第53章:テハン少尉の選択
チェ・テハン少尉。
彼は、もはや“捕虜”ではなかった。
尋問ののち、米軍による心理評価と内部調査の結果――彼が、民間人や子供に銃を向けた隊員ではなかったことが明らかになった。命令に忠実で、ただ任務に従った若き軍人。
任務に疑念を抱きながらも、口にできなかった青年。
彼に与えられたのは、“特別保護対象”という扱いだった。
ブラックサイト内での拘束は緩和され、一定の自由が与えられる。精神的なケアと、再教育プログラムの導入すら検討されていた。
そんな彼を、マクファーソン准将は個室に呼び、静かに語りかけた。
「君は……間違いを犯したが、正しくあろうとした。だが、君の祖国は、正しい情報すら与えずに若者たちを送り込み、都合が悪くなると切り捨てた」
マクファーソンは窓越しに見える首都の空を見上げる。
その目には、怒りというよりも、深い諦念と哀しみがあった。
「我々は多くの戦場を見てきた。だが、“兵士を道具としてしか扱わない国家”ほど、恐ろしく、醜いものはない」
テハン少尉は目を伏せた。
それでも、彼の内に灯った一つの問い――**「自分は何のために戦っていたのか」**が消えることはなかった。
一方、モスクワ郊外の地下司令部。
ヴェルニエフ上級大将の部下である情報将校チェルノフは、新たなファイルを上層部に提出していた。
「――幻想郷には、なお“隙”がある。北朝鮮の失敗は、無能な部隊運用と情報収集の稚拙さによるもの。我々がやるならば、次は“影”の中でだ」
スクリーンには、複数の非国家主体との通信ログが映し出される。
そこには、東トルキスタン・過激イスラム組織・親露傭兵部隊などの名が並ぶ。
「我々は、直接の関与を見せず、幻想郷を混乱させる“火種”を提供するだけでいい。奴らが燃やし尽くした後で……“制圧”すればよいのです」
ヴェルニエフは黙って頷いた。
彼の眼差しには、冷たい現実主義と、ゆるぎない征服の意志があった。
「北朝鮮は道を誤った。だが、我々は……正しい手順で幻想郷を支配する」
幻想郷に静かな嵐の前触れが広がるなか、紫は空を見上げ、囁いた。
「また“選ばれなかった世界”が、牙を剥こうとしているわね……」
紅魔館襲撃事件は、幻想郷に激震をもたらした。
魔法の森、妖怪の山、地霊殿、地獄、天界――
各地の指導者たちは、「幻想郷がいよいよ戦場に変わり始めた」ことを強く意識しはじめていた。
博麗神社では、朝田三佐・山森一佐・紫らが参加する緊急対策会議が開かれ、各国代表団も通信回線を通じて参加した。
「我々は明確に断言する。いかなる国家による、幻想郷への不当な武力侵攻を許さない」
そう語ったのは、スペイン代表ロペス大使。紅魔館での戦闘にも関わった彼の言葉は、会議に重みを与えた。
「幻想郷は我々にとって、ただの“調査対象”ではなくなった。人々が生き、文化があり、信念がある――そこに敬意を持って臨むべきだ」
続いて、イギリス代表も発言する。
「軍人を辞め、外交官として生きてきた。だが、力を持つ者が弱き者を踏みつけにするならば、我々は再び銃を取る。それが、我々の“責任”だ」
紫はそのやりとりを静かに聞き、やがて一言つぶやいた。
「……今なら、依姫たちとも少しは話せるかもしれないわね」
一方、アメリカ・ワシントンのブラックサイト――
チェ・テハン少尉は、自室で椅子に腰掛けていた。
制服は剥がされ、祖国からは裏切り者と見なされる。だが彼は、マクファーソン准将との会話を何度も思い返していた。
『君は間違った命令に従わされた。それは“罪”ではない。だが、これからは――君がどう生きるかが問われる』
その言葉が、心に残っていた。
そこへ現れたのは、ラミレス大尉だった。
「少尉。希望するなら、君に“保護証人”としての新しい人生を与えることができる。君の選択次第だ」
テハンはしばらく沈黙し、やがて静かに問いかけた。
「……私の過去は、許されると思いますか」
「許しなんて誰も与えられない。ただ、お前自身が“過去をどう背負って、これから何を守るか”だ」
ラミレスの言葉は、無骨で、だが誠実だった。
テハンは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……わかりました。私は……ここで終わりません」
その頃、ロシア・モスクワでは、
新たな作戦が静かに進行していた。
コードネームは――「フェイズ・クロウ(黒の段階)」
対象:幻想郷内部への非国家勢力の潜入と混乱工作
目的:幻想郷の信用失墜と“介入の大義名分”の構築
支援組織:傭兵ネットワーク《ブラック・エクリプス》、東トルキスタン・聖戦団、旧KGB系通信チーム
そしてヴェルニエフ上級大将の命令が下る