異変が忍音
静から離れた後ーー
涼は全力で廊下を走り続け…はぁっ…はぁっ…肩で大きく息をしながら辺りを見回す。
突然駆け込んできた涼に、近くにいた生徒たちは驚いたように顔を見合わせる。
「えっ、なに?」「何かあったのか?」とざわめきが広がるが……しかし、涼は周囲の視線を気にしている余裕などなかった。
涼
「はぁ…っ、はぁっ……学園長は…どこに……っ」
そこへ、意外な人物が歩いてきた。
狗神家当主
「……涼か。なんだ、そんなに慌てて…騒々しいぞ……」
涼
「はぁ…っ、静が……っ、今、中庭で…未確認の影と……戦ってます……っ!」
狗神家当主
「……なんだと!」
わずかに眉をひそめた狗神当主は、一瞬考え込むと、懐から茶色のリボンを取り出し涼へと差し出した。…それは、本来当主しか持たぬ印であった。
狗神家当主
「分かった。我が先に向かう。
お前は他の当主や学園長にできる限り伝えろ……
恐らくまだ資料室にいるはずだ」
涼
「はぁ、っ分かりました……」
狗神当主は言葉を残し、迷いなく中庭へ向かって歩き去った。
涼はその背を見送りながら、息をするのも忘れ立ち尽くす。
ふと、胸の奥に重たい記憶が浮かび上がった。
――あの日の、再選定の時。
狗神家当主
「……許してくれとは言わない。
俺は当主として判断せざるを得なかっただけだ……憎みたければ憎めばいい……
だが、これからは一実力者として接する…」
その言葉は今も胸に引っかかっている。
見放されたという事実は消えないし、簡単に許せるわけでもない。それでも――
(……そんな人が、今、俺に託した……)
初めて頼られた感覚に、戸惑いとわずかな迷いが入り混じる。
長く凍りついていた何かが、ほんの少しだけ溶けだしていく様な気がした…
涼
「はぁ……自分にできることをして置かないと…
今も静が頑張ってるんだ……」
考えるのやめ、そう決意すると、涼は当主の言った通り、資料室へと駆け込んだ。
涼
「…学園長っ、当代様達…はぁ…誰かっ……っ誰か…居ませんか? はぁはぁ…っ」
勢いよく扉を開けて飛び込むと、書物を広げていた当主たちと学園長が一斉に顔を上げた。
部屋の空気が一瞬で張り詰め、涼の荒い呼吸だけが響く。
学園長
「涼くん……?どうしたんです、そんなに慌てて……」
声は落ち着いているのに、わずかな動揺が隠せていない。
涼は肩で息をしながら、喉の奥が焼けつくような痛みを堪えつつ、言葉を絞り出した。
涼
「せ、静が……中庭で……未確認の影と……戦ってます……っ!」
当主たちの間に一瞬の沈黙が走った。
重い視線が交わされ、机の上の古い資料がかすかに震えるほど、場の緊張が高まっていく。
天鴉家当主
「……未確認の影だと? まさか、そんな存在が学園内に……」
小さく呟く声に、狐我家当主が眉を寄せる。
狐我家当主
「……学園内の結界はどうなっている?
侵入を許したというのか……?」
学園長
「結界の異常は感知されていません……ですが
何か方法があるとすれば……」
涼は、胸の高鳴りを抑えようと深呼吸を試みたが、肺が追いつかない。
静が戦っている映像が頭から離れず、倒れそうになる。
学園長は深く息を吸い、机に置かれた杖にそっと手をかける。
学園長
「……分かりました。各当主、すぐに動きます。涼くん、詳しい状況を——」
涼
「……はいーーー」
その返事が終わるか終わらないかのうちに、重い空気を切り裂くように、中庭から何かがぶつかり合う鋭い音が響いた——。
砂煙の中、静は荒い呼吸を吐きながら符を構えていた。
周囲の地面はひび割れ、樹木の幹は裂け、影の残滓が黒く滲んで揺れている。
静
「……くっ……どこに……!」
人型になった霧が音もなく襲いかかる。
静は一瞬で反応し、符に力を込めて霧を払ったが、当たったはずのそれはすぐに形を再構成する。
静
「再生……? 厄介な……!」
黒い霧が揺らぎ、まるで意思を持つように静を包囲し始めた。
符を一枚、また一枚と切っても、霧は削れるそばから再生を繰り返す。
背後で風が渦を巻き、視界を奪う砂煙が舞う中、静は汗ばむ額を拭う余裕もない。
呼吸は早まり、緊張で指先がかすかに震えている……
心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた——その時、狗神家当主が駆けつける。
狗神家当主
「……間に合ったか!」
どうやら、涼は間に合ったようだ……。
張りつめていた糸が切れたように、全身から力が抜ける。
符を握る指先から感覚が消え、俺はその場で倒れ込んだ。
意識が遠のく中、かすかに狗神家当主の声だけが耳に残る。
狗神家当主
「…ここまで、よく耐えた。後は俺がやる……お前は休め」
そう低く告げると、狗神家当主は静をそっと抱え上げ、花壇の陰へと運んだ。
視界はもう霞んでいたが……最後に見たの
狗神家当主と襲いかかる人型の霧だった——。
狗神家当主
「……ここまで、よく耐えた。後は俺がやる……お前は休め」
そう言い、影へ向き合うとそれはーー
狗神家当主
「……人型、だと……これが原因か?」
霧は応えるかのように形を揺らし、再び鋭く静かにうねる。
その一瞬、狗神家当主の眉がわずかに動いた。
狗神家当主
「ただの影ではないな……何か仕込まれている……」
その表情にはわずかな警戒と苛立ちが混じる。
符を構えたまま狗神家当主は低く息を吐き、静かに間合いを詰めていった。
その時、背後から風を切る音。
小鼬家当主が滑るように到着し、狗神家当主の横へ並ぶ。
小鼬家当主
「状況は——っ……これは、人型の影か!」
霧は応えるように形を大きく揺らし、再び鋭くうねり襲いかかってくる。
狗神家当主は符を一閃し、黒い光を散らすが、霧は瞬時に再構成された。
狗神家当主
「ただの影ではない……術か…いや、何か仕込まれたか……今までとは別物だ…」
続けて神蛇家当主と狐我家当主が駆けつける。
狐我家当主はすぐに周囲を見回し、声を張り上げた。
狐我家当主
「……学園内の結界はどうなっている? 本来なら外部の侵入は防げるはずだろう……」
狗神家当主は視線を逸らさず、低く応える。
狗神家当主
「……分からん。だが、こいつは外から来た存在じゃないかもしれん……」
最後に、天鴉家当主が降り立つ。
目を細め、すぐに結界の異常を確かめ始めた——。
黒い霧は形を歪めながら、不気味な音もなく四方から迫ってくる。
狗神家当主は符を構えたまま、一歩も引かず影の動きを見極めていた。
小鼬家当主
「……動きが早いな。封じられるか?」
狗神家当主
「……今の攻撃では無理だな。あれを使おう……時間、稼げるか?」
小鼬家当主
「任せろ……けど長くは持たんぞ!」
狗神家当主は頷き、符を構え直す。
そのとき、後方から天鴉家当主が低い声で呟いた。
天鴉家当主
「……嫌な予感がするな。これはまだ“本体”じゃないかもしれん」
その言葉に、狐我家当主と神蛇家当主が一瞬だけ互いを見やる。
霧はまるで嘲笑うかのように揺らぎ、鋭く静かにうねって襲いかかってきた。
符同士がぶつかり合い、火花と黒い残滓が中庭を覆う。
天鴉家当主
「加勢する……!」
張り詰めた空気の中、狗神家当主は静かに指を組み、地へ刻んだ陣を完成させる。
一瞬の沈黙——そして、その符陣が閃光を放った。
狗神家当主
「……完成した……!」
符陣が炸裂し、人型の影は光に呑まれて掻き消えた。
静まり返った中庭に残ったのは、砕けた植木鉢だけだった——。




