第一話
夜の道路はどこであろうと俺のものになってくれた。街灯が少ない道を手の中に納まるライトで照らして歩いていく。
本当に一人になれる場所なんてどこにも無い。ほとんど明かりの無いような道を歩いていても人とすれ違うことがある。車はもっと多い。それでも手の中のライトが作る円は常に俺の個室だった。丁度一人が立てるくらいの大きさの円が目の前にあり続ける。俺はそれを睨むようにして歩いていく。
もうすぐ、テストだ。
来週は期末テスト。だから勉強をしなくてはならない。こうやって外を歩いている場合ではない。
「勉強しなくていいの。来週テストなんでしょ」
うるさい母。わざわざ着替えて外に出てきたのに、声に追いかけられては意味が無い。記憶にしがみ付いている虫を振り落としたくて早足になる。できるだけ速く。けれど走ってはいけない。走ってしまっては、虫に立ち向かうのではなく逃げることになってしまうから。
コンビニに行く、と言って外に出たが、今日は公園に行く気分だった。公園の方が遠い。コンビニまで行ったところで家から伸びている糸が背中にまだくっ付いていそうな気がする時は公園に行くのである。公園は人がいなくて適度に暗くて、いい場所だ。
ライトの光は声に怯えて揺れている。鬱陶しいので消してジーンズのポケットに入れる。夜出歩く時にいつも通っている道だから多少暗くてもなんとかなるはずだ。それにいつまでも暗い道を歩いていくわけではない。街灯が増えてきた。明るい場所があって、そこを過ぎると暗い道で、すぐにまた明るい場所があって。小学校のプールを思い出す。背泳ぎをしていると、青と黄色の三角形の旗が交互に連なっているのが見えるのであった。その旗を過ぎていくのと似ている。旗を過ぎればゴールは近い。背泳ぎではスピードが出せなかったからそこからもう一頑張り必要だった。
ゴール。公園に着いた。ブランコと滑り台と砂場だけの公園。昔からそれだけだった。遊具とベンチのあるスペースに街灯が二つあり、その反対側にもう一つの街灯がある。それらによって照らしきれていない公園の真ん中の暗がりに、走り回る子どもを思い浮かべる。幼稚園に入る前くらいに母に連れられてきたことがあった。小学校の校庭の方がよっぽど広くて遊具も多かった。一緒に遊ぶ友人もまた学校にいるわけだからここに来たのは幼稚園に入る前までで、思い出すこともそれしか無いのである。ここで一緒に遊んだ青村とは中学校までずっと一緒だった。同じクラスになることも多くて腐れ縁だと思ったものだった。もしかしたら大人になっても親友として付き合いがあるのかもしれない、とも思っていたのだが、高校生になってからは接点がすっかり消えてしまった。メールを出すことさえしていない。
がたん、という音がした。滑り台の斜面に誰かが腰掛けた音だ。ぼこぼこになった斜面の金属が音を立てるのである。案の定斜面には人が座っていた。女性だ。年が近いように見えた。彼女は煙草を口にくわえる。それに火をつけると、白い煙が薄っすらと出始めた。つまり少なくとも三つは離れているということだ。釈然としない。ぼんやりと煙を眺めている顔を見る限りでは、そんなに年が離れているようには思えないのだ。
納得できずに彼女の横顔から二十歳らしさを見出そうとしているうちに彼女は煙の塊を吐き出した。煙は明かりの外に出た途端に見えなくなってしまう。莫大な黒い水に僅かな白を溶かしているような。その溶ける瞬間を掴もうとしていたら、彼女が眼鏡と共にこちらを見た。咎められたように感じたのだが、こちらの視線が彼女から外れるよりも先に向こうの方が顔を背けた。それならともう少し見ていることにする。しかし彼女の表情はもううかがえない。後ろ髪も真っ黒だ。一部分でも染めていたら、それが証になったのに。
時折吐き出される濃い煙は何かの信号のように思える。たぶん錯覚だ。情報が込められているわけがないし、そうであるから読み取ることもできるはずがない。しかしその煙だけが今見ることのできる唯一の表情であるのだという気がしてしまうのであった。何も掴めないうちに煙はどんどん空に溶けていく。一本目の煙草を溶かし終えて、彼女は二本目を吸わずに立ち去った。最後までこちらを見ることは無かった。
彼女が見えなくなって、そろそろ俺も帰ろうという気になる。いくつかの街灯の下を潜って、また人の少ない道へと向かっていく。
そうだ。スタートした時にも旗はあった。そこから長い旅が始まるのである。手足を水車のごとく動かし続けながら空を眺める。今日の給食は何だろう。これが終わったら自由時間をもらえるだろうか。ビート板でチャンバラをしたり、大きな長方形のビート板に乗っかったりして遊びたい。そんなことを考えていたはずだ。次第に手足を動かして進んでいるという感じがしなくなって、ゴールがこちらに来るのを待っているような気分になるのだ。手足の動きを止めても時間が経てば頭が壁に着くのではないか、と。
背泳ぎの最中にはできないだろうが、電車に乗っている時ならば実用的な何かができる、と周りの人は信じている。歩いている時でもできると思っている人だっているだろう。歩きながら携帯電話を使う人はいる。担任は、生活の中で生まれる五分や十分という隙間を活用することで優秀な人間になれるのだ、と言って単語帳を配布した。持ってきていれば今もそれで勉強できたかもしれない。そもそも短冊状のカードは白紙のままなのだけど。
浮かんでいるだけの時間が積み重なっていけばそれだけ損をする。焦って考えるべきことを探す。帰ってから何をするか考えるのがよさそうだ。宿題は無かったはずだ。テスト前だから。いつも宿題としてプリントを出してくる先生は代わりにテスト勉強用のプリントを配ってきた。数学はそのプリントをやればよさそうだ。量は多くないから前日にやるとして、それじゃあ今日は何をやるか。古典、英語、家庭科。前回よくなかった教科が浮かぶ。英語がいい。単語を覚えるのが苦手だ。英単語の本に目を通すともう駄目なのである。数が多すぎて、いくらやっても点数に繋がる気がしない。覚えても出てこない。覚えなければわからない。
溜め息。一度思い切り吐いても、すっきりしない。白い煙として憂鬱を出せたらもっと気持ちいいのだろう。煙草で。煙草の女性。若い人もいたものだ。制服を着てうちのクラスに混じっていてもおかしくないような顔をしていた。自分が二十歳になったら実際の年齢より上に見られるのと下に見られるのとではどちらが嬉しいだろうか。考えてみる。どちらも微妙だ。子どもだと思われるのは不快だし、余分に大人と思われても困る。
「二十歳になったら」
呟く。二十歳になったら自分はどうしたいのだろう。作文の本文は口には出さずに頭の中で書く。
二十歳になったら、年齢から浮いている人でありたい。二十歳より上らしくも下らしくもなく、二十歳らしくもない人間であれたらいい。それがどういう状態なのか自分でもよくわからないのだが、そうなったらきっと気が楽だろうということだけはわかるのだ。もしかしたら俺は幽霊になりたいのかもしれない。所々に真夜中のある道だ。ふと真っ暗になっている所へライトを向けたら、そこに幽霊が立っていて俺をそちら側へ連れて行ってくれるなんてことが起こるかもしれない。しかしここは怪しいと思った所へライトを向けて何も無かったら、自分が考えていたことの馬鹿らしさを痛感してしまう。十七にもなって妄想を実行するようではいけない。
家に着いた。鍵を開ける。
「ただいま」
癖で口が動いてしまった。母の言葉に苛立って外に出たというのに、ただいまなんて言っては間抜けすぎる。幸いなことに向こうは「おかえり」を返してこなかった。聞こえてなかったのだろう。それならばとっとと風呂に入り、何か言われる前に勉強を始めよう。単語帳を作るのがいい。今回のテストで暗記するべきことは全部単語帳で暗記したらいい。そう考えると楽しくなってきて、その勢いのままに脱いだ服を投げたら、服は洗濯機にぶつかって大きな音を立てた。そんなつもりじゃなかったのに。洗濯機に怒鳴られた俺はそっと浴室に入った。