第十二話
「俺、自分の頭に自信が無くなった」
「そんなにテスト酷かったの?」
「それはいつも通りだったよ。そうじゃなくて、自分の無力を思い知ったというか」
「今までは自分が優秀な人間だって思ってたってわけ?」
棘のある言い方だ。だけど違うと否定もできない。何でもできると思ってはいなかったが、どこか一点くらいなら突出している所があるはずだとは思っていた。
「それで今は自分が能無しに見える、と」
「まあ、そんな感じで」
「感傷に浸りたいんだろうけどさ、正直どっちでもないと思うよ」
切り捨てられる。
「飛び切り優れているわけでも、飛び切り劣っているわけでもない。自慢できないし悲観もできない。そんな宙ぶらりんが中村君」
今日は何やら辛らつである。夜になりたいとか言う人なのに。
「もしかして井上さん機嫌悪い?」
「悪いですよ」
きっぱり認めて、攻撃的に煙を吹き出した。
「何かありましたか」
こちらには答えてくれない。不機嫌になるようなことがあったのは確かみたいだ。やがて井上さんは自分の頭を何度か叩き、
「ごめん。言い過ぎた」と謝ってきた。
「はあ」
「人に厳しくしたら、自分も泣き言言えなくなっちゃう」
「さいですか」
泣き言を言おうとしている辺り、いつもの井上さんに戻りつつあるようだ。
「自分が泣き言言いたいから他人の泣き言を許すって、潔いのか汚いのかよくわかんねえな」
「でもさ、自分のこと棚上げして他人を非難するのってずるいでしょ」
「そうだろうけど」
話せば話す程、潔癖な面が見えてくる。それこそ「煙草吸いたいなら二十歳になるまで待てばいいじゃん」とか言いそうなのだが、そのような言葉が出てくることはないのだろう。
「さっき宙ぶらりんって言ったじゃん?私もきっとそうなんだよ。煙草吸って悲観的になっても、世の中にはもっと不幸な高校生っているはずなんだよね。そう考えると、人生辛いとか言う資格ないのかなって思っちゃうんだ。もっと強く生きないとって」
言い終えてすぐに彼女の手は秘書のごとく口元へ寄っていき、煙草を添えた。煙草を吸っている人が「強く生きないと」と言うと、自分が言うのとは違った風に聞こえる。信じられないような苦行を乗り越えて、困っちゃうよな、と軽い口調で言いながら煙草を吸いそうな、そういう際限のない強さを目指しているような気がするのである。嫌になる。羨ましいと思わないこともないが、そんなことやってらんないじゃんとも思うのである。だから、
「それはずるくないのか?」と言ったみた。
「自分より不幸な人間がいるから、自分は不幸だと思っちゃいけないっていうの。だって軽い怪我でも痛い時は痛いじゃんか。騒ぐのはみっともないかもしれないけど、それを無理に我慢するのっていいことじゃないでしょ」
「でも不幸自慢をするのはうざいと思うよ」
「自慢に聞こえないように言えばいい」
「それ難し過ぎると思う」
溜め息をつかれる。自分もそう思う。しかしながら思ってもいないことを言い続ける。
「だからって諦めるのは感心できることじゃないな。何事も挑戦が肝要なわけだよ」
言っていて、まるで校長先生みたいなことを言っている、と思った。勉強することを勧めるために、日々の努力が、などと言い始めたら完璧にそれだ。
「そういうわけで勇気を持って一歩踏み出してみたらどうかな」
井上さんは白く細い息を吐き出してから、俺を見下すような目をよこす。そして彼女はにやりとして、
「どういう理屈をこねても、何があったか話さないからね」と言った。
ばれていた以上、白々しく振る舞うのが妥当だろう。俺は肩をすくめ、首を振る。
「何のことやら。全くわかりませんな」
井上さんはちゃんと笑ってくれた。呆れたような笑いを引き連れたまま、
「他人のプライベートを暴いて、そんなに楽しい?」と聞いてくる。
「楽しくないの?」
聞き返すと、彼女は「楽しい」と小さな声で認めた。
「そういうわけでさ、テスト終わったからノートとか勉強に使ったやつをシュレッダーに掛けたら、思ったよりも量が少なくてさ、俺って全然勉強してなかったのかもなって思ったってわけ」
「はあ」
そういうわけで、で話を最初の方に戻したつもりだったのだが、あまりにも唐突過ぎただろうか。しかしすぐにわかったようだ。
「ああ、それで頭が悪いと」
「そういうこと」
悪いとまで言った覚えはないが。
「ていうか、シュレッダー?」
異物を見たような顔をして言う。
「シュレッダーがどうかした?」
「ノートとか、やるの?」
井上さんは右手で支えていた煙草を左手に渡して、ハンドルを回す仕草をする。信じられない、といった感じで目を大きくしていた。
「やるよ。シュレッダー掛けるのって楽しいじゃん」
「そうなの?私やったことない」
「え、嘘」
今度はこっちが信じられないという顔をした。
「嘘じゃないよ。わざわざやんの面倒じゃん」
「じゃあ自分の名前とか住所とか書いてあるやつ、どうしてんの」
「どうするも何も、そのままポイ」
恐ろしいことをするものだ。ストーカーにゴミを漁られたら大変だ。そういうことを考えたことはないのだろうか。パソコンのパスワードを紙に書いて、それを捨てたためにパスワードを知られてしまう、という話を聞いたことはないのか。井上さんくらい真面目な人なら注意していて当然だと思っていたのに。
「それ危なくない?」
「全然。大丈夫だよ」
「気を付けた方がいいって。個人情報書いてあるやつくらいはきちんと処分しないと」
「はいはい」
流されている。どうして真面目に聞いてもらえないのだろう。彼女だってそうした方がいいことくらいわかっているはずなのに。そう思ったところで気付いた。今の俺は「テスト勉強しなさい」になっているのだった。親からの遺伝が知らないうちに出ていたのである。それでは聞いていてつまらないはずだ。生まれた時から一緒に暮らしているせいでどうしても感染してしまうものなのだろう。遺伝の呪縛から抜け出すために、俺はみょうちくりんな台詞を生み出す。
「もしかして井上さんの家だと、皆使わなかったり?」
「わかんない。でもシュレッダー使ってるとこ見たことない」
「それじゃあさ、井上さんってどこに住んでるか教えてくれない。あ、ゴミを捨てる場所でもいいんだけど」
「何するつもり」
言わずともわかるだろうに。そう思って黙っていると彼女は「え、本当に?」とうろたえ始める。それが可笑しくて、口元が徐々に吊り上がっていくのを自覚したところで、
「冗談だよ」と柔和な笑顔に変えてみせる。
「目がマジだったから」
そう言って井上さんは警戒を解かない。そこまでの演技をしたつもりはなかった。
「そんなに?」
そう聞いたところでやっと彼女は身構えるのをやめて、
「うん」と頷く。「ああ、犯罪者ってこういう人なんだなって思った」
「それあんたが言いますか」
彼女は煙草をくわえたまま目を瞑り、聞こえない振りをした。
「俺の顔ってそんなに怖い?」
演技をしていないのに怯えられたということはそういうことで。実のところ、結構ショックだった。
「さっきはちょっと怖かったよ。なんか、半分くらい生きてないみたいだった」
そして井上さんも遠慮せずに言うものだから、しょげてしまう。顔が怖いのはどちらの遺伝だろう。怒った母は怖かったが、あれは顔よりも叱る時の語調が恐ろしかったように記憶している。
「半分死んでるってゾンビじゃあるまいし」
「そりゃそうなんだけどさ。比喩だよ、比喩」
笑ってみるものの、心当たりはあった。シュレッダーで自分の過去を裁断し過ぎているせいで半分くらい生きていない感じになっていてもおかしくない。人生は多段式ロケットには喩えられないだろう。過去を切り離すことは普通しない。厳密には記憶喪失にでもならない限り過去を切り離したことにはならないしても、イメージとしてはロケットなのだった。ではどこに向かって飛んでいるのだろう。不明だ。最後はどこかに墜落するであろうことだけわかる。
「ガム、いる?」
一本目を携帯灰皿に押し込んだところで俺はガムを差し出した。
「すぐに二本目吸ったら、しばらく吸えなくなっちゃうでしょ?」
「ん、ありがと」
一つ抜き取り包み紙を開けながら彼女は、
「ガムってあんま食べないんだよね」と言う。どうして、と促すと「いつもこれの扱いに困る」と包み紙をひらひらさせて言う。
「近くにゴミ箱が無いと、ガム捨てられないじゃん。そういう時、私ガム飲むタイプなんだけどさ、そうするとこれが余っちゃう。で、後で捨てようと思って鞄とかに入れると、どこに入れたか忘れちゃって見つからなくなる」
この公園にくず入れは無い。井上さんにガムを飲ませることになってしまった。次からは飴にしなければ。
「銀紙の方は預かるよ」
「ども」
受け取った紙を丸めて、元々それが入っていたパッケージに戻す。
「井上さんさ、釣りってしたことある?」
「ないけど、どうして」
「将太と智成がさ、夏休みにやろうって言い出したんだよ」
「へえ。二人は釣り好きなの?」
「全然。つい最近興味持って、それでやる気になってる」
「じゃあ中村君は?」
「あまり興味ない」
井上さんは、ふうむ、と困った感じの声を上げた。
「それは、行かなきゃ駄目なの?」
「だって仲間はずれは嫌だし」
「あ、そう」
急に冷たくなった。
「なら行くしかないね」
「そうね」
仲間はずれになりたくないというのがそこまで馬鹿らしい理由なのか。そう叫びたくなったのだが、叫んだところで井上さんは目を丸くして停止するだけなのだろう。
仲間はずれになるのを怖がっているのが馬鹿だと思っているのは彼女ではなく俺の方で、だからそんな風に受け取ってしまうんだ。
ガムを噛んで自分を落ち着かせてから、
「類は友を呼ぶとか朱に交われば赤くなるとか言うけどさ、本当にそうだったらいいのにな」と言う。
「本当に似た者同士で集まったり、付き合ってるうちに同じように考えるようになったり、するかもしんないけど百パーセントじゃないじゃんか。もし完璧に息が合う同士でつるめたら絶対面白いのにな」
「なら」
井上さんの手が動く。さっき俺がそうしたように煙草の箱を差し出してきた。
「赤くなってみる?」
「個性があるのもいいものだよね」
煙草を吸うのは嫌だな、と思って即座にそう答えたら、井上さんはそれ見たことかという顔をした。
「井上さんきつい」
「そうかな」
井上さんの喉が大きく動いた。そして二本目の煙草をくわえ、ポーチからライターを出す。
「友達でさ、全体としては好きなんだけど、でも軽蔑してる部分ってあるよね。ここだけは許せない、みたいな」
あるだろうか。友達で、と言われた時に浮かんだのは将太と智成だったがどちらにも許せないような所はない。青村君だって明るいいいやつだったはずだ。井上さんは煙草を吸っているが、そこは俺にとって許せない点ではない。軽蔑、と言っていたが。
「別に煙草に関しては軽蔑してるわけじゃないんだけど。ただ自分が吸うのは怖いなって」
「怖いんだ」
「俺の場合、煙草を吸ってると命を削ってるような気がしちゃうと思うんだよね」
喫煙者にこんな話をしてもよいものか。恐る恐る言う。
「一本につき何分とか何秒とか、未来の自分が死んでる感じがするんだよな。その煙草を吸ってなかったら生きていられたかもしれない未来の自分ってのがさ、煙草を吸う現在の自分とは別人のように思えて、どうにも」
未来の自分に限ったことではない。過去の自分だって他人のように思えるのである。青村君と遊んでいた中村武明は自分とは違う人なのではないか。小学校や中学校の知り合いとほとんど接点がないせいで、余計にそう感じられる。もしかしたらシュレッダーで何もかも切ろうとするのはその違和感を少しでも削るためなのかもしれない。
「そうねえ」
曖昧な返事をしている間にも井上さんの命は煙となって夜に消えていく。それを同化していると考えれば、彼女は少しずつ自分の命を夜に変えているのだ、と素敵な文章を作れるのだが所詮それは物語的な発想でしかない。
「未来を削って、その分今の快楽に変えているって考えたらどうかな」
井上さんはそう言うと、人差し指と中指にはさんだ煙草を口に触れさせて実践してみせた。ふは、と気持ちよさそうに煙を吐く。その発想の方がまだ好ましいだろうと俺は思う。世間的に歓迎される生き方ではないにしても、誰もが長生きするために最善を尽くしているわけじゃない。考え方として「あり」なのであった。
「じゃあ井上さんって将来にあまり期待してないんだ」
「だってさ、もしも煙草吸わないでいたら生きてた自分ってお婆ちゃんだよ。そんな先どうなってるかなんてわかんないし、それに私運動嫌いだから長生きしたってろくに動けないだろうし」
「動けないのは嫌だな」
「でしょう?」
得意気に笑う。そして、
「だからそうなる前に死んじゃおうよ」と煙草を勧めてくる。
「どういう理屈をこねたって吸わないから」
残念、と彼女は煙草をポーチの中に戻した。