霊夢の想い:朝田三佐の心
霊夢は、胸にそっと手を当てた。
その中で静かに鳴る鼓動が、なぜかさっきから落ち着かない。
――「君のその手で」
朝田三佐の真っすぐな歌声。
そして、どこか優しさに満ちた眼差し。
まるで誰かに、いや“私に”向けられたかのような――そんな想いが、心の奥を小さく揺らしていた。
(……私のこと?)
ふと、自分の歌を思い返す。
一節、一節が、まるで今日のこの夜に応えるように意味を持ち始める。
「貴方の全てに 幼く委ねたい」
「抱く想いは 心躍らせるばかり」
「弱さ知るあなたは今 許してくれた 求めるものの欲を」
口ずさむように、心でなぞる。
それはどれも――他の誰でもない、“特別な誰か”を探し求めていた証だった。
(私、ずっと探してたのかもしれない……誰か、私の全部を預けてもいいって思えるような――大切な人を)
魔理沙。早苗。霖之助。紫。
どれもかけがえのない存在。家族のようで、仲間のようで、大切な幻想郷の一部。
だけど…違う。
この歌に宿した想いは、もっと深く、もっと個人的で――そして、どこか照れてしまうほどに、真っ直ぐで幼い願いだった。
(……やっぱり、そうだったんだ)
自分の無意識が歌に込めた願い。
それにようやく気づいた霊夢の頬が、そっと紅く染まる。
恥ずかしさ。
でも、それ以上に胸の奥に灯る温かさ。
それは、幻想郷のどんな春よりも柔らかく、どんな光よりも確かなものだった。
焚き火の揺らぎの中で、霊夢はこっそりと朝田の横顔を見る。
口には出さないけれど、心の中で思う。
(もし、この歌が“誰か”に届くとしたら――それは、今ここにいる人かもしれない)
少女の心に芽生えたその想いは、まだ言葉にならない。
けれど、確かに彼女の中で、そっと根を張り始めていた。
焚き火のぱち、ぱちという音が、静寂の夜に優しく響いていた。
遠くに見える満月が、淡い光で二人を照らしている。
霊夢はそっと視線を上げた。
焚き火に照らされた朝田の横顔。その瞳の奥にある、真面目で、まっすぐで、どこか不器用な優しさ。
それを見て、霊夢の胸に宿った確信はもう揺らがなかった。
「ねぇ、朝田さん」
ふいに呼びかけるその声は、いつもの博麗の巫女ではなく――一人の少女のものだった。
「私、わかった気がするの。ずっと…ずっと探してたのよ、この歌に込めた“想い”の相手を」
朝田は不思議そうに霊夢を見る。
だが、彼女の眼差しには迷いはなかった。まっすぐに、まるで何かを決めたように、彼を見つめていた。
「この歌にはね、幻想郷を想って、仲間を想って、大切な人たちを想って…いろんな気持ちが込められてる。でもね――」
霊夢はそっと言葉を重ねる。
「“貴方の全てに 幼く委ねたい”って歌詞を、私はずっと誰に向けたものか、自分でもわからなかったの。
でも、今ならはっきり言える」
焚き火の光が、霊夢の頬を赤く染めていた。
それが照れからなのか、夜風のせいなのか――きっと彼女自身にも、わかってはいない。
「朝田さん。きっと私は…あなたに、向けて歌ってたのよ。無意識にね。でも、それでも――それが本当の気持ちなの」
ふっと、風が二人の間を撫でる。
木々の葉がささやく音さえ、今は心を後押ししてくれているようだった。
「あなたがこの幻想郷に来て、色んなことが変わった。私は、ただの巫女じゃない“私”を、あなたといると少しだけ思い出せるの。
それって…すごく、特別なことだと思うのよ」
そう言って、霊夢はふっと目をそらした。
恥ずかしさがあふれそうだった。だけど、もう引き返すつもりはなかった。
「だから…この歌の意味は、あなたにしかわからないかもしれない。でも、私はそれでいい。
あなたにだけ届いてくれれば、それで――」
月明かりの下で、彼女はそっと言葉を結ぶ。
「――いいのよ」
それは、博麗の巫女としての使命から少しだけ離れた、
一人の少女・博麗霊夢が抱いた、初めての“恋”の形
霊夢の想いを受け取った朝田三佐は、一瞬、言葉を失っていた。
だが次の瞬間、彼はわずかに息を吸い、静かに制帽を手で押さえ――そのつばを、ほんの少し深めに下げた。
それは、照れ隠しのようにも見えた。
だが、霊夢にはわかっていた。帽子の影の奥で、彼が小さく――しかし確かに、微笑んでいることを。
「ありがとうございます、霊夢さん」
その声は、どこまでも誠実で、どこか柔らかい。
「あなたの言葉を聞いて、私も納得しました。
“君のその手で”という歌の中で、私はずっと、“仲間”や“家族”のことを思っていたんです。
それが私の支えであり、守るべき存在だと、そう思っていた」
焚き火の明かりが揺れる。
その炎に照らされる朝田の顔は、まるで本音を吐き出すように、静かに言葉を紡いでいった。
「でも…霊夢さんと出会って、時間を過ごして、あなたの言葉や想いに触れて――少しずつ、私の中の解釈が変わっていったんです。
そして、それが今、確信に変わりました」
霊夢の胸が、どくんと鳴る。
朝田はゆっくりと、彼女の方を見た。
「私にとって“君のその手”というのは…霊夢さんの、支えてくれる手だったんです。
あなたの存在が、私を支えてくれていた。無意識のうちに、私はそれに救われていたのかもしれない」
霊夢は目を見開いた。
そして、頬をほんのり赤らめながら――でもその目は、まっすぐに朝田を見ていた。
「……っ!」
思わず足が動いた。
その胸の高鳴りに導かれるように、霊夢は静かに、朝田に一歩近づく。
もう一歩。距離が、ゆっくりと縮まっていく。
彼のすぐ近くまで歩み寄り、そして…言葉もなく、ただその場に立つ。
夜の空には、月が明るく輝いていた。
まるで、すべてを祝福するように。
そして、ふたりの間に流れる沈黙は、どこまでも優しく、あたたかかった。
霊夢は、そっと呟く。
「ねぇ、朝田さん……。その手、もう少しだけ、私のそばにいてくれる?」
それは、まるで夜風に乗るように、静かで小さな声。
けれど、それは確かに――少女の本心がこもった、たった一つの願いだ
朝田三佐は静かに頷いた。
そして――
彼は、ためらいのない動作でそっと手を伸ばし、
霊夢の頬に優しく触れた。
その手は、軍人としての厳しさを持ちながらも、
不思議なほどに柔らかく、温かかった。
霊夢の頬に触れた指先は、まるで大切な宝物を扱うかのように慎重で、
でも、確かな意思を感じさせるものだった。
その感触に、霊夢は思わず目を閉じた。
微笑が自然と口元に浮かぶ。
――こんなにも優しい手が、あの戦う人のものだなんて。
霊夢の心に、熱いものがふわりと広がっていく。
そして彼女は、自分の手をそっと伸ばし、
朝田の手の上に、自分の手を重ねた。
小さな手が、確かにそこに重なる。
たったそれだけの触れ合いが、何よりも大きな意味を持っていた。
朝田三佐は、その霊夢の仕草に、
一瞬だけ顔をこわばらせる。
けれど、すぐにその表情は和らいだ。
頬に残る霊夢の体温を感じながら――彼の目が変わる。
それは、任務に就く自衛官の目ではなかった。
厳しい任務に耐えてきた戦士の目でもない。
そこにあるのは――ひとりの青年として、
目の前にいる「大切な存在」を見つめる眼差しだった。
その瞳に、霊夢はまっすぐ見返した。
頬に触れる手の温もりを感じながら、
ただ、そっと囁いた。
「……ありがとう、朝田さん。あなたに会えて、よかった」
二人の間を、夜風が静かに通り抜ける。
月明かりが優しく照らし出すその光景は、
戦いも喧騒もない、ただ静かな夜のひとときだった。
まるで、幻想郷がふたりの心を――そっと包み込んでくれているかのように。
朝田三佐が静かに『私もです』と応え、霊夢をじっと見つめた。
霊夢は心の中で、――この人となら幸せになれるかもしれない――と思った。
側で守ってくれる頼もしい人が、目の前にいる青年だった。
その余韻に浸りながら、霊夢はゆっくりと瞳を開ける。
そして『朝田さん、少し横を向いて』と囁くと、朝田三佐は素直に言われた通りに顔を横へ向けた。
その瞬間、時間が弾けたような感覚が霊夢を襲う。
彼女の唇が、朝田三佐の頬にそっと触れていた。
博麗の巫女からのささやかで優しい贈り物だった。
朝田三佐は目を閉じ、そのぬくもりを感じた
霊夢『あの歌は予言だったのかしら…』
霊夢の呟きに、朝田三佐は穏やかに微笑みを浮かべた。
「そうですね……あの歌には、何か未来を告げる力があるのかもしれません」
霊夢は肩を預けたまま静かに息を整える。
「これから先、どんなことがあっても、あなたとなら乗り越えられそうな気がするわ」
朝田は優しく霊夢の髪を撫でながら答えた。
「私も同じ気持ちです。霊夢さんを守るだけでなく、共に歩んでいきたいと願っております」
月の光が二人の影を長く伸ばし、幻想郷の夜に柔らかな静寂をもたらす。
その中で、確かな絆が芽生え、未来への希望が静かに灯った。
やがて霊夢は微笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、朝田さん。これからもよろしくね」
二人は夜空の星を見上げながら、静かにその時を共有した。
朝田三佐は穏やかに応える。
「はい、こちらこそ」
その返事には誠実さが滲んでいた。
霊夢はそっと朝田三佐の胸に体を預けて倒れ込む。
「貴方の全てに幼く委ねたい」――まさにあの一節の通りだった。
霊夢は柔らかく囁いた。
「このまま過ごしたいわ……貴方の胸から伝わる強い鼓動と温かさがあるの。とても落ち着くのよ」
朝田は少し照れながらも、優しく返す。
「そうですかね?」
霊夢はさらに言葉を続ける。
「このまま、貴方にこの身を預けて眠っても良いかしら?」
朝田は戸惑いながらも、しっかりと応じた。
「は、はい……良いですよ」
そしてそっと霊夢を抱きしめながら言った。
「私がついていますから、安心してお休みください。おやすみなさい、霊夢さん」
霊夢は安心したように目を閉じ、穏やかな声で返す。
「ええ、おやすみなさい……あなた」
その「あなた」という呼び方は、普段とは違い、妻が夫に語りかけるような温かさを帯びていた。
朝田は少し照れくさそうに心の中で呟く。
「あなた……ですか。少し恥ずかしいですね」
それでも彼は霊夢の寝顔を見つめ、誓った。
「この寝顔を守れるよう、これからも頑張ります」
静かな夜の中で、その決意は強く胸に刻まれた
夜風が木々を優しく揺らし、月明かりが二人の姿を柔らかく照らしていた。幻想郷の夜は深まり、虫の声さえもどこか穏やかに聞こえる。
霊夢は朝田の胸に体を預けたまま、すっかり安らいだ表情を浮かべていた。どこか幼く、そして無防備で、誰にも見せない一面がそこにはあった。
朝田はその寝顔を見守りながら、心の中でそっと語りかける。
(私は、ただ任務を果たすだけの存在ではない。今この瞬間から、あなたの隣で、あなたの未来の一部になりたい)
彼は霊夢の肩にかかる上着をそっと直し、冷え込まないよう自分の防寒着をそっとかける。霊夢は気づいた様子もなく、静かな寝息を立てていた。
夜空には流れ星が一筋、光の尾を引いて流れていった。願い事を唱える暇もないほど一瞬だったが、朝田はその光景を見上げ、ひとつだけ心に願う。
(この幻想郷の未来が、彼女の笑顔と共にありますように)
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。だが、朝田にとってそのひとときは、かけがえのないものだった。敵も味方もない、ただ人と人として繋がった、静かな夜の一ページ。
やがて遠く、夜明け前の空がわずかに白み始める。朝田はそれに気づき、ゆっくりと立ち上がることもできたが、彼は動かなかった。霊夢が目を覚ますその時まで、そばにいたいと願っていた。
そして——その願いは、確かに夜空に溶け込んでいった。