第十九話
テレビでも人がたくさんいる光景を見ていたから予想していたものの、実際に砂浜を人が埋め尽くしそうになっているのを見るととんでもないものを見てしまったような気分になる。すげえな、と言いそうになるが思った通りのことを言ったら負けな気がしてこらえた。
「すげえな」
智成がそれを言った。勝った、と思いながら「そうだな」と相槌を打つ。
「俺あれ思い出すわ」と将太が言った。「俺の行ってた小学校さ、遊びに来ていいってことで夏休みにプール開放してたんだよ。ついでに何回か行くのが宿題になってな。そのせいで友達と行ったら一年生から六年生までわんさかいたんだよ。せっかく自由に遊べると思ったのに、ぶつからないように気を付けて遊ばなきゃならなくてな。これなら授業の方がまだ楽しいって思ったわ」
「それでどうしたんだ。そのまま帰った?」
「どうしたんだっけかな。あれ、思い出せねえ。そういう印象しか残ってないみたいだわ。でもどうにかして遊んだんだろうな。酷いことになってたらたぶん覚えてる」
「酷過ぎて忘れたという可能性もある」
智成がにやにやしながら言った。話を引っ張って、意地悪なやつだ。俺はそう思うのだが、将太の方は「マジかよ。トラウマになってたのかよ」と反応していた。こちらは律儀だ。覚えていないということが気になって、俺は小学生の頃のことを思い出してみようとした。しかし小学生の頃の思い出という漠然とした検索では修学旅行のことぐらいしか出てこなかった。それ以外のことだって色々とあったはずだ。それなのに頑張っても小さな思い出の破片しか拾えず、小学生の自分の日常が上手く描けない。プールについてはどうだったか。咄嗟には浮かばなかったが、出てきたのはやはり背泳ぎとあの旗だった。
「いやあ、でもよくもなく悪くもないって感じで、ぱっとしない思い出なんだと思うぞ。そういうのってすぐ忘れるじゃん」と将太が言い「まあそうだろうな」と智成も頷く。どうやらそちらの会話は一段落着いたらしい。
「さてどうするよ」
砂場の前のまだ人が密集していない所で立ち止まり、智成が俺たち二人に聞いてくる。
「本当にナンパするのか?」と将太は言う。
「俺、泳ぎたい」と俺は言った。
海に来たのだから泳ぎたい。砂場で遊ぶというのは少し子どもじみている気がしたし、何より人だらけで難しそうだった。そうとなれば海で泳ぐ他無いだろう。
「俺賛成。多数決で決定」
ナンパをする度胸は無かったらしい。将太が強制的に泳ぐことに決めて、海へ向かう。「なら競争だな」と智成が追いながら言った。
競争だ、と言った智成が一番遅かった。一位だった将太が「お前遅すぎ」と煽っているのを聞きながら、俺は仰向けの体勢で浮かぼうとしていた。しかし下手なのか何度か海水をかぶった。これなら浮き輪を持ってきた方がよかったかもしれない、と後悔しながら物思いに浸る。
海の中に溶けるというのも悪くはないのかもしれない。もしも今しているのをもっと綺麗にした感じで、ぷかぷかとリラックスしたまま浮き続けていられたら。そうして海と一体になりずっと空を眺めていられたらどのくらい落ち着くことができるだろう。ありがちな願望に思えたが、実際に浮かんでいると心地よくてそう考えるのも仕方ないことだと思ってしまうのであった。
だけど俺はできれば夜になりたい。海になってしまっては、井上さんのことが気になって仕方なくなるだろう。
そういえば将太と智成はどうした。やけに静かだと思った途端に、海中に引っ張られた。海水を思い切り飲み込んでしまって、しばらくの間むせる。口の中のしょっぱさをどうにかしようと水を吐き出すが、何度やってもなかなか抜けない。
「危ないだろ」
味はまだ口に残っていたが、なんとか喋れるようになったところで講義すると、それまで爆笑していた二人が、
「だってお前ぼうっとしてるんだもん」と言うのであった。
ぼうっとしているからって不意打ちするなよ、海水って結構まずいぞ、と言いたいのだが喋るのが辛い。どうにかして二人に海水を飲み込ませてやりたかった。そうすればげらげら笑えなくなる。
どうにか普通に喋れるまで回復した時にはもう報復をする気は失せていて、それよりも自分のしていたことが非常に有意義なものであり、それを邪魔したことは罪であると説教したくなっていた。いいかお前たち、と指を突きつけて黙らせてから、
「試しにさっきの俺みたいに浮かんでみろ。そうしたら凄く気持ちいいことがわかるはずだ。謝罪は後でいいからとにかくやってみろ」
「やったらさっき俺たちがやったみたいにするんだろ」
「神に誓ってやらない」
「神なんて信じてないくせに」
「いいからやれ」
二人は渋々仰向けになる。こうしておけばしばらくは静かになるだろう。俺は何も言わず、音を立てないように仰向けに浮き、再び思考の中に戻る。
将太は告白をして失恋までしていた。知らない間にそんなことが起きていたのである。時間というものはちゃんと流れているものなのだと実感させられる。確かにカレンダーや時計の上では時間が経過しているが、自分も周囲もあまり変わっていないように思えるのである。気が付けば周囲で何かが変わっている。時間は自分で感じているよりももっと素早く変化をもたらしているのか。
よくよく思い出せば自分の中にも変化した所はある。俺は井上さんと話すようになった。新しいシュレッダーを買った。シュレッダーのゴミを貯蔵するようになった。受験勉強について焦るようになった。その気になればいくらでも記憶から引き出せそうだ。しかし意識しなければ、やはり俺にとって時間はあまり変化をもたらさないものであり、自分や周囲は大して変わらないものにしか思えない。
「おい、いつまでこうしてればいいんだ」
遠くの方で将太が叫ぶのが聞こえた。声のした方を見てみると、いつの間にか流されていたようで、十メートルくらいは離れていた。
「ずっとしてればいい」と大声で返す。海になるまでそうしていればいい、と思った。
「ふざけるな」
そう言うなり将太はクロールでこちらに来る。彼は全く海に溶けていないようだった。だからいくらなろうとしてもなかなか夜にはなれないのだろう。




