか。ふう、と井上さんが煙を吐き出した。はっきりとした匂いがこちらに来て、うっとりとする。

 親の想像している俺がコンビニで雑誌を立ち読みをしている間に、煙草を吸っているクラスメイトの少女と会っている。小学生の時に得られなかった秘密基地を今になって手に入れたような。年を取って楽しい記憶を独り占めするのが上手くなったと思う。

 香りの発生源となっている井上さんが、

「テスト、どうだった?」と聞いてきた。

「あまり思い返したくない」

「ありゃ」

 悪かったのね、という顔をされる。そうではないのだ。

「テストのことを考えると、あそこ間違えてた、とかいうことばっか思い出すんだよ」

 もっと点取れたはずだ、と。

「何で単純ミスってテスト終わった直後に気付くんだろうな。職員室に忍び込んで書き直したいくらいだ」

「今更どうにもできないって。諦めなよ。それともそんなに深刻?」

「よっぽど大きな間違いが無ければ、赤点は無いはず」

「それならいいじゃん。もっと気楽に生きなよ」

「流石煙草を吸う人は言うことが違うな」

 煙草に比べればテストなんて軽い問題であろう。

「それは嫌味かな?」

「聖人君子的には羨ましいかな、と」

「根性焼き、体験してみる?」

 煙草の先端がこちらに向いた。

「痛いのは苦手」

「そりゃ得意な人はいないでしょう」

 煙草が引っ込んで、口元に帰っていく。それからは何も言ってこない。久々だと言っていた。じっくり味わっていたいはずだ。邪魔をするのは悪い。黙って待っているのも苦ではないだろう。どうせ数分で終わる。それに目を瞑って煙草の匂いを覚えるのも楽しそうだった。煙草の依存についてはニコチンによるものであると言われているが、ニコチンに依存性が無くとも、むしろ無いのであれば尚更この匂いの虜になりそうである。俺が感じている、大きな熊のぬいぐるみを抱きかかえた少女が篭っている窓が一つも無い密室のような匂いを井上さんはそのまま強く感じているだろうか。それどころか煙草を吸っていると、その密室の味をガムにして噛んでいるような気がするのかもしれない。すれた煙を吐いている井上さんの顔は大人っぽい。しかし十七という実年齢と煙の中に潜んでいる密室の少女のせいで、彼女は大人びた子どもでしかないのであった。そしてそれはどうすることもできないのである。時間がその場所に運んでくれるのを待つしかない。

「早く大人になりたいなあ」

 本当に煙草の味はそういう味なのかもしれない。

「そうだな。早く一人立ちしたい」

「ごめん、嘘」

「おい」

 井上さんは二本目の煙草に火をつけないまま、

「別になってもいいんだけどね」と言う。ぐらつき過ぎだ。

「子どものままがいいかって言われると、そうでもないし。でも大人もなあ」

 その気持ちはよくわかる。比較しようにも、どちらも辛いことや面倒なことが真っ先に浮かんでくるのだ。子どものままでは親を目から自由になれない。大人になれば責任や人の圧に潰されそうだ。

「二十歳がいい」と俺は言う。「ずっと二十歳のまま、どっちつかずでいたい」

 前に考えていたことを発表できて楽しい。しかも「それできたらいいね」と井上さんが頷くので、舞い上がる。同感だと言ってもらえるのであれば、しばらく俺が考えていたことを放出してみせようかとも思うのだが、言いたいことは何も残ってはいなかった。

「できるなら私は夜になりたいな」

 二十歳のままが効いたのか、井上さんもそんなことを言う。

「世界がずっと夜で、私はその一部になって死ぬまでずっとここで煙草を吸ってる。そんな人生だったら凄く楽なのに」

「ああ、それいいな」

 ずっとここで煙草を吸っている、というのが気に入った。何日も何ヶ月も経って、井上さんがすっかり終わらない夜に馴染んだらきっと絵になる。そのことを自覚して望んでいるのだろうか。ともあれ夜になりたいというのは凄くいいと思う。その願望を頂戴することに決める。俺もいつか夜になろう。

「あそこくらいの暗さの夜が俺はいいな。丁度いい暗さだ」と公園の中央を指しながら言う。

「真っ暗だと何もできないもんね」

「そう。明るすぎても楽しくない」

 井上さんがライターの火をつける。傍に明かりのあるベンチだと、火の向こうに幻を見ることはできそうにない。街灯は現実にある物を見るための光だ。二本目の煙草が煙を出し始める。

「それで最後」

「うん」と彼女は頷く。

「テスト終わったご褒美に三本目とかはしないんだ」

「それやったら、そのうち一回三本が当たり前になりそうだから」

「一本吸ったら、二本も三本も変わらない気がするんだけどな」

「変わるよ。煙草ってタダじゃないんだから」

「そっちか」

 変なところで生真面目になっていると思っていたが。

「そういやさ、煙草って買えるの?」

 自動販売機で買う時にはICカードが必要になると何年か前に聞いた。コンビニで買おうにも不審に思われることが無いとは限らない。

「兄が元々煙草吸う人なんで、ついでに買ってきてもらってる」

 これは兄が前に付き合っていた彼女が吸ってたやつなんだって、と彼女は笑う。

「お兄さんも煙草吸うんだ」

「うちは昔から父が吸ってるからその影響かな。家族で吸わないのは母だけだね」

「そりゃ凄いな。こっちは誰も吸ってない」

「へえ」

 急に素っ気無くなる。煙草を吸うためであるとわかっても寂しい。それでいて井上さんは彼女のペースで話す。

「吸う本数もそうだけど、吸わない日もできるだけ作って、なるべく消費しないようにしてるの。節約が大事なんですよ。それに兄を使い走りにするのも可哀想だし」

「節約ですか」

 清々しくない節約もあったものである。井上さんはまた無言モードになっていた。まあいいのだけど。

「それじゃまたね」

 二本目を吸い終えるとそう言って井上さんは帰っていく。昔は線香で時間を計ることがあったらしいということを思い出す。あれが長い線香ならもっと話していられるのだが、それでは不恰好に過ぎるだろう。どうにも面白くない。夜は何時間か経ったところで夜のままなのに。

「私は夜になりたい」

 頂戴したばかりの夢を呟いてみる。門限とか親の目とか、そういうことを気にせずどこかに留まっていたい。

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