第60章:ザリヤを破壊せよ
雪と氷に閉ざされたロシア西部、オムスク州。かつてソ連の極秘軍事施設が点在していたこの地に、今もなお息を潜める遺産が眠っている。冷戦期、ここには量子転送装置「ザリヤ」の開発研究を担っていた第51実験局が存在していた――通称、オムスク研究所。
現在、その遺構はオムスク計画の中核として、ロシア軍の一部極秘部隊により再稼働していた。
だが、ある情報が世界の動きを変える。
ウクライナ情報庁よりもたらされた報告:「ザリヤ3号機、クルスク州の戦闘で損傷。現在、機能停止中。」
この情報により、米中央情報局(CIA)は動いた。作戦コードネーム【アイスシフト】。目的は、残るザリヤ1号機の破壊、そしてオムスク計画の中止。
指揮を執るのはアドラー。かつて東欧を拠点に数多くの潜入作戦を遂行してきた冷徹なベテランエージェントだ。彼に同行するのは、ロシア軍内部の協力者であるロスコフ少佐、そして若き分析官であるCIA所属のベル少尉。
身元・階級・所属部隊などの情報は全てロスコフが手配。彼らはロシア西部軍情報部所属を装い、旧ソ連軍制式の将校装を身に纏い、ティーグル装甲車に乗って施設に接近していた。
「……入口の監視は自動センサーと旧式のPKM持ちが2名。こっちの偽造通行証で通れるのは15秒。アドラー、行けるか?」
ロスコフが低く問いかける。
「問題ない。俺たちは“正規の軍人”だ。……そう装ってさえいればな。」
無線を切り、アドラーは手袋越しにベレッタM9を確かめた。雪がざくざくと音を立てるなか、ティーグルは老朽化したゲート前で停車する。
軍用検問官が近づく。銃を抱えて警戒心むき出しの様子だ。
だが、次の瞬間。
ロスコフがロシア語で一喝する。
「司令部の命令だ!特殊装置の運用確認だ。お前らの責任じゃない、文句があるなら司令部へかけろ!」
ごまかしきれない緊張の空気――だが、検問官は面倒を避けるようにゲートを開いた。
「……わかりました、通せ。」
アドラーは一言だけつぶやいた。
「いつもロシアは面倒事を嫌がるな。」
こうして、3人はオムスク研究所施設への潜入を開始した。
だが、彼らの知らぬところで、別の目が――
ザリヤ1号機を見守る“何か”が、静かに、そして確実に反応を始めていた。
「影の歓迎 ―ザリヤとの邂逅―」
雪に埋もれたオムスク研究所の地下施設。その奥深くに、かつてソビエトが築いた幻の技術「ザリヤ」の1号機が眠っていた。今、その沈黙を破るかのように、ヴェルニエフ上級大将が現場に降り立っていた。
その頃――
ロスコフ少佐が偽のIDで突破した先の監視所には、ヴェルニエフの腹心であるザカリン少佐が控えていた。
「報告にない来訪だな……中央軍司令部の命令と言っていたが、証明できるものはあるか?」
ザカリンの声は抑揚のないロシア語であったが、その瞳は鋭く、わずかな矛盾も見逃すまいとする冷徹な軍人のそれだった。
ロスコフは怯まず、あくまで平静を装いながら言葉を返した。
「証明か……それならこちらだ。」
彼は一枚の命令書を見せる。極めて精巧に偽造された電子署名付きの命令書で、実際の作戦部隊のコードと時間指定まで記録されていた。偽造とは思えないレベルの完成度。
そしてさらに、ロスコフは静かに一歩近づき、低く囁くように言った。
「ザカリン少佐……この任務は大将閣下の信頼に関わるものです。機密保持の観点からも、“質問しすぎない”ことが要求されている。もし我々の任務に不必要な疑義を呈されれば、あなたの名も報告書に記載されるかもしれませんよ。」
数秒の沈黙。やがてザカリンは皮肉げな笑みを浮かべる。
「私はGRUだ…同志ロスコフ少佐、はぁ〜まったく……旧KGB風の脅し口調とは、なかなか懐かしいな。……いいでしょう。」
彼は通信機に手を伸ばし、無線で一言だけ発した。
「対象、通過許可。ザリヤ1号機へ案内する。」
ティーグル装甲車が動き出す。やがて地下格納庫の重い扉が開き、厚い鉛のシェルターに守られた部屋へと3人は足を踏み入れる。
そこには、ヴェルニエフ上級大将の姿があった。
彼は灰色のコートに身を包み、堂々たる体躯でザリヤ3号機を見つめていた。その周囲には完全武装のヴィンペル部隊――元アルファ部隊出身者を中心に構成された対テロ専門の精鋭護衛部隊――が無言で警戒を続けている。
部屋の中央には、楕円状のフレームと巨大な円形コイルを持つ装置――それこそがザリヤ1号機。すでに半ば損傷し、いくつかのコア部品は焼損していたが、今なお冷たい存在感を放っていた。
「ようこそ……同志よ。」
ヴェルニエフがゆっくりと振り返る。
「君たちの訪問には驚いたが、歓迎しよう。君たちは“未来”に関心があるのだろう? あるいは“過去の亡霊”か?」
ロスコフが慎重に答える。
「大将閣下。私は西部軍工学支部の臨時派遣要員、これらは分析支援官です。機材再点検の指示により本日こちらに到着しました。」
「ふむ……それにしてはCIAのアドラーに似ているな。」
言葉に、空気が凍る。
一瞬の静寂を破るように、ヴェルニエフは笑った。
「冗談だ。似てる奴はどこにでもいる……それがこの世界の“皮肉”というやつだ。」
背後では科学者たちがザリヤの残骸を調べている。データサーバー、量子共鳴装置、焼け焦げた制御モジュール……その全てが、計画の断片を物語っていた。
ヴェルニエフは静かに言った。
「ザリヤ1号機は“失敗作”だった……しかし、失敗から学ぶのが我々の仕事だ。そうだろう、同志たちよ?」
この言葉が何を意味するのか――アドラーたちには、まだ分からなかった。
だが確実に、“何か”が進行していた。
「亡霊の目覚め」
旧オムスク研究所、冷たく澱んだ地下空間。
ザリヤ1号機の前に立つヴェルニエフ上級大将は、その鋼のような眼差しでアドラーたちを見据えていた。まるで眼前に立つのが部下ではなく、“歴史そのもの”であるかのように。
「お前たちに話しておこう。これは記録にも報告にも残さない。だが……魂に刻め。」
その声は重く、静かながらも、爆発寸前の圧力を秘めていた。
「ソ連の崩壊……我々が失ったのは国土でも資源でもない。誇りだ。欧米は勝者の顔をして、我々を笑い、利用し、腐らせた。プラウダ紙は沈黙し、クレムリンは財閥と裏取引を繰り返し、国民はウォッカに溺れた。」
彼は、胸ポケットから古びた赤い軍章を取り出す。ソ連時代のものだ。
「だがな、我々は負けていない。 世界がそう思い込もうと、我々が本当に屈した日は来ていない。我々は立ち上がるのだ。再び、祖国を誇れるものにする。ザリヤとはその象徴だ。プーチン大統領閣下も、この計画を私に一任してくださった。」
「中国にも、北朝鮮にも遅れを取らせん! 我々が革命をもたらす! ザリヤこそがその第一歩だ!」
拳を強く握り締めたその姿は、老いた軍人ではなかった。まるで、冷戦時代の幽霊がそのまま蘇ったかのようだった。
――その背後、ロスコフ少佐は心の中で吐き捨てる。
(何が世界革命だ。まったく、どこまで妄想に取り憑かれてやがる。)
アドラーも眉をひそめる。
(狂信者か? いや、それとも……使える駒として生かされた過去の英雄気取りか?)
だがその場でそれを表に出す者はいなかった。ヴィンペル隊員たちが全員、こちらを監視している。まるで「一瞬でも目を逸らせば撃つ」と言わんばかりに。
そこへ、警報音が鳴り響く。
「報告!」
通信士官が叫んだ。
「ヴォロネジ方面より機密コード通信――“ロシア連邦軍の情報端末にCIAのアクセス痕跡を確認”との報告が!」
空気が一変した。科学者たちは顔を見合わせ、ヴィンペル部隊が即座に戦闘配置を取る。
ヴェルニエフの目が細められ、鋭くアドラーを射抜く。
「……まさかとは思うが、君たちの中に**“亡霊”**が紛れているわけではないだろうな?」
室内の照明が赤く変わる。
ザリヤ1号機の非常電源が再起動し、低く鈍い音を響かせ始めた。
まるで、何かが“目を覚ました”かのように――。
オムスク研究所・ザリヤ3号機格納室。
警報が鳴る中、空気は重く、火薬の臭いが漂っているかのようだった。
「……CIAのアクセス痕跡だと?」
ヴェルニエフ大将の言葉に、室内が静まり返る。
ロスコフ少佐はわずかに肩をすくめ、眉をひそめながら応える。
「将軍、あの情報は恐らく陽動でしょう。アメリカは我々の神経を逆撫でするのが得意ですから。証拠も確かでない以上、我々が動揺するのが奴らの狙いかと」
その物言いは、咄嗟にしては完璧だった。ロシア軍内の諜報操作や心理戦の知識を熟知していなければできない言い回しだ。
ヴェルニエフはロスコフをじっと見つめたまま、数秒の沈黙を置いた。だが、やがて鼻を鳴らし、椅子に深く座り直す。
「……君の言う通りかもしれんな。CIAならやりかねん」
そして彼は、話を再び“過去”へと戻し始めた。
「私はな、若い頃に**クーデターを経験した。**1991年8月、ヤゾフ元帥らがゴルバチョフ打倒のために立ち上がった。ソ連を守るという名目でな」
瞳の奥にかつての炎がちらついている。
「私はそこにいた。一兵士として……誇り高い赤軍の末端で、モスクワの路地を走り、民衆の前に立った。だが、あのクーデターは失敗した。崩壊の始まりだった」
ロスコフはわずかに目を伏せる。隣のアドラーとベルも、沈黙を保ったまま耳を傾けている。
「その後、10月政変、チェチェン戦争、コーカサス、ジョージア、アブハジア、クリミア、ウクライナ東部……私はそのすべてを見てきた。中にはかつての同志たちが我々に銃を向けていた戦場もあった」
彼は拳を握りしめた。
「……私は気付いたのだ。我々を裏切ったのは**“敵”ではない。“同胞”だ。** 我々は今や、ロシアという名の皮をかぶった腐った国家に成り果てた」
科学者たちが作業を止め、ヴィンペルの兵士たちでさえ彼の言葉に聞き入っている。
「だからこそ、私はソ連を再建する。失われた誇りを、革命の炎で再び取り戻すのだ。このザリヤでな!」
その宣言に、誰も言葉を返さなかった。
ただ、重苦しい熱気だけがその場を満たしていた。
ロスコフ少佐は内心で思う。
(……大将は戦場に取り残された過去の幻影だ。だが今、我々が相手にしているのは、その幻影が動き出した現実だ)
アドラーは静かに耳にマイクを指でなぞり、CIA本部へ暗号通信の準備を始めていた。
「……“対象はザリヤ1号に移行の可能性高”……“ヴェルニエフは完全に計画に取り込まれている”……」
“幻影の大義”は、今や現実を脅かす刃となっていた――。
オムスク研究所――ザリヤ1号機格納区画。
緊張と静寂の中で、ヴェルニエフ大将はさらに語りを続けた。
「バルト三国……あの地もまた、我らが祖国を裏切った。リトアニア、ラトビア、エストニア――いずれもNATOに取り込まれ、ロシア語を弾圧し、我々の記憶を消そうとする」
彼の目は炎のように燃えていた。
「そしてウクライナ……かの地で起こった“革命”とやらは、西側が演出した傀儡劇だ。2014年、クリミアを取り戻したその年、私は選ばれた。ザリヤ実験に、自らの部隊と共に参加するよう命じられたのだ」
アドラーの眉がわずかに動いた。
「だが……装置は暴走した。我々は――地図にもない場所に迷い込んだ」
科学者たちがザリヤ1号機のパネルを操作する音だけが室内に響く。
「我々はそこを見た。未踏の地、世界の隙間、時空の裂け目……そこを拠点とすれば、カリーニングラードよりも目立たない軍事拠点を築けると確信したのだ。そして……ようやく全ての準備が整った。オムスク計画を、本格的に始動させる時が来たのだ」
その語り口は、もはや狂気の中の確信に満ちていた。
西側への憎悪――それが彼の血肉となっていた。
その時、一人のロシア軍将校が足早に近づき、耳打ちする。
「ヴェルニエフ大将、通信司令室より極秘連絡が入りました。至急ご確認を」
ヴェルニエフはわずかに眉をひそめたが、立ち上がる。
「……同志たちよ、すまない。少し席を外す」
そのまま部屋を出ていく彼を、ヴィンペル隊の兵士数名が護衛する。
重い扉が閉まった瞬間、アドラーは動いた。即座にマイクを起動、隠し通信を開始する。
「こちらアドラー、ヴェルニエフが離席。今が唯一の好機だ。作戦フェーズ2に移行する」
ベル少尉が手際よく無線妨害機器を作動させ、監視カメラの映像ループを開始。
ロスコフ少佐は周囲の科学者に話しかけ、注意を引きながら、静かに拳銃を隠し持つ。
「時間は限られている、30分以内にザリヤ1号機の位置情報を確保、最短ルートで侵入する」
アドラーが鋭く指示する。
「目標:ザリヤ1号の破壊。必要なら全データの抹消も含む。ヴェルニエフが戻る前に終わらせるぞ」
ロスコフがつぶやく。
「……すべては、これを止めるためだ。亡霊どもの革命など、現実には通じん」
3人は互いに視線を交わす。
そして、作戦が静かに、だが確実に始まった――
オムスク研究所の地下区画――
アドラー、ロスコフ少佐、ベル少尉の3人は、極秘ルートを使い、旧ソ連時代から封印されてきた最深部へと足を踏み入れていた。
ロスコフが端末を操作し、暗号化されたデータの解除に成功すると、そこに浮かび上がったのは信じがたい軍事計画の全貌だった。
アドラーがモニターに映し出された設計図を見つめながらつぶやく。
「……これは、建設予定だった大規模軍事拠点……?」
ベル少尉が画面を切り替える。
「ここを見てくれ。弾道ミサイル発射施設、空軍基地、地下司令部……だけじゃない。ツィルコン、アバンガルド、キンジャール、果てはブレヴェスニク巡航核ミサイルまで」
アドラーが顔をしかめる。
「まるで冷戦時代の亡霊だ……“秘密都市”の構想もある。まるでカザフやシベリアの閉鎖都市の再現だな」
ロスコフ少佐が低く言う。
「ザリヤによって開いた“道”を使って、幻想郷を新たな戦略兵器拠点に変えるつもりだったんだ……現代の“アルマゲドン計画”だな」
そこには幻想郷に「融合」する形で整備されるステルス地下基地、搬入口、衛星通信網、迎撃体制、さらには特殊兵器貯蔵庫までが詳細に描かれていた。
「これが稼働すれば、米国本土、EU、中東、アジア全域が狙われる可能性がある」
ベルの声が震える。
「……この規模、本気で第三次世界大戦を見据えてる……!」
その瞬間、モニターに緊急通知が表示される。
《監視システム復旧中:不審活動検知》
ロスコフが歯噛みする。
「時間切れだ……!ヴェルニエフが戻るぞ」
アドラーが端末から全データをコピーし、破壊コードを入力する。
「ザリヤ1号機のデータ破壊を優先。装置は最低限起動不能にする――基地計画もここで潰す!」
ベルが警戒態勢を取りながら応じる。
「爆破コード準備完了、アドラー。いつでもいける」
「やるぞ。あそこは……絶対に戦場にはさせない」
その言葉と共に、彼らは闇に葬られるはずだったロシアの野望へ、反撃の一手を打ち込もうとしていた