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体罰容認論者は気持ち悪い。何故なら体罰容認論者の心の原風景は、日本で現実にあった地獄そのものに他ならないからだ

作者: ふりがな


日本における体罰の原点は何処にあるのか。

教鞭という言葉からもわかる通り、イギリスの教育において体罰は付き物であった。

ほんの少し昔の小説を読めば、イギリスの教師は皆鞭をもっている事を知るだろう。

アニメ、トムソーヤの冒険でも教師は鞭でもって子供を体罰をするシーンがある。

プロテスタントの国イギリスにとって、子供は悪さをする物であり、神聖な精霊などではなく、当たり前に体罰の対象だったのだ。

子供への体罰教育が原点になったのか、それとも海運国家における船上の統制のためなのか、イギリスの軍隊教育では体罰は必須だった。

所が陸軍を中心としたドイツの軍隊教育では体罰が無い。

そう、かつて教育に体罰が必要かの価値観は国家によって違うものであったのだ。


では、戦前日本ではどうであろうか。

体罰容認論を声高に叫ぶ人は、きっとこう思っているに違いない。

江戸、奈良平安時代に遡って、日本では古来から体罰教育であったのだと。

しかし、家庭ならともかく、殊公教育において体罰が容認されていた歴史など戦前日本には存在しない。

日本は前時代暴力を象徴とする侍の国だった。

侍と近代の混じり合う時代に公教育が始まり、教師が親が誰かもわからない子供をぶん殴っていては、とても命が足らない。

故にかどうかは解らないが、戦前日本では法として体罰教育は禁止されていたのだ。

警察沙汰になるのはきまって教師が子供を殴ったという物ではなく、子供が教師に暴力を振るったという物であった。


では、日本の体罰教育の原点。

体罰教育の原風景は、戦前日本でなかったら、いったい何処にあるのだろうか?


言うまでもなく、それは敗戦により地獄と化した日本である。


現代の教師に教室の荒れる根拠を述べさせれば、家庭に問題のある子供を指すだろう。


敗戦時の日本は、正に問題だらけであった。

電気水道は止まり、建物自体も焼け野原。

通貨は大暴落し、配給制度で配られる食料は生きていくのに足らない。

小学校を卒業したら働かなければ生きていけない時代だ。

そして、戦地から帰ってきた父はPTSDで壊れていた。

子供にとっては、この世の地獄である。

敗戦期の日本で公教育が機能しないのは必然だった。

そこで登場したのが、教育のためなどではなく、古参兵のストレス発散と軍統制のために陸軍に導入された体罰教育を知る退役軍人教師である。

彼らは敗戦期で荒れる公教育に、覚えたての純粋な暴力による支配と恐怖をもって子供たちを制圧したのだ。

地獄の中にさらなる地獄を出現させた。

子供にとっての地獄の中のさらなる地獄が、日本のすべての体罰教育容認論者の原点。

心の原風景だ。

だから私は思うのだ、一度経緯を知ってしまえば、彼らはとにかく気持ちが悪く見えるのだと。


加減を知らぬ体罰教育の発生は、日本の公教育に暗い影を落としていく。

子供を殴る輩は弁護のしようのないクズである。

それが自分が気持ち良くなるためならば尚更である。

やがて教師は子供の明確な敵となり、教師に報復を加える者が皆のヒーローとなった、それが当時の不良である。

教師は報復の恐怖から竹刀や木刀で自衛するようになった。

戦後日本の不良文化の拡大は、体罰教育の加減のやり方をわからぬ教師が招いたのだ。

では何故、戦後教師は、体罰教育の加減がわからなかったのだろうか。

当然、日本の歴史において初めての事だからである。

対策もわからぬまま、不良文化は戦後30年を過ぎ、1980年代まで拡大の一途を辿った。

日本人の世代が一つ二つ回るまで、新たなる暴力は止まらない連鎖反応を生んだのだ。


それが体罰教育も後期になると、教師は体罰教育の加減を徐々に覚えていった。

テレビドラマによる熱血教師の登場は体罰教育の加減を後押しし、体罰は良い物だとプロパガンダとして子供を、大人を、全日本国民を洗脳した。

今では体罰教育は良い物だったという良い歳をした輩まで出る始末だ。


しかし、暴力教師が体罰教育を加減するようになった真のきっかけは、暴力には暴力しかないのだと、当時の子供たちが立ち上がり、大人に報復を始めた事にある。

体罰教育とは、本質的に、子供たちに暴力による報復の権利と知識を与えて、初めて機能する物なのだ。

殴られたら、当然殴り返して良い。

殴り返すべきだ、暴力が容認された世界では、それでしか世の中は良くならない。

落ちこぼれた不良たちに、毎年卒業の季節に総理大臣をリンチさせる権利を与えて、ようやく他の解決策を見つけなければならないと思えるような、大人と子供の力関係の歪さが生んだ、一方的な他罰的な主張なのである。


私は、このような過去の日本の経緯から、体罰の加減の理解は個人レベルでは到底難しいと感じているし、体罰を容認するならば、子供たちに集団で殴る権利を与え、個人的に殴られる覚悟がないのであるならば、当然他の手段を検討すべきであると考える。


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