ハリエットの魔法
危篤状態から脱したわたしが、ようやくベッドに起き上がれるようになったのは、お茶会から七日後のことだった。
「お嬢様、うわ言で何度もアップルパイ、アップルパイって……」
目を赤くし、泣き腫らした顔のベティが笑っていいのか泣いていいのか分からないと言う複雑な顔でわたしの身体を拭いてくれた。それを聞かされたわたしも複雑な気持ちである。家族や使用人には、ずいぶん食い意地の張った娘だと思われたことだろう……遺憾の意……
髪がベタついて気持ちが悪いのでシャワーを浴びたいとお願いしたのだけど、病み上がりだからと断られてしまった。
確かに体力が落ちたのは感じる。七日も寝ていればそりゃそうなるか。この数日でだいぶ元気にはなったけれど、まだ半日くらいしか起きていられないし、食欲もないので水と流動食で胃を慣らしていく日々は、味気がなくてしんどい。
前世で病人食と言えば重湯や林檎のすりおろしの認識だけど、今世でもそこは大きく変わらないらしい。ただ、わたしに林檎が提供されることはなかった。
なぜなら、わたしが倒れたのは、まさにぶっかけられた林檎の果実水に入っていた毒によるものだったからだ。
事件を連想させてはいけないと気を遣ってくれるのは嬉しいけれど、寝言でアップルパイ、アップルパイと呟いているわたしにその配慮はだいぶ的外れな気もする。
まあ、アップルパイを禁止されないのなら林檎のすりおろしくらい、別に我慢しますけど。
――て言うかわたし、毒殺されかけたのよね……
薄々、そうかな〜とは思っていたけど、改めて聞かされると、やっぱり背筋がヒヤリとする。
教えてくれたのは父だった。まだ全快とはほど遠いわたしの体調を慮りながら、「おまえは当事者だからね」と話してくれたのだ。
子ども扱いされて蚊帳の外に放り出されなかったのはありがたいと思う。
結論から言うと、わたしの飲んだ毒は殿下のゴブレットのみに仕込まれていた。
殿下は毒林檎の果実水が入ったゴブレットを手に取ったものの、結局一度も口を付けなかったので難を逃れたのだが、あろうことか例の黒髪の彼女がそれをわたしにぶっかけたことにより、今回の事件に発展したのだ。
わたしが毒を飲んだのは、犯人にとって完全に誤算だったと言える。
最初は「外務大臣の御令嬢を狙った暗殺未遂事件」として捜査され、当然のようにわたしに失礼を働いた御令嬢が疑われたのだが、捜査が進むにつれて元々のターゲットがアマーリ殿下であることが判明した。
あのとき、殿下のゴブレットに確実に毒を仕込めたのは一人しかいない。
果実水を給仕した、あのパーラーメイドだ。
王族の暗殺――しかも、精霊の子の暗殺未遂となれば、国家を揺るがす大事件である。極刑は免れないだろう。
父は、犯人の供述や処分については明言しなかったし、わたしもあえて訊ねることはなかった。
いくつか引っ掛かる点もあったけれど、それを訊いたところで教えてもらえるとは思えなかった。
なにより、心の整理がまだつかなかったのだ。
所詮わたしは、とばっちりで死にかけた貧乏くじ令嬢。
かぶらなくて良い毒をかぶり、渡らなくて良い川を渡りかけた、幸運値Eランクのツイていない女なのである。
ちなみに、わたしに毒をぶっ掛けた彼女の名前はダリア・ブラックと言い、ブラック侯爵家の末子だと言う。例の一件後、ブラック家は懲戒を受け、ダリア嬢はご両親からかなりキツイお仕置きを受けたとだけ聞いた。
名前からして不吉な香りのするダリア嬢よりはまだ、わたしの方がツキを持っているのかも知れない。
寝てばかりでボサボサのわたしの髪を、ベティがゆるい三つ編みにしてくれる。ヘアスタイルに強いこだわりを持つ彼女だが、さすがに病床のわたしを縦巻きロールに仕立てはしなかった。
就寝時を除いて、ドリル以外の髪型にするのは年単位で久し振りだ。だけど今は鏡を見る気にはなれない。やつれて、顔色が悪くて、髪も汚くて……ちっとも可愛くない自分の姿なんて見たら、さらに気が滅入ってしまう。
「どうぞ」
ノックの音に返事をすると、扉の向こうからジーンの声が聞こえた。
「失礼します」
目を覚ましてから彼とは何度か顔を合わせているのだけれど、その表情は事件前と何も変わらなかった。あまりにも普段と変わらないので、「あれ? わたし、死にかけたよね?」と五回くらい自問した。
「お見舞いの品が届いております」
小さな花籠を持って現れたジーンに、わたしは首を傾げる。
毒に伏してから毎日、王宮より薔薇の花束を贈られていたのだが、当然意識がないのでわたしの知るところではなかった。聞けばアマーリ殿下が手ずから、ご自身の育てた薔薇園の花を摘んで我が家に届けさせていたと言うではないか。
責任を感じてくださるのはありがたいけれど、それを聞いたときのわたしの寿命は体感的に三年くらい縮まった。
なんと言うことでしょう。生死の境を彷徨っている間に、王家と必要以上に関わりを持たないと決めたわたしの人生設計が、最初から頓挫しそうになっているではないか。
そもそも、殿下の身代わりとなったわたしに、王家は優秀な医師や薬師を派遣してくれたのだ。これ以上の施しは贔屓に当たるのではないかと、すごーくマイルドに「花束いらん」と言う想いを伝えたのだが、母はすっかりその気になっていたので、
「殿下のお気待ちを断るなんて不敬ですよ」
と叱られてしまった。
殿下も責任を感じているのだろうから受け取って差し上げなさい、とのことだ。その気持ちは分かるけど、このままでは恐れ多すぎてわたしが安眠出来ない。永眠させる気か。
仕方がないのでお手紙を書いた。病み上がりの身体に鞭を打って、「気持ちは伝わったので花束はもう十分だけど、どうしてもお詫びをしたいのなら、全快祝いにアップルパイをちょーだい」と言う旨の内容を、これでもかと言うほど丁寧な言葉に置き換えてしたためたのだ。
果たして手紙の効果は絶大で、エブリデイ薔薇攻撃は収まった。母は残念がっていたが、これでいい。わたしは、わたしの破滅フラグを地道に、しかし確実にへし折っていく覚悟がある。ついでに、あの日食べ損ねた王宮アップルパイを手に入れる算段もつけられたので、まさに一石二鳥。自分の有能さが恐ろしい。
ところで今回ジーンが持ってきたのは、わたしを悩ませた殿下の薔薇ではなかった。小さなバスケットに寄せられた数種類の花はいずれもピンクや薄紫、水色などのパステルカラーで、とても可愛らしい。
「オレンジ家のシャルロット様からです」
「あっ、ロッテからかあ」頰が緩む。「あの子にも心配かけちゃったなあ」
花籠に添えられたメッセージカードにはわたしの回復を願う言葉が書かれていた。快気したら、ちゃんと謝らなきゃね。
「それから」
「まだ何か届いてるの?」
「いえ」淡々とジーンが告げる。「お部屋の外にギルバート様が」
「は?」
「お嬢様とお会いになりたいそうですが、いかがなさいますか」
――そう言うことは早く言ってッ!!!
「ギギ、ギル様来てんの?! なんで?!」
「……お見舞いじゃないですか?」
すごい! めちゃくちゃどうでも良さそうな顔で言われた! 振りでもいいから、もう少し興味持とうか!!?
一応、まだ絶対安静の身だからね、わたし。気力も体力も戻ってない今の状態でギル様の攻撃に耐えられるのか……
いや、あの人も鬼ではないから病人に鞭を打ってくることはないと思うけど、世の中には「弱り目に祟り目」と言う言葉があってですね。
問題を起こすなと言われていたのに思いっきり面倒ごとに巻き込まれて帰ってきた問題児ですから、お見舞いと称し、間抜けな妹を叱りに来た可能性も十分考えられる。
それはそれで別にいいんだけど、やっぱり今は会いたくないなあ……
だって今のわたしってば、超絶可愛くないんだもの。
こんなひどい姿で、あの麗しい兄の前に立てるはずがない。汚物扱いされるのがオチだわ。
「可愛いは正義」と言うけれど、あれは正義と言うより鎧だ。そして剣だ。武装を解除した状態で彼と対峙するのは自殺行為である。
「どうされますか、お嬢様」
「会わない!」
「かしこまりました」
ギル様には万全のわたしで臨みたい。兄はわたしを気に入らないようだけど、わたしは別に彼を嫌いじゃない。あの人は、その尊大な態度に見合うだけの努力をしている。才能にあぐらをかかず、勤勉で、他人にも自分にも厳しい人なのだ。
ただ辛辣なだけではない。ともに暮らしていれば、そのくらいは分かる。その姿勢から、何も学ばないわけではなかった。
だからわたしも、魔法を諦めずにいられたのだ。
「では、そのように」
一礼し、ジーンが部屋を出て行く。扉が閉まるのを見届けてから、わたしは身体をベッドに横たえた。
「疲れた……」
「休まれますか?」
「……そうするわ」
頷くと、ベティが布団を直してくれた。
「何かあれば呼んでください」
ベッド脇のチェストにベルを置いて、彼女も部屋を下がる。
静かになった室内で、わたしは天蓋に描かれた精霊たちを見つめた。
光を纏った女王ビスタベラを、風火水土の精霊が囲んでいる。
わたしに宿るのは火の精霊の加護だ。
前世での死因を知った今となっては、なんとも皮肉な話である。
身体に魔力を巡らせたとき、どうしてあれほどの恐怖を感じたのか、やっと理解した。
「そりゃあ怖いよね……」
わたしにとっては追体験に過ぎない例の夢にリアリティを感じることはなかったけれど、そのとき覚えた感情はわたしの心と深く繋がっていた。
目を閉じて、深呼吸をする。
悔しい。
苦しい。
死にたくなかった。
それはもう、恐怖を通り越した怒りだった。
不幸な偶然で“わたし”は死んだ。平凡な人生を歩み、真面目に生きていただけなのに、人生はつくづく理不尽だ。
お腹の底にぐつぐつと熱が溜まる。力が漲って、身体の隅々まで行き渡るのを強く感じる。
ゆっくりと目を開け、天蓋に描かれた火の精霊へ右腕を伸ばした。
「…………燃えろ」
すると、手のひらが瞬間的な熱を放ち、拳ほどの大きさの炎の塊が天蓋目掛けて飛んで行った。
ボウッ、と音を立てて火の精霊に着火する。
それは、まごうことなき魔法だった。
わたしの手から、火の塊が生まれたのだ。
嘘のようなホントの奇跡。
天蓋が、パチパチと爆ぜながら地味に燃え続けている。
「……すごい」
ずっと憧れ続けたその光景に、しばらく目を見開いたまま固まっていたわたしだったが、文字通り身に降りかかる火の粉で我に返って跳ね起きた。
「ちょっ、熱っつ! あっぶな!!?」
呑気に見惚れている場合ではなかった! これでは前世の二の舞だ!
自分の炎で丸焼けになるなんて笑えない冗談、やめてよね!!
「出合え、出合えーッ!」
チェストに置かれたベルを思いっきり振り回して叫ぶと、なぜか真っ先に現れたのはジーンだった。燃える天蓋を見て、珍しく表情を変えている。
彼は無言のまま懐から取り出した杖を振るって、勢いよく水球を連投した。ジュワッと小気味の良い音を立てて、無事にボヤは鎮火される。ついでにわたしも水をひっかぶってびしょ濡れだ。
「申し訳ありません、手元が狂いました」
しれっと嘘をつくな。