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残響の代償と、微かな足音

第2話:残響の代償と、微かな足音

序:嵐のあとの澱み

裏路地に転がるガルドの巨体から、熱を失った魔力が霧散していく。

白目を剥いて気絶した男を放置し、レオンは自分の手のひらを見つめていた。先ほどまで激しく波打っていた微細な高周波はすでに消え、ただの冷えた皮膚に戻っている。

「……はぁ、はぁ……」

息が詰まる。動悸がうるさい。

能力を発動していた数秒間、レオンは自分の神経を世界のすべての振動と直結させていた。その反動として、今や世界中のあらゆるノイズが、まるで脳髄を直接ハンマーで叩くように彼の頭蓋骨の内側で反響していた。他人の足音、遠くの犬の鳴き声、風が壁を擦る音――すべてが生々しすぎて、吐き気がする。

「レオンくん、その……大丈夫……?」

恐る恐る声をかけてきたのはルルだった。彼女はガルドが落とした高級薬草の袋を抱え、怯えた子動物のような目でレオンを見つめている。彼女にとって、いつもは物静かで無害だった隣人が、一瞬にして底知れない怪物のように見えたのだろう。

レオンは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「……帰れよ。ここは危ない」

ぶっきらぼうにそう言い残すと、レオンはルルの返事も待たず、よろめく足取りで自分のボロアパートへと身を翻した。

破:王都の視線と、新たなノイズ

レオンがスラムの片隅に隠れ住むアパートに戻ったのは、夜のとばりが下りる頃だった。

だが、その平穏(と彼が呼ぶ孤独)は、すぐに破られることとなる。

「――おや。見つからないようにコソコソ隠れていた割には、派手な真似をしたものだね」

暗い部屋の窓枠に、腰掛けている影があった。

煤けたコートをまとい、顔の半分を深いフードで隠した男。その男が纏う魔力は、先ほどのガルドのような粗野な熱量ではなく、まるで泥沼のように重く、静かに周囲の空間を沈殿させている。

レオンは身構えた。反射的に、右手の感覚を研ぎ澄ませようとする。

しかし、男はその気配を察知したのか、薄気味悪い笑みを浮かべて手をひらひらと振った。

「待て待て、殺し合いに来たわけじゃない。……あたしはゼノン。王都の裏社会で『情報の掃除屋』をやっている者さ」

「……何の用だ」

「簡単な話さ。お前が昼間、ガルドの野郎を再起不能にしただろ? あの馬鹿は王都の『黒犬クロイヌ会』って組織の下っ端でね。いくら格下とはいえ、組織の人間をやられたとなると、上層部が放っておかないのさ。……だが、面白い。ガルドの鎧は内側から綺麗に分子単位で焼き切られていた。魔力による攻撃じゃない。あれは一体、何の『わざ』だね?」

ゼノンの目が、暗闇の中でらんらんと光る。

レオンは舌打ちしたい衝動を抑えた。自分の能力――【沈黙は波紋を拒まない】(サイレント・レゾナンス)は、接触しなければ効果が薄いという致命的な弱点がある。もしこの男とここで真正面から戦闘になれば、今の消耗しきった頭痛の中では勝てる保証がない。

「……見間違いだ。俺は何もしていない」

「ふむ、とぼけるかい。だがね、証人がいるのさ。『スラムのガルドが一瞬で正気を失い、崩れ落ちるのを見た』ってな。……魔力を持たない無能の落ちこぼれが、どうやってあんな芸当を成し得たのか。興味が湧かないかい?」

ゼノンは音もなく窓枠から床へと降り立ち、レオンとの距離をじわじわと詰めてくる。

彼の纏う魔力の質が変わる。それは空気の密度を操作し、周囲の音を完全に遮断する特殊な放出系の応用――「絶対静域ぜったいせいいき」の構えだった。

「お前のその力、組織の『上』に売るか、それともここで手駒として飼い慣らされるか……選びなよ、レオン・フォックス」

急:不協和音の返し方

(……くそっ)

頭痛が激しさを増す。思考のピントが合わない。

ゼノンとの距離は約三メートル。自分の能力の致命的な欠点――「自分から離れるほど影響力は減衰する。実際に触れないと効果が薄い」という壁が、重くのしかかる。

遠隔から魔弾を撃てるわけでも、風圧で相手を吹き飛ばせるわけでもない。

触れなければ、この男の神経を共鳴させることも、鎧の内部で摩擦熱を起こすこともできない。

ゼノンが冷酷な笑みを浮かべ、懐から短剣を抜いた。

「返事はなさそうだね。なら、両足の骨でも砕いて、這いつくばらせてから運ぶとしようか」

男の身体が弾けた。瞬間移動のような高速移動。魔力を足の裏の微細な振動に変換し、摩擦を限界までゼロにして滑るように間合いを詰める特殊な体術。

(――速い)

目で追うことすらできない。短剣の鋭い切先が、レオンの喉元へと迫る。

死の気配が、耳元で嫌なノイズを響かせた。

だが、その瞬間。

レオンの中で、奇妙なほど冷徹な静寂が訪れた。

(――近づいてきたな)

相手から来てくれるのなら、話は早い。

レオンは逃げることも、防御壁を展開することもしなかった。むしろ、突っ込んでくるゼノンの切先に向かって、自ら一歩踏み出したのだ。

「っ……! 自暴自棄か!?」

ゼノンの短剣が、レオンの左肩を浅く切り裂き、鮮血が飛び散る。

だが、レオンはその痛みにすら意識を向けない。彼の右手が、無防備に突き出されたゼノンの胸元――そのコートの布地へと、完全に「接触」した。

「捕まえた」

レオンの囁きと共に、彼の内側にあった「沈黙の波紋」が、最大出力で解き放たれる。

拒絶の共鳴

ゼノンが纏っていた「絶対静域」の魔力同調波が、レオンの放った超高周波によって完全に狂わされた。音を消すための魔力が、逆に周囲のすべてのノイズを何倍にも増幅させる「不協和音の爆弾」へと変貌する。

「がっ……! なんだ、これ……!?」

ゼノンの耳から、鼻から、鮮血が逆流する。

彼の脳内で、自分の発した魔力の残響が無限にループし、平衡感覚を完全に破壊した。さらに、レオンの手のひらから伝わった微細な振動が、ゼノンの着ていたコートの繊維、そして心臓を包む筋肉の分子へと直結し、内側から熱と痙攣を引き起こす。

「お前のその『情報の掃除屋』とかいう気取ったノイズも……」

レオンはゼノンの胸元を掴んだまま、冷たく言い放つ。

「俺の耳障りだ。今すぐ、消えろ」

結:波紋の広がり

「ぐあぁぁっ……!!」

大男のゼノンが、幼児のようにその場で膝を折り、たまらず失神して床に倒れ伏した。

部屋の中に、再び荒いレオンの息づかいと、窓の外の微かな風の音だけが戻ってくる。

レオンは左肩の傷を押さえ、荒く息を吐いた。血が滲んでいるが、致命傷ではない。

彼は床に倒れたゼノンを見下ろし、そして自分の手のひらを握り締めた。

「……厄介だな」

独りごちる。

ガルドを倒したことで、裏社会の連中に目をつけられた。もはや、このスラム街の片隅で、誰とも関わらずにひっそりと生きることは許されないらしい。

だが、恐怖はなかった。

レオンの胸にあったのは、かつての澱んだ絶望ではなく、この騒がしい世界に対して、自分の「波紋」で抗い続けるという、静かで確かな覚悟だった。

彼は窓の外を見上げる。

王都の空は相変わらず夜闇に包まれ、その向こう側では、無数の人間たちの欲望とノイズが渦巻いている。

――いいだろう。

もし世界がこれほどまでに騒がしいのなら、俺のこの手で、すべての雑音を完全に調律してやる。

落ちこぼれの少年は、新たな獲物となった裏社会の影を背に、静かに闇の中へと歩み出した。

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