第十五話
夜になってメールが届いた。いつもの時間に送ってみようと思っていたので、いつもの時間に着て苦笑いしてしまった。タイトルはなく、本文に「今暇?」とたった三文字だけ。夏休みでも夜に呼び出すんだな、と思いながら「暇」の一文字だけを送信する。
夏休み初日に何もないっていうのもなんか寂しいから。
そう言って井上さんは俺を呼んだのであった。
俺は公園まで走った。運動である。きっとこれからも公園に行く時は走るのだろう、と思った。そして、こうして何かのついでに走るのではなく運動のためだけに走るという習慣は作らないのだろう、とも思った。井上さんと会うことがなくなれば、登下校中に走ることもやめるかもしれない。井上さんの煙草があるがために俺は走っている。副流煙が体に悪いからなどという理由はなく、ただ井上さんが煙草を吸っている以上走らなくてはならないような気がしているのであった。
「夏休み一日目がもう終わるよ」
会ってすぐにそう言ってやると井上さんは、
「ちょっと、やめてよ」と丁度いい位置にあった俺の頭を叩き、それからベンチに腰掛けた。
このやりとりをクラスメイトが見たらどう思うだろう。教室ではまだ口をきいたことがなかった。
井上さんがポーチから最初に出したのはハンカチだった。それをベンチに広げると、そこに喫煙に使う物を置き始める。いちいち入れたり出したりするのが面倒だったのだろう。俺もハンカチの上に飴玉を置いてみた。苺とメロンの二種類。
「今日は飴なんだ」
「ガムと違って処分に困らないからね」
「メロンもらっていい」
「どうぞ」
井上さんはメロンの飴を自分の方へ引き寄せてから煙草に火をつけた。煙草が白い煙を立ち上らせた瞬間に二本目が終わってお開きになる瞬間のことを思わずにはいられなかった。せっかく話が盛り上がっていたのに休み時間が終わってしまうように。二本だけと言わずにもっと豪快に吸えばいいのに。
「夏休みの初っ端から喫煙ってちょっと複雑」
「そういうもんか?」
井上さんは頷く。
「なんか抵抗ある」
それは煙草を吸う前とほとんど変わらぬまま残っている潔癖さがそう思わせているのだろうか。お金のことだって気にしなくてはならない。不良なことをしているのになんだか不自由だ。
「だからって吸わないでいると、なんかいつ吸えばいいかわかんなくなりそうだし」とまで言う。彼女にとって喫煙が抑圧の捌け口として成立しているのか疑わしい。やめたら、と言いたい。しかし、余計なお世話だ、と突っぱねられそうだ。
「変なの」
それでも言いたくてたまらなかった。どうしても煙草を吸うことがよいことと思い込めないのである。遠回しに促すくらいなら余計なお世話とは思われまい。
「別に義務じゃないんだから無理に吸わなくたっていいじゃん」
「まあねえ」
「未成年で吸ってるんだから、もっと若い勢いで吸わないと」
「どういう吸い方、それ」
「俺が知ってるわけない」
「若さとか言うと、なんか凄く健康的に聞こえるけど、吸ってる時点で健康的じゃないからね」
「うん」
それでも井上さんが煙草を吸っているところを何も考えずに見ていると、シュノーケルを使って水中で呼吸しているような感じで、なぜだか有害物質を吸い込んでいるとは思えないのであった。見慣れてしまって、有害であることを忘れかけているのかもしれない。
「そういや煙草って有害なんだよねえ」と井上さんは言う。本当に忘れるものなのかもしれない。
「忘れてたのかよ」
自分だって人のことは言えないのだが、常識人の振りをして苦笑してみせる。
「そもそも未成年の喫煙って法律で禁止されてるんだぜ」
「そこまで忘れてないって」
そう言って笑った後に、
「でも、そうなんだよねえ。駄目なんだよねえ」と真面目な風に彼女は言った。
まさか本当に忘れていたのか。信じられずに問うと、
「少なくとも意識しなくなってきてる」と答えた。「最初に吸った時は、取り返しのつかないことをしちゃった、みたいに割と深刻になってたんだけど、今はもう自分が将来煙草のせいで早く死ぬことも冗談の一つくらいにしか思ってないっていうか。なんか、そんくらい軽くなってるんだな」
言いながら井上さんは自分の意見にうむと頷く。
「なんか、大人だ」
「それ褒め言葉になってないからね」
「あれ。そうかな」
「だって今の大人って純粋さを失った人って意味でしょ」
そうなのだろうか。しかし自分にとって大人とはどういう人間だと考えてみても、はっきりとした答えは浮かばない。ただ彼女の言った意味は多少なりとも含まれているとは思った。
「大丈夫だよ。井上さんは割と純粋だと思うから」
「そうですか」
興味なさげに煙草を吸う。照れ隠しっぽい。そして隠し終えたところで、
「でもちょっと惜しいことしたかもね」と言った。
「割と大事だったりしたんじゃないかな。煙草吸ったらやばいって怯える気持ちって。つっても、あんま喪失感ないんだけど。ちょっと寂しいかなってくらいで」
「やっぱり大人だ」
「それ褒めてる?」
「勿論」
井上さんはまた照れを隠した。