第2話 進まない秒針
妻を失ってすぐ、退職の届けを出した。
いまや人口の3分の2までに増えたミメッドが、業務の殆どを回しているのである。人類が生活するのに必要なものはすべて機械が賄っているため、ベーシックインカム制度も確立していた。
何もしていなくても衣食住が保証されている中で、わざわざ働いて収入を得ようとするものは少数派だったのだ。
それでも自分が、“本来は必要のないこと”をしていたのは――働けば働くだけ、より良い生活できるため、といったシンプルな理由からだった。住まいは高層ビルの上層であったし、値段を気にすることなく好きなものを購入していた。
妻の心臓病が発覚してからは、対症療法のために惜しみなく金を使った。それができるということが、どれだけ幸せなことだったのかは言うまでもない。やはり、この世は金である。それも、もう必要がなくなってしまったが。
無職となり、半ば強制的に行われていた他人との関わりが一切失われてしまった。会話とまではいかなくとも、誰かと言葉を交わすことが無くなり、およそ人間的な生活とは程遠くなってしまった実感があった。
何をしていても灰色で、単調な毎日が続いているようだった。
外出をするのなんて、食事を作るのが億劫になった時ぐらい。食事に使う材料については、オンラインで購入すれば家まで配達に来てくれるので、わざわざ店舗に出向いて買い物をする必要なんてなかった。
――気がつけば、あっという間に遥の三回忌を迎えていた。
日数を数えるのすら億劫で、1年365日のうち遥の命日だけをただただ数えて生きていた。もちろん、その間はずっと独り身のまま。再婚することなど、微塵も考えていなかった。
そうして――我が家に“例のもの”が送られてくることになるのだった。
「――それでは、こちらの端末に生体認証をお願いします」
人一人が丸々中に入ってそうな大きな箱を、配達員は道具も無しに、たった一人で担いで持ってきたらしい。この人間離れした筋力は、考えるまでもなくミメッドのものだった。
配送業も人間が行うことは殆どなくなった。
車の運転はプログラムによって自動で行われるし、あとは受取人に荷物を渡す手と足さえあればいい。それが人間である必要なんてどこにもない。つまりは、そういうことなのだろう。
「……これでいいかな」
差し出された端末に顔を寄せ、目の虹彩を読み取らせる。配送業者とカード業者のデータベースに照会をかけ、自動的に引き落としが完了される仕組みだった。
「受取の確認が済みました。ありがとうございます」
荷物を室内へと運び込み、配達人であるミメッドは去っていった。
自分の身長と同じぐらいの巨大な箱を残して。
中身は予想がついていた。――ミメッドだ。
孤独死対策として、国が用意したもの。
一定の年齢以上である、独身世帯の家には自動的に送られるのである。
料理を始めとした家事をすべて完璧にこなし、持ち主が老化によって生活が困難になったとしても文句一つ言わずに介護もする。目に見える範囲にいる間はバイタルサインを常にチェックしているため、病気や怪我などで倒れたときは病院へ緊急通報を入れてくれる。
『文句の付け所のない、完璧な補助者』という謳い文句は、決して誇大広告ではない、ということらしい。
人間と違って休息の必要も、食事と排泄も無い。
動力は電気によるものだが、エネルギー切れを起こさないように設計されている。その身体には人間の細胞のように無数の極小電池が搭載されており、すべてがエネルギーハーベスティング(環境発電)によって永続的に電力を生み出しているらしい。
……夜の営みについても対応している、とも聞いたことがあった。
それでは『ミメッドがいれば結婚なんてしなくてもいい』といった者も出るだろう。実際、そういう人も一定数出ていたらしい。が、時代は進んで《《そういった者が増えても問題はなくなった》》のである。
婚姻不足による少子化の問題も既に解決済みだった。
国の機関には絶えず精子と卵子が提供され、それぞれ凍結したうえで管理されている。遺伝子的に欠陥が無いことを確認したうえで、それらはかけあわされて人類は増えていく。そういった人工的に生まれてくる人間の割合は、とうの昔に自然分娩による出生者の割合を追い越してしまっていた。
僕も、遥も、親の顔は知らない。
婚約を決めたときも両親への挨拶なんてものはなく。
国の機関によってDNAの確認が行われた後に、機械的に承認された形だった。
子どもを持つことは自由。
……残念ながら、僕達の間に授かることはなかったが。
子孫を残すために新たに相手を見つけて再婚しようという気は更々ない。かといって、人形で性欲を満たそうという考えも無かった。世の中には、“そういった目的”のために複数体購入するもの好きもいるらしいけど。
「別に必要なんてないのにな……」
とはいえ、こんなものを部屋のど真ん中に置いたままにしておくわけにはいかない。梱包を剥がして、中身を確認する。
ある程度は予測はしていたものの、やはり人間のように見えて一瞬だけ怯んだ。髪はショートのブラウン。至ってシンプルな洋服が着せられていた。
目を閉じて横たわっているその様子は、よくよく見れば人間というよりも、どこかマネキンのような印象の方が強い。人間特有の“柔らかさ”が感じられないのだ。
ただ、マネキンとは違って、関節は簡単に曲げることができた。上体を引き上げて首の下側――肩甲骨の間のあたりを見ると、僅かに爪を引っ掛ける穴のような部分があった。そこを開くと、押し込み式の電源ボタンが付けられている。
ぐっと親指で三秒ほど押し込む。
これといった起動音も駆動音もなく、ミメッドの頭がゆっくりと前へ垂れていく。後ろに倒れないのを確認して、ミメッドの正面に向かい合える位置に移動する。
「…………」
ゆっくりと、頭を上げるミメッド。その瞼が開くと――不覚にも、見入ってしまっていた。光の無かった瞳に、徐々に輝きが生まれていく。“命が宿った”ような感覚を受けてしまっていた。
「おはようございます。始めに初期設定を行います。貴方のお名前を教えていただけますか?」
まるで、どこかの企業の受付でもしているかのように、他人行儀な問いかけ。しかしながら、嫌悪感を与えない程度に自然な微笑みに、僅かに背筋に寒いものを感じていた。