第4話 アイの模倣、アイの終わり
ただの機械だったはずなのに、それが崩れていく。最初から最後まで、道具として扱えばよかったのに、それをしなかった自分の自業自得でもあっただろう。
「航さん、起きてください」
遠くからかけられた遥に似た声に起こされ、ベッドから出てキッチンに向かうと、そこにはエプロンを付けた遥の面影があった。
「もうすぐ朝ご飯ができますから、座って待っていてくださいね」
数枚のトーストと目玉焼き。それとちょっとしたサラダ。
朝ご飯はそれほど凝ったものでなくていいと、ミメッドにインプットしていた。遥と暮らしていたころは、朝食のメニューも時期によって変わっていったけども、最終的にはこういった簡素なものに落ち着いたのである。
『昔は朝ご飯には、お米と鮭の切身と味噌汁が定番だったみたいだけど、どう考えても塩分の摂り過ぎだよね。作るのも面倒だし、パンの方がいいよ』
こんな会話を交わしたことを思い出した。
パンと目玉焼きぐらいなら自分にでも用意できる、ということもあった。
先に目を覚ました方が、適当に用意するというルールではあったものの、自分は仕事に行っていたため、遥がお弁当と一緒に用意してくれることが殆どだったのだが。
それも、遥が入院するまでの話である。
「成人男性が食べる量にしては、これでは不足しています。ビタミンCの摂取量についても問題があります。明日以降の朝食の献立に果物を追加しますか?」
――あぁ、くそっ。
思い出に浸っていたところで、口調も音程も機械的な声が邪魔をした。インプットしたことから外れると、こうしてただのミメッドに戻ってしまうのが難点だった。
「俺が変更を加えると言わない限り、余計なことはしなくていい。“朝食は365日、この時間に、このメニューで行うこと”。メモリに保存しておいてくれ」
「“朝食は365日、この時間に、このメニューで行うこと”。メモリに保存しました。今後は、このメモリに従って行動します」
それでいい。朝飯なんて、多少足りないぐらいが丁度いいのだ。
思い出は思い出のまま、そのままの形であるべきなのだ――
「そうじゃないだろっ!!」
「……ごめんなさい」
ミメッドといることで、生活の質はたしかに安定していた。毎日を健康に過ごしていたし、趣味に没頭する時間も確保できるし、文句など出ることはないはずだった。
しかし、1年も経てばそれも次第に崩れていく。完全に今の生活の様式になれてくると、今度は不完全な部分が逆に目につき始めた。
「遥は自分の洋服は裏返しにして洗濯に出していたんだよ!!」
「……次からはそうするから」
始めの方は、丁寧に指示を出してメモリを書き換えさせていたが、それが何度も続いてしまうと、逐一この部分をこうしろと命令するのが億劫になってくる。自然と語気が強まってしまい、それに対してミメッドが謝る。
遥の声で。遥の外見で。申し訳無さそうに。
それがまた、どうしようもなく腹が立った。
遥との結婚生活では、喧嘩という喧嘩も一度もなかった。
洗濯物を裏返しに入れるのも、食べた後の食器を軽く流すことをしないのも、それが彼女らしさだと受け入れていたからだ。だからこうして、こちらが怒鳴ったときに見せる反応は、自分にとっても初めてのもので――それが正解かどうかも分からないことが、更に混乱を呼んでいた。
「そんな表情で……謝るなよ……!」
謝らせたのは自分自身なのに。
謝ったことを、また怒った。
あのとき、医者が言っていたことを思い出す。
数億人分のデータの中のたった一人。それは、大海に落ちた一滴の雫。
海の水を一滴取り出しても、それが落ちた雫とは違うものであるように――データを学習されたからといって、完全なコピーが作られるわけがない。
それは、逆を返せばどれだけ忠実に真似をさせようとも、限界があるということでもある。 自分が遥との思い出を元に修正を繰り返そうとも、完璧な遥を作り出すことなどできないということでもあった。
――この感情はなんと呼べばいいのか。
怒りか。失望か。頭の中が急速に冷えていくのを感じた。
ミメッドに付けていたカツラと服を剥ぎ取り、首に手をかける。
突然のこちらの行動に驚いて、目を丸くするミメッド。
……いや、これも所詮はAIが弾き出した一般的な反応だろう。
自分でも驚くほどの冷たい声で、短く命令する。
「パーソナライズ設定を初期化しろ」
「……かしこまりました」
眼球型カメラレンズの奥から光が消える。表情も人間味のあるものから、一切の色のない無表情へと変わっていった。人から、機械へと、戻っていく。
約1年という時間のなかで、数え切れないほどの遥という“個人”としての癖を記録してきたのである。メモリの削除には時間がかかっていた。そうして、十分ほどしてから、ゆっくりとミメッドが口を開いた。
「パーソナライズ設定の初期化が完了しました」
遥の声ではなく、初期設定の無機質な声。
それを確認して、首の裏側にある電源を強く押し続けた。
瞳からは完全に光が失われ、動かなくなった人間を見下ろす自分の心は、まるで冬場の金属のようにひんやりとしていた。