第九章「本音」
「あ……。」
声がうまく出ない。先程、車の中で見た夢と全く変わらなかった。ただ、夢の中はどこかの海辺だったが。
「由紀…………」
必死で声を絞り出した。
彼女がゆっくりと振り返る。
時刻は、4時を廻っていた。
沈み始めた夕焼けが彼女を照らしている。
静寂。
まるで誰もいないような。
いや、うるさい筈だった。
観光客の声と、波の音で。
しかし、耳に入ってこない。
「……!」
彼女は僕が唐突に現れたことで、目が驚愕に見開かれている。
「由紀……」
のばしかけた手が、行き場をなくした。由紀が走り出したからだ。
いや、逃げ出したと言ったほうが正しいか…。
「まって!!」
行き場がなくなった手に力が入り、思わず腕を掴んだ。
が、振り払われた。
「由紀!!」
追いかけた。
由紀は、ワンピースを着ている。
走りやすいとは言えないだろう。
それも、歩きやすい道ではなく、雑然と広がる密林のなかだ。
すぐに追いつき、もう一度腕を掴んだ。今度は、先程より強く…。
彼女が、僕を睨んだ。
あの時の目だった。
「……なんで?」
由紀が胸に染み渡る声で呟いた。
「え…?」
一瞬、時が止まったように感じた。
「なんで来たの?」
彼女は、明らかに、怒っている。
声が、それを語っていた。
ただ、憎しみのそれとは違ったが。
「…逢いたかったから。雪に。」
何も考えなかった。口から口を紡ぐように言葉がついて出た。
彼女の顔が霞む。
目尻が熱くなった。
「……バカ」
彼女は泣き崩れた。嬉し泣きなのか、悲しくて泣いているのかは、解らない…。ただ、僕を拒絶している訳ではない。
そんな気がした。
「諦めてたのに。忘れようとしたのに…。なのに、どうして…。」
彼女の小さな唇が、本当に小さく開いた。
彼女の声は嬉しさに震えている…。
そう感じた。
「…………」
僕は黙って、彼女を抱きしめた。
数人の観光客が、遠目で、こちらを見てるだろう。ただ、気にならなかった。
彼女の嗚咽が、一層酷くなった。
僕は、ただただ、彼女を抱きしめていた。