第1話 涙のアルゴリズム
別サイトのAIテーマのコンテスト用に執筆した作品でしたが
応募期間の勘違いによりお蔵入りになっていたものを
幾つか修正を加えて投稿しました。
「……ねぇ、泣かないで」
病院のベッドの上から、妻の遥が手を伸ばした。
もう腕を上げるのも辛いだろうに。それでも僕の前髪を上げるようにして、下から上に親指で額を撫でた。力が入らないのか、指先が震えているのが感触でわかる。
「さっきから泣いてばかりよ、あなた」
そう言って見せた微笑みすらどこか辛そうで。
それでまた涙が溢れてしまい、僕の視界はまた滲んでいく。
「無理だよ……こんなにも、君と離れるのが辛いのに」
――今夜が峠だった。
それについては、妻も僕も理解していた。
重い心臓病。医者に告げられた余命は2年。
ちょうど2年後の今日、妻はベッドの上で息を引き取ろうとしている。
どれだけ医学が進歩したところで、妻の命を救うことはできなかった。余命宣告がより正確なものになっただけ。
――人間の身体だって、突き詰めてしまえばアルゴリズムの集合だ。水が高いところから低いところへ流れていくように、始点の情報が揃っていれば、終点の情報も自ずと導かれていくのである。
かつては、余命の判断は医師の経験や、統計データに頼る部分が大きかった。だが時代が進むに連れ、バイオモニタリング技術とAIによる解析に置き換わり、より予測の精度が上がっていった。
だが、その技術の進化は希望を与えてはくれない。むしろ、救えない命がいつ終わるかを突きつけるだけ。その虚しさに唇を噛んでいた。
「――ごめんね、航」
最期に遥はそう言って、静かに目を閉じた。目尻から雫がこぼれ落ちる。
享年26歳。彼女は二度と目覚めることはなかった。
心電図の音が規則的なものから、単調の警告音へと変わっていく。頭の中が痺れるような感覚がして、現実味も失われていく。いったいどれほどの時間が経ったのか、それともさほど時間は経っていないのか。慌てることなく静かにやってきた医師が直接に脈の喪失を確認し、ペンライトを当て瞳孔を確認していく。
「瞳孔の散大と対光反射の消失を確認しました。心音と呼吸音無し。心臓の停止も確認。10時18分、御臨終です」
そうして、静かに死亡時刻を告げられる。何を言えばいいのかわからず、医者が頭を下げるのに合わせて、こちらもただ頭を下げることしかできなかった。
「それでは、奥様は一度こちらでお預かりします」
「あ、あのっ――」
ここからは、遺体を葬儀場へと運ばれていくのだが、生前に彼女が承諾した内容により、別の場所に一度移動されることになっている。
心がひどくざわつき、ベッドごと移動しようとする医者や看護師に、たまらず手を伸ばす。
「――? 仙東さん、どうかされましたか?」
「いえ……」
妻の身体――正確に言えば脳が――機械にかけられる。といっても、ミキサーにかけられたり、といった物騒なものではない。死亡直後の遺体の脳をスキャナーにかけ、電子情報を吸い上げるらしい。
病状が悪化して入院するときにそのような説明を受けて、二人で書類にサインをした。20年前に新しく成立した【AI新法】の一つ、"生前の記憶を学習の元データとする"法律に関連する内容だった。
『奥様の記憶は、より高度なAIへ成長させるための学習に用いられます。これは“より現実的な人間らしさ”のためのものであり、個人のプライベートに関する部分は自動的に削除されるよう定められておりますので、ご安心ください』
医者の説明は淡々としたものだった。
幾度となく、患者やその家族に向けて同じ説明をしてきたのだろう。
世界各国がITインフラを通してのデータ収集をゴリ押しで進め、AIの開発競争を進めていった結果、2000年を過ぎてからのAI技術の進歩は目覚ましいものとなった。
今となっては、ありとあらゆるものにAIが搭載されている。
膨大なデータの蓄積、及びその整理。
ニューラル・ネットワークのトレーニングと、推論モデル。
共通項・平均値を割り出し、予想されうる“正解”を導き出す。
つまるところ、人の思考のメカニズムを模倣していることになるらしい。ソフト面の進化がハード面の進化を押し上げ、逆にハード面の進化によってソフト面の限界も取り払われていく。そのサイクルによって、最終的には自分たちのいる時代が生まれた。つまるところ、人の行う作業のほとんどを機械が代行するようになった時代だ。
――いまや人類がその手でできる仕事は、“責任”を負うことぐらいだろう。
『ええっと……これって、私のコピーが作られてしまうということですか?』
医者から説明を受け、不安そうに尋ねる遥。
自分はその横に座って、ずっと遥の手を握っていた。
自分の生活の基盤となっている技術といっても、その中身がどうなっているのかを理解している人の方が少ない。『どうやって映し出されているかを理解していなくても、スイッチを押すだけでテレビを見ることができる』といったことも、昔はよく言われていたみたいだ。無論、自分も遥もそういった類の人間だった。
『いいえ。そういった不安を持つ方々も、もちろんおられます。ですが、学習されたからといって、その人と全く同じ人格が作られるわけではありません。既に7000万人以上のデータが学習されている状況であり、つまりは広い海に一滴の雫を落とすようなものですから、奥様と同じ《ミメッド》が作られるということはありません」
医者はそう説明してから、再び『ご安心ください』と口にした。
淡々とした説明を聞いて理解はすれど、納得はしきれずにいた。それだけの数のデータが既にあるのなら、妻のデータをわざわざ提供する必要があるのだろうか。しかしながら、プライバシーは守られるという言葉を信じ、遥が納得できたのならと、自分も了承したのだった。
『では、こちらの書類にサインをお願いします』
そして――妻は溶けていった。
7000万のデータという大海の中の、一滴の雫となって。
日本だけでも数千万体もいるミメッド――Mimetic Androidの中へと。