想定外の展開
カリーニングラード軍管区・第3戦略会議室
分厚い鋼鉄扉の奥、重苦しい静寂に包まれた作戦会議室に、緊張と苛立ちが漂っていた。
ヴェルニエフ上級大将は地図上のウクライナ東部戦線を睨みながら、幹部らと次の部隊展開案について協議していた。
その眼差しには、かつて「冷酷な鬼」と呼ばれた冷徹さはなく、代わりに戦場を知る指揮官としての熱と、老練な闘志が灯っていた。
その時だった。
会議室の扉が乱暴に開かれ、軍帽も脱がず駆け込んできたロシア軍情報将校が声を張った。
「大将! 緊急の報告であります!」
その一言に場の空気が一変する。ヴェルニエフは眉をひそめ、姿勢を正した。
「報告しろ」
「ドネツク戦線にて……“あの現象”が観測されました。ラムシュタインと同じ波形反応が確認され、同時に——我が軍の第27親衛機械化歩兵連隊が、レーダーとビーコンから消失。
指揮官ハルコフ大佐および副官ウォルコフ少佐との通信も完全に断絶しております」
——その言葉に、大将の瞳が見開かれた。
「なに……?」
低く絞り出すような声だった。
計画はまだ始まっていない。
《オムスク計画》は凍結中。
ザリヤ装置の本格的な稼働実験すら、まだ着手していない段階だ。
装置の調整作業はモスクワの第12研究局が監督しており、現地投入は一切行われていないはず——
「第3国か……まさか、装置が漏れたのか?」
ヴェルニエフは思考を巡らせる。だが、情報将校は首を振った。
「現時点では外部からの介入は確認されておりません。ただ……現象はあまりにも類似しています。ラムシュタイン、ノヴォシビルスク、そして今、ドネツクでの波形……すべてが同一です」
「副産物か……」
ヴェルニエフは低くつぶやいた。
実験すらしていないのに発生した現象。となれば、装置が暴走的に作動しているのか、あるいは制御外の“何か”が因果に干渉しているのか。
彼の目に、わずかに迷いの色が差す。
——これは想定外だ。
「直ちに原因究明を開始せよ。捜索部隊を空挺偵察旅団から選抜し、ドネツク南部に展開。衛星・無人機・電波傍受すべてを連動させ、失踪地点の全解析を行え」
声は重く、しかし一切の迷いがなかった。
ヴェルニエフは机の上の戦況図を握りしめるように見つめ、続ける。
「彼らを失ったままにはせん。……私が彼らを送り出したのだ」
将校たちは敬礼し、一斉に退出した。
残されたヴェルニエフは、再び一人きりの静寂の中、ポケットから古びた紙切れを取り出した。
かつて、彼の教官だった老人から渡されたもの。
そこには、ただ一行——
「制御できぬ力に手を出すな、それは神の領域だ」
その一行を見つめながら、彼は呟いた。
「……それでもなお、我々は前に進まねばならんのだな」
そして彼の視線は、ふたたび戦況図の南、幻想郷と記された未知の領域へと向けられていった——。