勘弁してください! 私、嘘つけないんです
王都の裏路地にひっそりと佇む店に、そのエルフはいた。
陽に焼かれた健康的な褐色の肌に、月光を溶かしたような銀の髪。
道行く誰もが振り返る美貌を持つ彼女、エリアーナが浮かべる笑みは熟した果実のように甘く、そして猛毒を隠し持っていた。
「___というわけでして、男爵様。こちらの権利書にサインをいただければ、例の鉱山の利益は今後、すべて男爵様のものに。私のような小娘は、ほんの少しの手数料をいただければ満足でございます」
目の前に座る脂汗を浮かべた男爵の瞳が欲望にぎらつくのをエリアーナは完璧な微笑みの裏で冷静に観察していた。
もちろん、この話はすべて出鱈目だ。
男爵がサインすれば彼の資産は合法的にエリアーナの懐に転がり込む。
これも全ては遠い故郷で待つ家族のため。
病気の母さん、お腹を空かせた弟たち……。
感傷を振り払い、彼女は羽根ペンをそっと男爵へ差し出した。
その瞬間だった。
『悪しき娘よ。汝の偽りの舌に、神罰を下す』
「え?」
どこからともなく、荘厳で有無を言わさぬ声が頭の中に響き渡った。
男爵は何も聞こえていないのか、きょとんとしている。
幻聴?
いいや、違う。
全身の血が逆流するような、抗えぬ気持ち悪さが体を貫いたのだ。
「な、なんだ今の声は……」
エリアーナが呆然と呟いた、まさにその時。
「そこまでだ、悪徳商人!」
店の扉が蹴破られ、月光を背負って現れたのは見慣れた白銀の鎧。
生真面目を絵に描いたような眉間のシワ、厳しくも整った顔立ち。
王都騎士団を率いる団長、ゼイド・ファルケン。
エリアーナにとって最も会いたくない天敵だった。
「あら騎士団長。ごきげんよう。私のような哀れな小娘を捕まえるなんて、お暇なのね」
いつも通りの軽口。
いつも通りの悪女の仮面。
しかし、今日は何かが違った。
(今日も今日とて良い男……。その眉間のシワすら素敵に見えるのが本当に悔しい!)
「今日も今日とて良い男……。その眉間のシワすら素敵に見えるのが本当に悔しい!」
自分の心の声がなぜか勝手に口から滑り出た。
「なっ……!?」
今のは何?
自分の声?
混乱するエリアーナにゼイドは訝しげな視線を向ける。
「何か言ったか?」
「な、なにも!というか、そんな熱心に見ないでちょうだい!顔が良いのを自覚してる男は嫌いなんだから!」
しまった。
まただ。
思考が検閲を通さずに言葉となってあふれ出る。
さっきの声、まさか神様……?
「わけのわからないことを……。男爵を騙そうとしていたな。動かぬ証拠はこちらで掴んでいる。大人しく投降しろ」
ゼイドが冷静に告げる。
その姿にエリアーナの心臓が不規則に鳴った。
(くそっ、こんなカタブツに捕まるなんて! でも、捕まえに来たのがあなたで、少しだけ安心している自分もいるなんて、絶対に言えない!)
「こんなカタブツに捕まるなんて最悪よ!でも、あなたで良かった……なんて、思うわけないでしょ、バカ!」
「……」
ゼイドがいよいよ怪訝なものを見る目でエリアーナを見つめている。
一方の男爵は騙されかけていたことに気づき、腰を抜かしていた。
エリアーナは顔を真っ赤にして頭を抱えた。
終わった。
商人生命も、私の尊厳も、何もかも。
こうして嘘つきエルフのエリアーナは、神罰によって『思ったことが口に出る呪い』をかけられ、天敵である騎士団長にあまりにもあっけなく捕らえられたのだった。
騎士団本部の取調室は冷たく、静かだった。
石造りの壁に鉄の机と椅子が二脚。
エリアーナは手枷をはめられ、その片方に座らされていた。
向かいには腕を組んで厳しい表情を崩さないゼイドがいる。
二人きり。
最悪の状況だ。
この呪いさえなければ適当な嘘で煙に巻くなり、色仕掛けで籠絡するなり、やりようはいくらでもあったのに。
「さて、エリアーナ。単刀直入に聞く。なぜあのような悪事を働いていた?」
ゼイドの低く、よく通る声が静寂を破る。
(さあ、尋問の始まりね。いつものように、可愛そうな身の上でも語って同情を買ってやろうかしら)
「さあ、なんでしょうね? スリルが好きなのよ。あなたみたいなカタブツさんをからかうのは、特にね!」
口から出たのはいつもの挑発的な言葉。
だが内心は冷や汗でびっしょりだ。
ゼイドは眉一つ動かさない。
「お前の手口は巧妙だ。だが、狙うのは決まって民から搾取する悪徳貴族や違法な商売に手を染める者ばかり。まるで義賊気取りだな」
(鋭い……! そうよ、私はどうしようもないクズからは奪うけど、真面目な人たちからは一銭たりとも奪わない。それが私の最後のプライド……!)
「義賊ですって? 買い被りね。ただ、カモにしやすい相手を選んでるだけよ。あなたには関係ないでしょう?」
強気に言い放つが声が少し震えてしまったかもしれない。ゼイドの灰色の瞳が、じっとエリアーナの心を見透かそうとしてくる。
「金は何に使うつもりだった? お前ほどの腕なら、贅沢な暮らしもできただろう。だが、お前の住まいは質素で、余計なものを買った形跡もない。あの金はどこへ消えている?」
核心を突く質問にエリアーナの心臓が跳ねた。
それだけは、それだけは言えない。
故郷のこと、家族のことだけは。
(うるさい、うるさい! あなたに関係ない! 私の家族のことを、あなたなんかに知られたくない!)
「あなたには関係ないって言ってるでしょ! しつこい男は嫌われるわよ!」
必死に言葉を捻じ曲げようとするが、思考と感情が昂るほど本音が漏れ出てしまう。
「なぜだ。なぜ正直に話さない」
ゼイドが机に乗り出すようにして距離を詰めた。
真摯なあまりにもまっすぐな眼差し。
その瞳に見つめられると、固く閉ざした心の扉が軋みを立ててこじ開けられていくようだ。
ダメ、見ないで。
そんな目で見ないで。
私の汚れた部分も、弱い部分も、全部暴かれてしまう。
「お前の瞳は、ただの悪党のそれではない。何かを守ろうとしているように見える」
(やめて……)
「エリアーナ」
(やめてってば……!)
「エリアーナ」
名前を呼ばれ、エリアーナの防御壁はついに砕け散った。
「家族のためよ!」
叫ぶように言葉が飛び出した。
一度溢れ出すともう止められない。
「貧しい村にいる家族にお金を送りたかっただけなの! 病気の母さんと、まだ小さい弟たちが、お腹を空かせて待ってるの! 私が稼がなきゃ、あの子たちは……!」
ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝った。
悪女の仮面は剥がれ落ち、そこにはただ、家族を想って泣く一人の娘の姿があった。
「うわぁぁぁん、全部喋っちゃった……! 私のバカ……!」
机に突っ伏し、エリアーナは子供のように泣きじゃくった。
もうおしまいだ。弱みを握られた。
これをネタに何をされるか分からない。
しばらく、しゃくりあげる声だけが部屋に響いた。
やがて頭上からため息が一つ聞こえ、静かな声が降ってきた。
「……そうか」
それだけだった。
責めるでもなく、嘲るでもない、ただ静かな相槌。
エリアーナが恐る恐る顔を上げると、ゼイドは組んでいた腕をほどき、どこか遠くを見るような、複雑な表情をしていた。
その表情の意味をエリアーナはまだ知らなかった。
てっきり石牢に放り込まれるものだと思っていたエリアーナは通された部屋を見て目を丸くした。
そこは牢屋どころか、簡素ながらも清潔なベッドと机が置かれた日当たりの良い客室だったのだ。
「ここがお前の部屋だ。監視下の中で暮らしてもらうが、最低限の自由は保証する」
手枷を外しながらゼイドが淡々と告げる。
「な、なんで……? 私、犯罪者でしょう?」
(こんなVIP待遇、何か裏があるに違いないわ!)
「何か企んでるんじゃないでしょうね! 私からさらに何かを搾り取るつもり!?」
警戒心丸出しの本音にゼイドはわずかに眉を寄せた。
「お前の処遇は追って決める。それまでは俺が監視役を務める」
「あなたが!?」
(よりにもよって、この天敵が監視役ですって!? 私の心臓、持つかしら……!)
「冗談でしょ!? あなたが一番、私の本音を聞いちゃいけない相手なのに!」
「決定事項だ」
有無を言わさぬ口調で告げ、ゼイドは部屋を出て行った。残されたエリアーナはふかふかのベッドに倒れ込み、天井を仰いだ。
「これからどうなるのよ……」
その生活はエリアーナの予想とは少し違っていた。
ゼイドは言葉通りほとんどの時間をエリアーナの監視に充てた。彼女が部屋で過ごしている間は扉の外に立ち、中庭を散歩する時も少し離れた場所から付き従った。
そして三度の食事は彼が自ら運んでくるのだ。
「夕食だ」
盆に乗せられたのは湯気の立つ野菜スープと焼きたてのパン。飾り気はないが、とても美味しそうな匂いがした。
(食欲が湧いてきた……。それに、すごくいい匂い……)
「そんなに食べたくないんだから」
素直になれない言葉とは裏腹にお腹が「きゅるる~」と可愛い音を立てる。
エリアーナは羞恥に顔を覆った。
ゼイドは小さくため息をつくとスープの皿を机に置いた。
「……冷める前に食え。毒など入っていない」
促され、エリアーナは恐る恐るスプーンを手に取った。
一口、スープを口に運ぶ。
野菜の優しい甘みがじんわりと体に染み渡った。
(美味しい……なんだか、昔、お母さんが作ってくれた味に似てる……)」
「……美味しい。あなたの作るもの、なんだかすごく安心する味がするわ……」
はっとして口を押さえるが、もう遅い。
ゼイドは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに「そうか」とだけ言って背を向けた。
だが部屋を出て行く彼の耳が、わずかに赤く染まっているのをエリアーナは見逃さなかった。
そんな日々が続くうち、エリアーナは気づき始めていた。ゼイドは、ただのカタブツではない。
ぶっきらぼうな態度の裏に不器用な優しさが隠れていることに。
ある日の午後、エリアーナが窓辺で本を読んでいると不意にゼイドが部屋に入ってきた。
「少し話がある」
彼が近づいてくる。
その距離、わずか一歩。
彼の纏う陽の光と微かな鉄の匂いに、心臓が大きく音を立てた。
(ち、近い! 近いわよ! ただでさえ顔が良いのに、そんなに近づいたら心臓に悪い!)
「近い!そんなに近づいたら勘違いするでしょ、バカ!」
バッ、と本で顔を隠す。
ゼイドは一瞬きょとんとした後、わざとらしく咳払いをして一歩下がった。
「す、すまん……。お前の家族のことだが、人を派遣し、村の様子を調べさせた」
「えっ!?」
エリアーナは本を落としそうになる。
「幸いお母上の病はまだ初期段階で、王都の薬師を送れば治る見込みだ。食糧についても当面は困らないよう手配した」
「な……なんで、そんなこと……」
(なんでこの人はここまで……)
「なんであなたにそんなことされなきゃいけないのよ! 余計なお世話よ!」
口から出るのはまたしても天邪鬼な言葉。
でも瞳からは涙がこぼれそうになるのを止められない。
そんなエリアーナを見て、ゼイドは困ったように眉を下げた。
「……お前が、そんな顔をするからだ」
「え……?」
「悪事を働きながらも、お前はいつもどこか寂しそうな顔をしていた。本当はこんなことをしたいわけじゃないと、瞳が訴えていた。だから……」
それは監視する者の言葉ではなかった。
「俺は……お前の本当の姿を知りたかったのかもしれない」
まっすぐな告白。
それはエリアーナの心の最も柔らかい場所を優しく貫いた。
もうダメだった。偽ることも、抗うことも。
(もう、無理……。この人のそばにいると……)
「あなたのそばにいるとドキドキして苦しいわ……」
涙声で言葉が漏れる。
「でも、嫌じゃないの……」
エリアーナは泣きながら、初めて正直に笑った。
数日後。
エリアーナは再びあの取調室に呼び出された。
しかし、以前のような絶望感はなかった。
向かいに座るゼイドの表情も心なしか穏やかに見える。
「お前の処遇について、騎士団としての方針が固まった」
ゼイドが切り出した。
ごくり、とエリアーナは唾を飲む。
「お前がこれまで行ってきたことは許されることではない。だが、その動機には酌量の余地がある。よって、罪を償う機会を与える」
「罪を償う……機会?」
「そうだ。お前のその類まれなる商才と交渉術、今度は正しい目的のために使え」
ゼイドは一枚の羊皮紙を机に滑らせた。
それは王都とエリアーナの村を結ぶ、新しい交易路の計画書だった。
「村の特産品を王都で売り、正式な商売で村を豊かにするんだ。俺が、騎士団が後ろ盾になる。お前の家族も金の心配をする必要はなくなる」
夢のような提案だった。
汚れた金ではなく、自分の力で、正々堂々と家族を支える。そんな未来。
(なんで、そこまで……。私なんかのために、どうして……)
「なんで、私なんかにそこまでしてくれるの……?」
震える声で尋ねるとゼイドは少し照れたように視線を逸らした。
「俺は……お前に惹かれている」
「え……」
「監視するうちに、お前の本当の姿に惹かれた。……いや、違うな。初めてお前を追った時からその瞳に、俺はもう心を奪われていたのかもしれない」
カタブツ騎士団長のあまりにも不器用で、あまりにもまっすぐな告白。
エリアーナの顔がカッ、と熱くなる。
心臓が今にも飛び出してしまいそうだ。
(そ、そんなこと言われたら、断れるわけないじゃない……! 嬉しくて、死んじゃいそう……!)
ゼイドが期待と不安の入り混じった顔で彼女の返事を待っている。エリアーナは深呼吸を一つ。
そして嘘をつけないこの口で、最高の笑顔と共に、最高の正直な言葉を紡いだ。
「私、あなたの……あなたのそばにいられるなら、喜んでそばにいます」
神様の気まぐれは結局解けることはなかった。
けれどエリアーナはもう、嘘をつく必要はなかった。
数日後。
「ゼイド様、この交易計画書ですが、輸送コストがまだ高いですわ。ここの部分、もう少しなんとかなりませんこと?もう、仕事中も格好良いなんて、反則よ」
「む……善処しよう(また本音が漏れている……)」
「今の絶対に可愛いって思ったわね!」
「……そうかもな」
彼と私は顔を赤らめながら、笑いながら今日も正直に話している。