1-1 闇の中
暗闇だった。
果てしなく、どこまでも長く続いているかのような。
もしくは、見えていないだけで、すぐ目の前で途切れていそうな。
それとも、初めから、何もない世界であったかの如く。
なんの輪郭も見えない、暗闇。
私は、闇の中に居た。
私は闇の中で目を覚ました…
と言うのは、語弊があるかもしれない。
私は、この暗闇の中、自分の両足で立ってた。
気を失って寝ていたわけではない。どういうわけか、立っていたのだ。
(…暗い。今は、夜なのだろうか?ここはどこだ?)
何故だろう。自分が何処に居るのかわからない。
いつも腰にあったはずの相棒の重さを感じない。どうやら、武器は身に着けていないらしい。
ここは宿ではないようだ。明かりが無い事を考えれば、恐らく街の中ではない。
ならば野営でもしていたか?明かりを消して?立ち尽くして?
暗闇の中で立ったまま唐突に目を覚ますなど、今まで一度も経験した事が無い。そのせいで全く経験則からの予想がたてられない。
そして。
ここまで思い返してわかったが、直前の記憶が、どうにも思い出せそうにない。
とっかかりになりそうな断片的な記憶すら、蘇って来てはくれないのだ。
それは言うならば、忘れてしまったというより、初めから知らない物を考えようとしているような。どうしようもない、絶望的な程の、無力感だった。
だが、わからないからと言って諦めるのはまだ早い。考える事を放棄するのは愚策だろう。
とはいえ、何せ視界に入る光景は黒一色。いくら目を凝らしても、そこからは何の情報も得られない。
だが、私は自分が何処に居るのか、思い出しかけていた。
…いや、直前の記憶が思い出せないのは変わらない。思い出したのは、私の記憶に直接ふれられるような、奇妙な感覚の元。その原因は、匂いだ。
それは雨上がりのような匂いだった。
いいや違う。これは雨上がりに必ずする匂いではない。
軽い霧雨。あとは、にわか雨の後、陽と風が時々運んでくる匂い。
湿った土の、香りだった。
嗅覚と視覚。私が最初に手に入れたのはその二つの情報だが、これで終わりではない。
聴覚。
そう、ここは何も見えない暗闇であっても、何も聞こえない静寂の闇ではない。
耳をすませば、少しだけだが聞こえる音がある。
遠くで、風が鳴いている。それは、風の吹き流れるようなキレイな音ではない。もっと気味の悪い、不安を煽る音だ。ボウボウとか、ゴォゴォとか、グォウグォウとか。なんとも言葉にし辛いその音は、知らない者が聞けば、未知の魔物の唸り声と勘違いするような、微かに響いて届く低い音。だが、風はここまで届いていない。ここの空気は停滞していて、風を体で感じる事も無い。どこか遠くで鳴っている。反響して、小さくなって、それでも耳をすませばどうにか、遠くで鳴って居る事がわかる、そんな程度の音だ。
反響している音、それを反響させた壁。音の響き方から、今自分が居る場所が、横に広くない空間で、長く奥へ…前後へ続いている事がわかった。
音の方角まではわからないが、風がここまで流れていないと言う事は、前か後ろのどちらかが、風が流れる道のない行き止まりなのだろう。
ああそうだ。
私は、この土の香りを漂わせながら嘶く長い長い暗闇に、心当たりがある。
ここは、私の仕事場だ。私の、居るべき場所だ。
そう、ここは--
(--洞窟だ。)
気が付けば私は、洞窟に一人立っていた。
何故?
何故こんな場所に?
人間が何の明かりも持たずに洞窟を歩くなど、自殺行為に等しい。
私が自分の意思でここまで来たのであれば、必ずこの暗闇に挑む為の準備をして来たはずだ。
武器、灯り、食料。
そして、仲間。
考えも無く一人で、剣も光源も持たずにこんな所に入ってくる、自分がそんな馬鹿な人間だとは思いたくない。
だが仲間が居るとすれば聞こえるはずの…遠くの微かな風の音が聞こえるのに、近くから聞こえなければいけない人間の呼吸音が聞こえない。
それはつまり、この近くには居ないと言う事だ。少なくとも、生きた人間は。
(留まるべきか、進むべきか………)
逡巡。ただし、数秒だった。
武器や、その他冒険用具もこの近くにあるかもしれない。全てが安い物ではないし、自分の道具が善人に拾われればよし、そうでない場合は……考えたくもない。回収できる物なら勿論そうしたい。留まって周辺を手探りで探し、それらしき物を見つけられれば僥倖だ。
だが視覚に頼れない以上、本来見渡せば一瞬でわかるような範囲を捜索するだけでも相当な時間がかかるだろう。
洞窟で出会うとなれば、殆どの場合人間よりも先に人外だ。ここは人間の住処ではない。人外のテリトリーだ。無防備なままで居る時間は、可能な限り短い方が良い。道具も金も、命に勝るほどではない。
生きてここを出られたのなら、最悪、洞窟を出て仲間と再会ができなかった場合でも、臨時のパーティーを組みここに道具を取りに来ることもできるかもしれない。
その時の為に、出るまでの感覚的な距離や洞窟〈ダンジョン〉の場所は、可能な限り記憶にとどめておこうと心に決めた。
まあ、歩きながら、足に当たった物があれば触って確める位の事はしても良いだろう。今はとにかく出る事、進む事が優先だ。
だが、さて。いざ進むとなると、最後にもう一つ大切な事がある。
音だけで判別した、前後に長く続いていると思われる道。
どちらに進み始めるかによっても、脱出までの時間は大きく変わってくる可能性がある。
残念な事に、音の反響は前後どちらからも聞こえているように感じる。反響しているのだから何も不自然はないが…。
あまり時間をかけては意味がないが、運に身を任せられるほど神様に執心しているわけでもない。最終的に神頼みしかなかったとしたらそれまで。だが、自分の五感と経験で決められる要素があるならば、それを惜しみたくはない。
風音。それ以外には何か無いだろうか?聞き逃していないか?
もう一度、耳をすます。
やはり、近くに音は無い。
人間の吐息はおろか、魔物の息遣いや這う音も無い。
もっと遠くに意識を向ける。
気にしなければ聞こえない程度の、低い風の音。
前からも、後ろからも聞こえるその音は、少しだけ様子を変えながらではあるが、殆ど鳴りやむ事が無い。この暗闇の中で唯一、闇以外の何かが確かに存在している事を告げている音だ。
………………いや。違う?
風の音に紛れて、何かが聞こえる。聞こえてくる。
音は、後ろからしていた。
ゆっくりと、音は、近付いて来る。金属の音。
最初は無かったのか、その時はまだ小さすぎて風に消されていたのか、私が気が付かなかっただけなのか。そんな事はどうでも良い。近付いて来る。
どうする?逃げるか、近付くか。逃げるべきだ。安全を考えれば、敵かどうかを見極めるまで不用意に近寄るべきではない。だがしかし、金属を身に着けた魔物がいったいどれだけ居るだろう。だが、洞窟〈ダンジョン〉で魔物先に人間に会うなんてそんな幸運があるだろうか?だが、人間である可能性は高いように思う。だが、人間だと断定はできない。だが、人間ならば。
(だが、だが、だが、だが、だが………)
リスクとメリットが、頭の中で喧嘩を始めて内側からガンガンと叩いていた。だがなぜか緊張感に反して、いつもならば嫌になるほど逸る胸が妙に静かだ。大丈夫だ、私は。まだ落ち着いている。
気付けば、音はゆっくりと、確実に近くなり、だいたいの距離が分かるようになってきた。
足音だ。それも、一つではない。数人の足音。
そう判別できる頃になると、視界にも変化が起きた。
闇の中で目を凝らすと、黒以外の色が目に飛び込んでくる。
洞窟の土肌が見えた。急な曲がり角になっていて、その先に灯りがある。
曲がってくる、恐らくは、あの角を。何かが。灯りを必要とする何かが…。灯りを必要とする者、だとすれば…人?もしや、仲間が?私を、救助に…
見よう、その正体を。
油断をしてはいけないけれど。まだ、心が決まったわけではないけれど。
曲がり角から見えるそれが、人間だったなら良い。知って居る顔だったならより良い。
声をかけて近付こう。
だがもし、人以外の何かであったなら?…音を聞くにその可能性は低そうだが…なら暗闇の中でもかまわない。全力で逆方向に逃げよう。
取れる先手を捨てるのは、愚の骨頂。先に気配を気取られるわけにはいかない。
私は、狩りをする時のように気配を消し、より耳をすましながら、息を潜める。
…………そこに訪れる、急激な、違和感。
何かが。
おかしい。
(何かが、おかしい、致命的に。なんだ、この感覚は…!土壇場で、緊張しているからか?気のせいなのか!?)
焦り。
目と耳の神経は研ぎ澄ましたまま、頭を使う。
だが、答えを導き出す前に視界の中に入って来たのは、灯りと共に歩く人の姿だった。
先頭が、金属鎧を着た青少年。更に、曲がった先の安全を確めながら、後続する3人の男女。
それを見て、緊張と違和感が霧散した。
顔立ちから見るに若くも幼くも見えるが、それでも緊張感も見て取れる。
戦闘職、斥候、魔法使い、回復役。少年少女の冒険者パーティーといった所だろうか。
…経験豊富な先輩が、こんな所で助けられるのは少々情けなくもあるが、そうも言っていられない。
早々に敵意が無い事を知らせて、保護して貰おう。
(「おい、君たち」)
声をかけたつもりだった。だが、まるで寝たきりだった病人の如く、思うように声が出ない。
なんだ、これは。一体、私はどれだけあの闇の中に居たというのか。いや、まあそれは後で考えれば良いとして。
もう一度声を出そうとした。が、やはり出ない。
今考えるべきなのは、この状況で、こちらに敵意が無い事を伝える事だ。
私は、彼らを驚かせないように、ゆっくりとそちらへ歩き始めた。
(…考えると言えば、先程の違和感はなんだったんだろう。そう、危機感や焦燥感ではなかった。あれは違和感。あの時はまだ、彼らが人間かどうかわからなかったから、先に気配を悟られないよう気配を消したのだ。息を止めて…)
歩き始めた私にようやく気が付いたらしく、ある者は剣を抜きある者は杖を構えてこちらへ向ける。
その様子から見るに、どうやらまだ、こちらの姿は全て見えて居ないようだ。暗闇から突然足音がしたら警戒するのは当然だろう。
焦らず、そのままゆっくりと近づく。
…一歩、二歩。そろそろか?
……三歩、四歩。まだか警戒されている?
………五歩、六歩。もう、見えるだろう?
…………七歩、八歩。なぜ、まだ、警戒をとかれないんだ?
……………九歩、十歩。先頭の彼が何かを叫んだ。
何か?何かを叫んだのだ。それは、…何語だ?
私の知らない言葉だった。
おかしい。おかしい。待て、待て、待ってくれ。
もう見えて居るはずだ。私が居る辺りまでは、間違いなく光が届いている。洞窟の壁も、私よりも後ろまで照らされている。私の姿が、見えているはずだろう?見えているはずなのに、警戒されているのか?追剥ぎの類だと思われている?丸腰なのに?敵意はないのだと伝えたいのに、声が出ない。違う、おかしいのはそこじゃない。
(なんだった?そうだ、何がおかしかったんだっけ。息を止めた事の何がおかしかったんだ?違う、息を止めたのがおかしかったんじゃない。おかしかったのはそこじゃなくて、その前からだ。)
4人パーティーの中の一人、一際目立つ、全身をフリルとリボンで飾り付けたファンシーな衣装の魔法使いの少女。彼女は何かを叫び、叩きつけるような乱暴さで杖を向けて来た。
魔法が、来る。
違う、敵じゃない、人間だ、やめてくれ。
そうだ。違和感の正体が、わかった。
音が、変わらなかった事だったんだ。
魔法使いの杖から、魔法が飛んでくる。
火の玉が飛んでくる。
あの時、確かに感じた静寂。耳をすましたあの瞬間、聞こえるはずの、聞こえなければならないはずの、聞こえない音。
『近くから聞こえなければいけない人間の呼吸音が聞こえない。それはつまり、この近くには居ないと言う事だ。少なくとも、生きた人間は。』
聞こえなかったのは、人間の呼吸音。
そう。人間の呼吸音が聞こえなかった。
近くから聞こえなければいけない人間の呼吸音……自分の、吐息すら。
私は、息を止める前から、息をしていなかった。
私はずっと、息をしていなかった。
何故?なぜ?
なぜ私に、魔法を放つ。
(ひのたまがくる。ひのたまが。あたる。ほのおがあたる、しぬ。死ぬ?こんなところで。わけのわからないまま。)
火の玉の魔法があたる直前。本能的に、自分の腕を盾にした。
だがそれは、なんと心許無い盾であったことか。
私を庇った私の盾はは、右から二本、左から二本。たった四本の、白い棒。
(ああ、これ。なんて言うんだっけ、この。細い方の名前。)
意識が消える、深い眠りにつく。その時、私が最後に考えていたのは どうでも良い事。
「どうしてこうなった」とかじゃなくて。「どうすればさけられたか」とかじゃなくて。
とてもとても下らない事だった。
細長く白い棒。そのうちの、更に細い方。その名前だった。
(尺骨だ。)
要約:
起きたら洞窟に居た。
暗くて何も見えなかった。
やっと人に会えたと思ったら魔法ぶっぱされた。
私、骨だった。