第十一話
高校になって母からテストを見せるようにと言われなくなった。三者面談の日に通知表とセットで試験結果が親に渡されるからだ。おかげで好きな時にシュレッダーに掛けることができる。全教科返ってきた日に思い切りやると決めていたので、机には既に返ってきていた答案やノートなどが積んである。ノートが結構な厚さになっている。一枚一枚が小さなカードである単語帳は勿論のこと、プリント類も数が多く、それなりの厚みを持っていた。
これらを本当に裁断してしまっていいものか。なんとなくもったいないように思える。一度に裁断できるのは一枚までとなっているので、ノートは手で一枚ずつに切り離す必要があるし、大きなプリントもちゃんとカットできるようにある程度細かくしなければならない。それでも全て裁断するのに一日も掛からない。一日二本しか煙草を吸えないのと似ている。カットしてしまえばしばらくはシュレッダーを堪能できない。だからと小出しにするのは貧乏臭くて楽しくない。そもそも今すぐシュレッダーに掛けては勿体無いのではないかと考えること自体が貧乏臭い。買った煙草は吸わなくては意味が無いだろう。
手始めにノートとなっていた紙たちを一枚の紙に変えていく。現代文のノート。ピンクの蛍光ペンで線を引かれた所には重要なことが書かれている。蛍光ペンの扱いは不得手だ。ピンクの線を引かなかった所だってテストで出題されることがある。だからといって覚える必要がある所全てに線を引いたらノートはピンクだらけになってしまう。どこまでを重要とするのか、判別ができないのである。
井上さんの真似で、筆立てに入れてある蛍光ペンをくわえてみる。重いしピンク色が視界の端にいて鬱陶しいし味もしない。すぐにシャープペンやらサインペンやらボールペンやらがひしめいている筆立てに突き刺す。馬鹿らしいことをした。口にくわえたのが本物の煙草だとしても、俺は火をつけられまい。それよりもシュレッダーである。井上さんと話していた時にシュレッダーで裁断した紙に埋もれることを考えていたと思い出し、シュレッダーで出来た紙くずをゴミ袋に溜めることにする。
一冊目のノートをばらばらにし終えた。そうして出来た紙の束をさらに縦に半分に切ってから、最初の一枚をシュレッダーに掛ける。四十五分の授業一回で大体ノート一ページ使う。つまり一枚につき一時間半。一時間半を食べた紙はあっという間に読むことのできないゴミになる。ぞくぞくする。時間は過ぎていく。それを止めることはできないが、思い出とかノートとか、そういう形で時間の灰が残る。今俺はその灰を吹き飛ばしているのだ。ノートに書いたことの半分ももう覚えてはいないだろう。自分が死へ向かっていることを明瞭に感じ取る。ばらばらの死体だ。シュレッダーに掛けたような死体の自分を想像する。きっと両手の指から裂けていって五つになるのだ。
捨てずにおいた分があったために容器はすぐに満杯になる。ゴミ袋を持ってきて、その中に入れる。俺の使っているシュレッダー一杯分は胃にとってのチョコレート一粒分に思える。どのくらい入れられるのだろう。うきうきしながら裁断の続きをする。少しずつ死んでいく。俺の人生はこのシュレッダー何杯分なのだろう。自分の人生の亡骸を見ていると、やはり溜めておくのが正解で、捨てるのは勿体無い行為であったという気がしてくる。自分の一部には少なからず愛着があるものだ。それが何の記憶か識別ができなくなっても自分の記憶であることはわかるはず。
限界まで溜めてはゴミ袋に入れる。二時間くらいで終わった。ゴミ袋にはまだまだ十分にスペースがある。底が見えなくなったくらいである。中間テストが終わってから期末テストが終わるまで。それまでにした勉強がたったそれだけというのは少しばかりショックだった。一年分で満ちるかどうか。頭のいい人が知っていることを全て紙に書いてシュレッダーに掛けたら一体どれくらいの量になるのだろう。埋もれることはできるだろうか。




