第八話
それからも井上さんのことを気にかけるようにしていたのだが、そもそも心配する必要が無いのかもしれない、と思った。学校での井上さんはどう見ても優等生だ。俺にとって井上さんの学校生活は大冒険に近いものを感じていたのだが、きっと彼女にとってはちょっと隠し事をしなくてはならない程度のことなのだろう。
「井上さんさ、いつから始めたの?」
一人で帰ろうとしているところを捕まえた。人に聞かれても構わないよう煙草という単語を出さずに言う。
「あれ?」
「そう、あれ」
「去年の冬休み明けたくらいからだよ」
なら吸い始めて半年くらいは経っているということだ。
「そうか。じゃあやっぱりもう冒険じゃないんだな」
「冒険って、何」
「気分的に。スパイみたいな感じなんじゃねえのかなって今日思ったんだけど」
潜んで機を待つような。
「そんなこと思ったこと無い」
「ありゃ。違ったか」
「緊張しっ放しだった」
「へえ。そうだったんだ」
「慣れないことはするもんじゃないって思った」
井上さんは「胃の辺りがきゅっと痛くなるんだ」と言い、握り拳で表現する。そしてその手を開き、ひらひらとさせる。
「今はもう慣れたから全然平気だけど」
それはそれで寂しい、と思った。何事にも慣れてしまったらつまらない。けれど胃が痛くなるのは歓迎できない。
「そうか」と言うしかない。「それはよかったね」
煙草のことをあれとか言って無理やり突っ込んだ話を続けるのも息苦しい。電車を降りるまでの間、普通の話をするしかなさそうだった。
「そういやさ、眼鏡を使ったカンニング法って知ってる?」
こんなことを言ったのも、遠くの方で座っている同じ制服を着た人たちが「テスト勉強全然してない」という話をしていたからである。やはりテスト前になると皆そういう話をするものらしい。
「眼鏡を使った」
膝に鞄を乗せている彼女は、その鞄に肘を乗せつつ自分の眼鏡のつるに触れて考え始める。そして、
「眼鏡のつるにちっちゃい文字を書くとか?」と言う。「内側に書いて、それで眼鏡を外して、見る」
「不正解」
「何度も外してたらばれるよね」
「書ける量も少なそうだ」
井上さんの掛けている眼鏡のつるは細い。消しゴムに書く方がよっぽどよさそうだ。
「それで、正解は?」
「細かい所まで覚えてないんだけどね、カンニング用の眼鏡っていうのがあるらしい。小さいカメラが着いてて、それを送信できる。それで問題を解いてもらって、答えを聞く」
「カメラ着いてるってのは聞いたことある。データの送受信までできるようになったんだ」
「みたいよ。やってみれば?」
井上さんは首を振った。
「そういうことするより素直に勉強した方が楽だと思う」
凄い発言である。そんなに頭がいいのか。
「もしかして一度記憶したことは絶対に忘れなかったりする?」
「全然、そんなことないけど。どうして」
「普通はカンニングの方が楽だから不正行為になると思うんだけど」
「私が言ったのは、気分的に楽って意味。正々堂々とやれば細かいことを考えないで済むでしょ」
「なるほど。考えて胃がこうなるわけ」
握り拳。
「その通り」
「結構潔癖というか、純粋なところがあるんだね」
「私は元々そういう人間なんです」
「そうだったんだ」
「どう見ても、そうでしょう」
見た目はそうだ。しかし体内に潜んでいるニコチンを知っている以上、外見はそれを隠すために使われているように思えるわけで。
「それじゃあさ、井上さんって煙草始めるまでは悪いことなんてしたことも無かったわけ?」と電車を降りて人が減った頃に聞いてみる。
「そうだよ」
「お酒は?」
「お正月に飲まされるのとか、凄く嫌」
「髪の毛染めたり」
「中学の頃も駄目だったからしてない。というか染めるの違反じゃない高校ってあんのかな」
優等生だ。最初に思った通り、真面目にやってきた反動で煙草を、ということなのだろう。それにしても極端だ。
「いきなり煙草じゃなくてもよかったんじゃない。それこそお酒とか」
「その時は煙草吸ってやるって気分だったから」
彼女は若干熱を込めて「それに」と言う。
「それに、今まで潔癖だった人が、悪いことをするならこれにした方がいいって、理性で選べると思う?そんなに落ち着いてるなら、何もしないと思わない?私は少なからずパニックになってたんだと思う」
「そうなんだ」
一方こちらは抜け殻のような返事しかできない。何と言えばいいのだろう。大変だったね。辛かったんだね。煙草じゃなければよかったのにね。どれも心とは遠い場所にある言葉みたいだ。せめて慰めまい、と思ったら、
「もし選べたら、何もしなかった?」と口から出てきた。
「そうだと、思う。中村君は違うの?」
「俺だったら、酒を飲む。あ、いや、違うかも」
やけ酒がストレス発散のイメージとしてあったのだが、ストレス発散なら酒以外にもあると気付いた。
「シュレッダーかもしれない。大事な紙も全部ばらばらにするんだ」
成績表。保護者に渡さなければならないプリント。まだテストに出ていない範囲のノート。シュレッダーにかけてしまえば取り返しがつかない。
そうだ。もしも井上さんが煙草を吸うようになるくらいにストレスが溜まったら、その時は何もかもシュレッダーにかけてしまおう。そして出来た紙の綿を部屋中にばらまいて、紙に埋もれて眠るのである。それなら旗が欲しい。天井を見つめていても面白い物は何一つ無い。だからあのプールの旗を飾っておきたい。いつになってもゴールが近付かない室内で空腹を感じる前に目を閉じ、そのまま二度と目を覚まさない。そういう死に方をしてみたい。とても気持ちがいいはずだ。