第二十話
「昨日、将太たちと海に行ったんだ」
「へえ」
海のことはいつかきっと忘れるはずだ。将太が学校のプールのことを忘れていたのと同じだ。だから忘れてしまっても悔いが無いように井上さんに向かって話すという形で、夜中に向けて話しておきたかったのである。
「どうだった」
「海水が思った以上にまずくてやばかった。それと人も多かった」
「じゃああんま楽しくなかった?」
「どうだろう」
辛い思い出ではなかった。そのうち忘れてしまうだろうとは思う。
「楽しくないわけじゃなかったけど、笑顔で楽しかったと言える程でもないのかな」
「微妙ってこと?」
「でも行かないよりかはよかったかな」
「そんなら誘ってくれればよかったのに」
今日一日部屋でごろごろしていただけだ、と井上さんは言う。
「女子一人だけってのは嫌でしょ」
「あ、そうなんだ。じゃあいいや」
井上さんは二本目の煙草に火をつけながら、
「ところでさ、今日もシュレッダー持ってきたの」と言って、俺のバッグの方を見る。バッグは中身で膨れていた。
「まあね」
「そんなに好きなの」
「俺の人生だから」
そう答えると、煙草をくわえた井上さんの目と眉と眼鏡がぴたりと止まった。その様子を見て、やめようと決心さえすれば井上さんは煙草をやめられるだろう、と思った。けれどそれは言わないでおく。自分が吸うのも嫌で、井上さんが吸わなくなるのも嫌。それでも井上さんは俺のことを聖人君子などと言うだろうか。人でなしと言うことができるだろうか。
「ごめん、俺ちょっと用事あるから」
「あ、うん」と彼女は慌てて煙草から口を離して「また」と言う。
「またね」
バッグを肩にかけて公園を出る。連なった街灯の旗を越えて、暗い道を歩く。そういえば海は青いものだと思っていたがあの海は深い所になると紺色に近くなっていたと思い出す。それならば、とできるだけ暗い場所を探す。ライトを消し、バッグに入っている物を掴む。中にはゴミ袋に溜めておいた紙くずが詰まっている。それをばらまいていく。バッグの中に手を突っ込んで紙くずを握り、バッグの外で手を開く。そうする度に俺の過去が夜に混ざっていく。俺は彼女のように真っ白な未来を夜の中に溶け込ませていくような勇気を持っていない。だから代わりに黒鉛やインクの着いた記憶を混ぜていくのである。いつか夜になる時のための準備として。早く忘れてしまえ、と自分に暗示をかけながら。手から離れる時に白い物が少しだけ見えても、足元は真っ暗で紙くずがどのように散乱しているのか全くわからない。風にさらわれてしまえばもう見つけることはできなくなる。いつか俺の足や骨が同じようになるまで、蒸発するように消えていくであろうものを先にこうして消す日々を続けるのだ。それは明確な予想ができないくらいに長い長い時間になるはずだが、その長い時間の所々に今の俺と同じことをしている未来の自分がいて、それだけは確定しているのだと思うと、何に使うのかはわからないが、勇気が湧いてくるのであった。