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星の森学園

星の森学園 -佐々木 悠-

作者: 森下春
掲載日:2026/05/19

テニス部、2年B組。副会長の双葉美咲とは幼馴染。ある日を境にピアノを辞めた。

 

 大切なものは失ってから気づく。


 例に漏れず自分もそうだったなんて、思いもしなかったんだ。


「わたし、ピアノはもう辞めたの」


 君にそう言われたとき、僕の世界から音も色も消え去った。


 僕はモノトーンの世界に生きている。


「佐々木」


 名前を呼ばれて顔を上げると、そこに松本徹が立っていた。


 自分の坊主頭を撫で回し、まるで一大事だと言うかのように僕を見つめる。


「双葉さんが呼んでる」


「うん」


 僕は立ち上がって教室を出た。廊下には双葉美咲が立っていた。


 彼女はこの学園の副会長で、僕の幼馴染だ。


 出会いのきっかけはピアノ教室だった。母親同士が先に仲良くなったのもあり、僕らの仲も自然と深まった。


「このまえ借りた本返すわね。ありがとう」


 そう言って優しく微笑んだ。それは艶やかな淑女のようで、まるで僕の全く知らない人みたいだ。


「ねえ、君は--」


「それでは。またね」


 彼女はまた微笑んで、上品に僕にお辞儀をする。そのまま踵を返して去ってしまった。


 この学園の中で、彼女は僕と必要最低限の言葉しか交わそうとしない。その理由を考えるたびに、僕の中にはふつふつと色のない苛立ちが押し寄せてくる。


「羨ましいよ。あんなにお淑やかで可愛い幼馴染がいるなんて」


 松本が僕の後ろに立っていた。


「見てたんだ」


「才色兼備とはまさに彼女のためにある言葉だ」


「君は本当の彼女を知らないだろ」


「さすが幼馴染。愛だね」


 松本はおどけたように言う。


「そんなんじゃない」


 僕は彼女から帰ってきた本を見つめた。それはグレン・グールドの伝記だった。


「グレンゴールド‥‥?」松本は僕の手元の本を覗き込んで、表紙の文字をなぞるように読み上げた。「だれ?」


「有名なピアニストだよ」


 わたし、ピアノはもう辞めたの。


 彼女の声が蘇る。


 こんなものをまだ読むくらいなら、辞めなければよかったじゃないか。


「で、誰だって?」


「は?」


 僕は目を丸くした。


「だから有名なピアニストだって」


「へー。そうなんだ」


 松本は肩をすくめた。


 ---


 部活終わり、テニスバッグを抱えて部室を出ると、牧野仁に呼び止められた。


「もう帰んのかよ。みんな自主練してるのに」


 太い眉を寄せて、僕を見下ろしている。


 彼の大きな体躯の向こうにある夕陽が眩しくて、僕は目を細めた。


「このあと用事あるから」


「そんなんでいいのか? このままじゃレギュラーなんて夢の夢だぞ」


「うん」


「うんって、おまえ‥‥!」


 唖然としている牧野に背を向けて、僕は歩き出した。


「だったらなんでテニスしてんだよ」


 僕の足音に混じって、牧野がつぶやくのが聞こえた。


 ---


「悠くんがテニス部なんて、いまだに慣れないわねえ」


 有梨沙さんは僕の肩にぶら下げたテニスバッグを見つめて言った。


「それ、会う度に言ってます」


 僕は困ったように笑うことしかできなかった。


「玄関で立ち話もあれでしょう。どうぞ上がって」


「いえ。お気遣いなく‥! 母からの届け物を渡したら、僕はすぐ帰りますので‥‥!」


「あら、そんなこと言わずに。わたし聞きたいわ。学園での悠くんのことや、美咲のこととか」


 そう言いながら、彼女は僕の前に本革のスリッパを並べた。


「美咲ねえ。あの子、学校のこと少しも話さなくなっちゃったから。心配なのよ」


 この人は双葉有梨沙。僕の幼馴染である双葉美咲の母親だ。


 ほらほら。と半ば強引に有梨沙さんに急かされて、僕は家に上がった。


 人ひとりくらいなら住めてしまいそうな大きな玄関ホールには、双葉家の先祖が立派な額縁とともに飾られている。


 軍服姿の曽祖父の肖像画、高速道路の開通式で握手を交わす祖父の写真、そしてIT企業の上場式で鐘を鳴らしている父親の写真。


 玄関からリビングへ、真っ直ぐ伸びる廊下の壁はガラス張りになっていて、大きな庭を眺めることができる。


 双葉美咲。彼女は名家のひとり娘だ。


 けれど、そのことは学園内では秘密にしている。彼女自身がそれを望んだ。


 どうして秘密にするのか。きっと彼女は自分の力を試しているんだと思う。


「それにしても、美咲に続いて悠くんまでピアノを辞めちゃうなんてねえ」


「すみません」


 僕たちはリビングのテーブルに座った。


 僕はカバンから綺麗に包装された紅茶を出して、有梨沙さんに渡した。


 有梨沙さんは「ありがとう」と紅茶を受け取る。


「悠くんはピアニストを目指しているもんだと思っていたわ」


「僕もそう思ってました」


「でも、今は弾いてないんでしょう?」


「はい」


「どうして?」


 有梨沙さんの目を真っ直ぐに見れなかった。僕は俯きがちに答える。


「自分がピアノを弾く意味が分からなくなってしまったんです」


 わたし、ピアノはもう辞めたの。そう言って高校に入学する前に美咲はピアノを辞めた。


 それから僕はひとりでピアノに向き合うようになった。一人で弾くピアノは想像以上に退屈で、寂しかった。


 となりで鼻歌を奏でたり、僕の演奏にいちゃもんをつけてきたり、かと思えば細かくアドバイスを求めてきたり。そんな女の子はもういない。


 ピアノは孤独な楽器だった。


 ピアノの前に座る時間は次第に減っていき、ついには座らなくなった。テニス部に入ったのもピアノのことを忘れたかっただけだ。


「青春ねえ」


 有梨沙さんは微笑むだけで、それ以上追求はしなかった。


 しばらく有梨沙さんと他愛のない会話をしていると、外から車の音が近づいてきた。


「あら。美咲が帰ってきたみたいね」


 有梨沙さんは言った。


 美咲には必要とあれば車で送り迎えをしてくれる人がいる。


 有梨沙さんは僕が届けた紅茶を持ってキッチンへと歩いた。


 少しして、美咲は廊下から顔を出した。そして僕の顔を見るなり眉を寄せた。


「なんであんたがここにいるわけ?」


「届け物だよ。うちのお母さんから」


「そう。使いっ走りされたのね。かわいそうに」


「そんな言い方ないだろ?」


「だって事実じゃない」


「事実だけど」


 美咲は僕のとなりに座ると「つかれたあ」とぼやきながら欠伸をした。


 学園でのお淑やかな姿はどこへ行ったのか、今の美咲はお転婆で皮肉屋で、自由奔放な女の子だ。


 でも僕の知っている本当の彼女はこっちだった。


「紅茶を頂いたのよ。兵庫のだって」


 言いながら、キッチンから有梨沙さんが戻ってきて、ティーカップをテーブルに並べた。


「それより私はお腹減った。ご飯は?」


 あけすけに美咲が言うと、有梨沙さんはクスリと笑った。「これから持ってくるわ」とキッチンへとまた向かう。


「そうだ! 悠、ピアノ弾いてよ! 久しぶりにあんたのピアノ聴きたい!」


 キュッと胸がしぼんだ。美咲の顔を見ると、僕の葛藤なんて知ったことかと言うように、無邪気な瞳で僕を見ている。


「知ってるでしょ? ピアノはもうやめたんだ」


「ちょっとくらいいいじゃない。聴かせてよ」


「だから弾かないって」


「いやだ! 聴きたい!」


 僕はため息をこぼした。こうなったら、彼女は僕の言うことなんかお構いなしだ。


 リビングの端にはグランドピアノが置いてある。僕はそのピアノの前に座った。


 子供の頃、母さんに連れられてこの家によく遊びに来た。その度に、ここで美咲とピアノを弾いていた。


 特段なにも考えず、指先の動くままにピアノを奏でた。


 どんなにピアノを忘れようとしたって、体は覚えているものだ。僕の指は体に刻み込まれた楽譜をなぞっていく。


『亜麻色の髪の乙女』。ドビュッシーの有名な前奏曲だ。


 美咲が僕のもとへ近づいてきて、ピアノの縁に寄りかかった。


「あなたの音、少し変わったのね。優しくて、どこか儚げ。でも‥‥すごく素敵‥‥!」


 僕はなにも答えなかった。色のない苛立ちがふつふつと、僕の世界を白黒に染め上げる。


 僕は苦しみながらピアノを弾いているのに、それを君は素敵だと言う。


「ねえ。どうして辞めちゃったの?」


 僕は目を見開いて、美咲を見た。


 どうして君がそんなことを言えるんだ。


「それは君が‥‥」


「わたし‥‥?」


 ピアノを辞めたから。その言葉を、すんでのところでのみこんだ。


 分かってはいるんだ。彼女は僕のためにではなく、彼女自身のために生きている。


「なんでもない」


 僕は鍵盤に視線を戻した。


「上には上がいるって、ごく当たり前のことを思い知っただけだよ」


 とにかく、この話をこれ以上したくなかった。


「君は変わってしまった」


 僕はむりやりに話題を逸らした。


「学園にいるときの君は君じゃないみたいだ」


「変わらないといけないのよ」


「なんのために?」


「生徒会長になるために」


「なんのために?」


「わたしのために」


「そうか」


 僕には理解できなかった。


 家のこととか、生徒会のこととか、彼女に課せられた重荷があることは知っている。


 それでも自分を偽る必要なんてどこにもないのに。


 このままだと僕の知っている本当の彼女はどこか遠くへ追いやられて、このまま消えてしまうのではないかと思うと寂しかった。


「正直に言って欲しいんだけど、橘会長と比べて、今のわたしはどう?」


 そんなの考えるまでもなかった。


 だって偽っている君なんて、少しも君らしくない。


「敵わないね。少しも」


「なっ‥‥!」


 美咲はグランドピアノにかぶりつくくらいの勢いで前のめりになって、僕の顔を睨みつけた。


「なによそれ! そんなにはっきりと言わなくてもいいじゃない!」


 その声の勢いに驚いて、僕は演奏を止めた。


「なんで怒ってるんだ‥‥! 君が正直に答えろって言ったんだろ!?」


「それでも、もうちょっとオブラートに包むとかさ! 幼馴染の女の子がこんなに頑張ってるのに、気を使ってやろうとかいう気持ちはないの!?」


「僕が気を遣うと気持ちわるいって、いつも君は言うじゃないか!」


「それでもして欲しいの! それが女心なの!」


「ちがう! それはただの君のわがままだよ!」


「ちがくない! どうして分かってくれないの!」


「君だって!!」


 美咲につられて、僕の声まで思わず大きくなる。彼女はびくりと肩を震わせた。


「こんなに一緒にいるのに、少しも僕の気持ちを知らないじゃないか‥‥!」


 美咲は目を丸くしていた。


「なによ‥‥。あんたの気持ちって‥‥」


 僕は理解した。彼女と僕はもう、まるっきり違う世界を生きている。


「悠くん?」


 テーブルの方から有梨沙さんが声をかけた。心配そうな顔で僕らを見ている。


「一緒にご飯食べましょう? きちんと話し合って、仲直りしようね」


 僕はかぶりを振った。


「今日はもう帰ります。お邪魔しました」


 そう言って、家を出た。



 翌日の午後、有梨沙さんからメッセージを受け取った。


『昨日の紅茶のお返しをします。だから今日も来てもらえる? 絶対に今日じゃないとダメです』


 僕はスマホの画面を見つめ、ブルっと肩を震わした。


 有梨沙さんが僕や美咲に敬語を使うときは、たいていの場合は説教の前振りだった。


 しかも僕が断れないように、今日でないとダメだと念を押している。


 部室内は騒がしかった。牧野仁と野田柊しゅうがレギュラーの最後の一席を賭けて試合をするらしい。


 僕はその喧騒をあとにして、双葉美咲の家に向かった。


 ---


「昨日の紅茶のお返しよ」


 予想に反して、有梨沙さんは温かく僕を迎えた。


 僕がリビングの椅子に座ると、有梨沙さんからはクッキーの入った缶詰を渡された。


「昨日は驚いたわ。悠くんでも、あんなに感情的に怒鳴ることがあるのねえ」


「すみません‥‥」


 僕は小さく言った。


「あら。それは何に対して謝ってるの?」


「え‥‥」


 有梨沙さんはティーカップに口をつけながら、僕の目をジッと見つめていた。


 なんて答えればいいか分からなかったから、時間稼ぎにと、ティーカップの紅茶を飲もうと口をつけた。


「悠くんは美咲のことが好き?」


 突然に有梨沙さんは言う。


 僕は思わず紅茶を吹き出しそうになった。


「な‥‥! いきなり何を言うんですか‥‥!」


 むせながら言った。


 慌てふためいている僕を見て、有梨沙さんは静かに微笑んだ。


「あんな子だけど、嫌いにならないであげて。あの子が素直になれるのは、きっと悠くんの前だけだから」


 心配なの。と有梨沙さんは頬に手を当てながら言う。


「あの子、学園だと無理してるでしょう? なんとなく分かるの。家で学園の話をしたがらないから。でもね、女の子には自分をさらけ出せる居場所がないと駄目なのよ」


 だから、と続ける。


「わたしは悠くんに感謝しているのよ」


 僕はその言葉を黙って受け止めた。


「でも一つだけ、許せないことがあります」


 有梨沙さんはティーカップをテーブルに置くと、その縁を指で叩いた。


 ついに来た。僕は次の言葉に備えて背筋を伸ばした。


「悠くんは自分に素直になってない。本当は美咲に伝えたいことがあるんじゃないの?」


 なんだ、そんなことか。まるで肩透かしをくらった気分だった。


 僕はゆっくりと視線を下げた。


「どうせ言っても伝わりません。僕は口下手だし、またすれ違うだけです」


「なに言ってるのよ。あなたにはピアノがあるじゃない」


 ピアノ‥‥。


「それはもう‥‥」


 僕が再び視線を上げると、いつの間にか有梨沙さんはそこにいなくなっていた。窓辺で庭を眺めている。この家にやってきた時よりも、夕焼けは濃くなっていた。


「美咲が帰ってきたみたい」


 有梨沙さんは言った。


 少しすると廊下から足音が聞こえて、美咲がリビングに現れた。僕を見て、げっと声を漏らす。


「なんで今日もあんたがいるのよ」


 美咲は僕と目を合わせない。


「仕方ないだろ。君の母さんに呼び出されたんだ」


 窓辺で庭を眺めていた有梨沙さんは振り向いた。重々しく咳払いをする。


 わかりやすく空気が変わった。美咲の横顔が強張るのが分かった。


 なるほど。僕の恐れていたことはこれから始まるらしい。


「これは親として出過ぎた真似かもしれません。あなた方はお節介だと思うかもしれません。それでもわたしは二人のことが心配です。これは父さんの言葉なんだけれど、感情や主張は押し付け合うものではなく、受け入れ合うものです。そういう意味で、あなた達にはまだ会話が足りていないと母は思います」


 有梨沙さんは滔々と話し続ける。


「なので、ふたりが仲直りできるまで、今日は悠くんを帰らせません。美里さんにも話はとおしてあります。時間はたっぷりあります。お互いが納得いくまで話し合ってください」


 そう言うと、あとは勝手にと言わんばかりに有梨沙さんはリビングから消えていった。


 美里さんとは僕の母親のことだ。母親同士が仲が良いというのは、ときに困りものだ。


「君の母さんって、たまに凄くおっかないことするよね」


「あんたの母さんも相当じゃない。これをよしとしたんだから」


 美咲の言うことはもっともだった。


 美咲はテーブルの周りをうろうろと歩いてから、ようやく僕のとなりの椅子に座った。


 しばらく沈黙が続いた。


「昨日はごめん」


 僕が言うと、美咲はたっぷりと間を空けてから、ため息をこぼした。


「いいよ。先に怒ったのは私だから。わたしの方こそ、ごめん‥‥」


「君が怒るのなんて、いつものことじゃないか」


 なにか言い返されるだろうと思っていたが、意外にも美咲は素直に「そうかもね」とつぶやくだけだった。


「永田蒼って知ってる?」


 彼女は唐突に質問をする。


「うん。同じクラスだから」


 彼も美咲と同じ生徒会メンバーだ。それだけ知っているだけで、特別仲がいいわけではなかった。


 美咲は睨むようにテーブルの天板を見つめた。それから堰が切れたように話し出した。


「嫌なやつだった。わたしだと会長の代わりにはなれないって決めつけてきて。だから次の生徒会長選挙には立候補しない方がいいって言われて。そうすれば、わたしが傷つかなくてすむし、人望も失わずにすむから。とか私を思いやったような嘘くさい台詞を吐いて。本当は自分が生徒会長になりたいだけのくせに‥‥!」


 窓から注ぐ夕日はさらに赤くなっていた。僕は黙って聞いていた。床に落ちた彼女の影を見つめる。


「悔しかった! とっても‥‥! でも何も言い返せなかったの。だって、あいつの言うことは正しいから。わたしは会長みたいにはなれない。あの人みたいに完璧じゃないし、もともとそんなたいした人望もない。だから私なんかが生徒会長になったら、きっとみんなを失望させて、簡単に見限られちゃう‥‥!」


 美咲はスカートの裾を摘んだ。指が震えていた。


「だったら生徒会長になれたところで、わたしは何ひとつ証明できない‥‥!」


 また沈黙が訪れた。


 美咲はなにも分かっていない。こんなに僕を振り回しておいて、どうして自分をそんな風に言えるんだ。


 君は分かっていない。そう言おうと思ったけれど、口をつぐんだ。


 僕は黙って立ち上がると、グランドピアノの前まで歩いた。椅子に座って姿勢を正した。


「この曲、覚えてる?」


 そう言って、僕が弾いたのは『星に願いを』。


 何度も何度も、君と一緒に弾いた曲だ。


 ---


 子供の頃、母に連れられて双葉家によく来ていた。


 その家にいた女の子は、いつも連弾をしたいと僕にせがんできた。


「ゆーう! れんだんしよー!」


「えー。もういいよ。どうせあの曲しか弾かないだろ?」


「いいじゃんよー! だって好きなんだもん!」


「ひとりで弾きなよ」


「いやだー! 悠とが一番きれいなの!」


 僕が困った顔をすると、女の子は涙ぐむ。


「わたしと演奏するの、そんなに嫌?」


「そ、そんなことないよ‥‥! 一緒に弾くから! 泣かないで!」


「やったー!」


 女の子は涙を引っ込めて、ケロリとして喜ぶ。


 コロコロと表情を変える子だった。話を聞いてくれないと怒ったり。かと思えば次の日には僕の寝癖が変だと笑ったり。ピアノを弾いている横顔は、いつも楽しそうだった。


 そんな彼女の横顔を見るのが、僕は好きだった。


 勝手気儘で天真爛漫。ピアノが大好きな素敵な女の子。


 そんな女の子が双葉美咲だ。


 ---


 美咲は目を閉じて、僕の演奏を聴いていた。


「どうしてピアノを辞めたのかって君は訊いたよね?」


 僕が話しかけると、美咲は目を開けた。


「それは君がピアノを弾かなくなったからだ」


「どういう意味?」


 僕は鍵盤を見つめた。


「君とピアノを弾く時間が好きだったんだ」


 言葉は最小限でいい。多分、それ以上は蛇足だから。想いは全て、ピアノに込めよう。


 演奏を続けていると、美咲は何も言わずに歩き出して、僕のとなりに立った。


 僕が椅子の左側に腰を動かしてスペースを空けると、美咲はそこに座った。


 美咲は綿毛のように白くて細い指を鍵盤に乗せ、音を奏でた。


 いつぶりだろう。こうして二人でピアノを弾くのは。


「でも会長には少しも敵わない?」


 指を動かしながら、美咲は言った。


「それは‥‥学園での君は、君じゃないから」


「しかたないじゃない。そうしないと、誰もわたしなんか認めてくれないもの」


「そんなことないよ」


 思い出して欲しい。知って欲しい。このピアノの音には、僕の思い出の中には、誰よりも魅力的な君がいる。


「君は君のままが、いちばん魅力的だよ」


 伝わっただろうか。伝えられただろうか。この気持ちを。僕のピアノで。


 これが、今の僕が君に伝えられる精一杯だ。


 美咲は泣きながらピアノを弾いていた。


 美咲が演奏をやめない限り、僕もピアノを弾き続けよう。


 たとえ、この夜が終わろうとも。いつまでも。


 ---


 翌日、僕は退部届を顧問に提出してテニス部を退部した。


 自宅に帰ると、ここ一年以上入ることのなかった部屋の扉を開けた。


 部屋の中央にはグランドピアノがポツンと佇んでいる。


 埃が被っていた。指で触れると、僕の知っている温度より冷たく感じた。


 ピアノに被った埃を指で払った。


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