毒林檎とアップルパイ
前髪から滴った果実水が鼻筋を伝う。髪も肌も濡れて気持ちが悪い。
「けほ……っ」
不意打ちだったから、ちょっと飲んじゃった。鼻に入らなかったのはラッキーだ。いや、この状況が既にとんでもないアンラッキーなんだけど。
公の場で初対面の相手にこの仕打ちとは、なかなかに苛烈で腹の据わった少女である。
もしくは、無謀な愚か者だ。
わたしを誰だと思っているのか。
ハリエット様だぞ。
「何をなさるの!?」
ロッテが相手を鋭く睨みつけ、厳しい声をあげる。ハンカチで濡れた顔を拭いてくれる彼女は、あまりのことに呆然とし、何も言えないわたしの分まで怒ってくれているようで、こんな非常時だけど心強く感じる。
「あら」
御令嬢は優雅に黒髪を払い、ごめんあそばせ、と口の端を吊り上げた。
「手が滑ってしまいましたわ」
「よくもぬけぬけと!」
ロッテ、ロッテ。擬態が解けてるよ。わたしは彼女の手を握って宥める。
指先が震えて、力が入らない。ドラマなんかでたまに見かけるシーンだけど、実際に他人に水を掛けられるのってこんなにも衝撃的なんだ……。今世はもちろん、前世でも経験したことがなかったから、ショックが大きい。
「ロッテ、大丈夫だから……」
これ、乾いたらベタベタしそうだなあ。それに、せっかく仕立てたドレスも濡れて台無しになってしまった。
襟元をつまんでため息をこぼす。
絶対に高かったよね、これ……染みにならなければいいんだけど……
刺すような胸の痛みと息苦しさに、自分が深く傷付いているのが分かる。けれど、こんなことで泣いてなどやるものか。
こんな場所で格下の小娘を愉しませるための玩具にされて、たまるもんですか。
わたしを誰だと思ってるのよ。精神年齢だけならとっくに四十路を超えて、母親より歳上なんだからね。
加えて、メンタル鬼強クラスの元社畜令嬢を甘く見ないでもらいたい。
「ハリー、顔色が悪いわ」
「いえ……」
平気よ、と返したかったのに声が出ない。呼吸が乱れて、たまらず胸を押さえた。
視界がぐにゃりと歪んで吐き気がする。
直情的に向けられた剥き出しの悪意のせいかと思ったけれど、何かがおかしい。
フン、と鼻で笑う声が聞こえた。
「何よ、大袈裟ね」
「あなたねえ……!」
すぐそばで二人が言い争っているのに、その声がひどく遠い。目眩のせいで立っていられずに膝をついたわたしは、堪え切れないこめかみの激痛に顔を歪めた。
どうしよう、息が出来ない。胸が熱くて、頭がとても痛い。
苦しい。
助けて。
目の前が真っ白に染まる。熱くて怖くて、なのにどこにも逃げ場のない絶望感が足元から忍び寄ってくる。
這うように、舐めるように。
煙が、火が、わたしに迫ってくる。
熱い。
苦しい。
いやだ、死にたくない。
死にたくないよ。
助けて、
お母さん――
「ハリー!」
咳き込んだ喉から、ゴボッ、と嫌な音がした。
くちびるから溢れた生暖かいものが、繻子のドレスに赤い染みをいくつも作る。
血だ。
ああ、いよいよドレスがダメになってしまう。こんなに綺麗なのに、もったいないなあ……
視界が暗転する。
悲鳴が飛び交う中、わたしの名を叫んだのは誰だったのだろう。
◆
十人座ったら満席になってしまうような、カウンター席しかない雑居ビル五階の小さなバーの隅っこで、わたしは友人を待っていた。
待ち合わせは二十一時だったが、つい五分ほど前に「残業、三十分くらい遅れる」と連絡が来た。ごめんね、と猫が手を合わせているスタンプも添えられて。
了解、と返信してグラスに半分残っていたビールを飲み干す。
「同じものください」
常連と言うほどではないけど、たまに利用するのでマスターとは顔見知りだ。
お互い仕事が忙しく、こうして時間を取って会うのは久しぶりだった。ゆっくり食事でもしたいね、と言いながら都合がつかずに、三カ月程が過ぎてしまったのだ。
明日は二人とも休日だから、今夜は少し遅くまで飲むつもりでいた。積もる話もあることだし――と言っても所詮、上司や仕事の愚痴だったり、家族の話だったり、くだらない話題ばかりなのだけど、取るに足らないそのくだらなさが、疲れたわたし達には重要なのだった。
そろそろ来る頃かな、とスマホで時間を確かめる。ビール二杯程度では、まだまだ酔う気配などない。
スツールに上着を掛けたままバッグだけを持って、わたしは店の奥にあるお手洗いへ立った。
トイレの壁に貼ってあるチラシを便座に座ってぼーっと眺めていたら、不意にけたたましいベルの音がフロア全体に響いた。古いビルを揺らすような甲高い騒音に、胸がざわつく。
学校の避難訓練でしか聞いたことのない消防ベルに、慌てて身支度を整えた。バッグを掴んで個室を出ると、戸惑った様子のマスターと客達の顔が目に入る。
「えっ、火事?」
「誤作動じゃないの?」
半信半疑の表情でみんなが顔を見合わせている。実際、誤作動が起きても不思議ではないほど年季の入ったビルだ。
「様子を見てきますね」
そう言って店を出ていったマスターが、三分ほどして顔色を変え飛び込んできた。
「下から煙が来てます! 逃げて!」
そこから先はパニックだった。
なぜなら、想像以上に火の回りが早かった上に、避難経路である非常階段の扉前は雑多な荷物ですっかり埋まってしまっていたのだ。
高く積み上がった荷物の隙間から、非常灯の緑の光が虚しくもれている。
「どうして!!」
誰かが悲鳴をあげた。
「ねえ、他の階は!?」
「非常階段はここだけです!」
「はあ?!」
「どうにかしなさいよ!」
「とにかく荷物を退かせ!」
同じく、最上階である五階フロアのテナントから出てきた客や店主が怒号を飛ばし合う。
他フロアにいた逃げそびれた人達も詰め掛けて、狭い通路はあっと言う間にすし詰め状態となった。
「煙が見えた!」
「ねえ、消防車は!? まだ来ないの!?」
恐怖と焦りが伝染して、集団ヒステリーの様相を呈していく。じわり、じわりと確実に迫る炎と煙に、その場の誰もが正気と冷静さを侵食された。
狂気が密度を増す。
息苦しい。目が回る。
頭が割れそうに痛い。
灰色の煙と物の焦げる臭いが身体中に纏わりつく。
助けて、死にたくない。
人が心の底から泣き叫ぶのを初めて目の当たりにし、恐ろしさに涙が溢れた。
身体の震えが止まらない。
「死にたくない……」
いざ死に直面すると、誰しも本能的に同じ言葉を口にするのだとこのとき知った。
「お母さん」
死にたくない。
まだ死にたくないよ。
「……たすけて、おかあさん……!」
◆
うずくまったまま動かなくなった彼女を見下ろす心は、とても凪いでいる。
――ああ、だから。
だから、“あなた”は火が怖かったのね。
◆
身体が動かない。声が出ない。目も開かない。指先ひとつですら自由にならない。
まるで、全身を蝋で固められたようだ。
頭の芯がぼうっとして、耳鳴りがする。船の汽笛みたいに、耳のそばでボーッと鳴っていて、うるさい。
キリキリとした痛みに頭が締め付けられる。
耳鳴りの奥で誰かの話し声がした。いくつもの声が重なって聞こえ、何を言っているのか少しも分からない。
低い音、高い音、忙しなく走り回る足音。
なぜかしら、目を閉じているのに目が回るの。
頭の中を直接掻き回されているような不快感と倦怠感に顔をしかめたつもりだけど、多分表情はさほど変わっていないのだろう。
身体と精神のリンクが切れかけていると感じる。
……わたし、“また”死ぬのかな。
せっかく憧れだった魔法使いの世界に生まれ直したのに、結局一度も魔法が使えないまま死ぬなんて、なんだかとても名残惜しいわ……
いつか、颯爽と魔法を使ってギル様を見返してやりたかったのに。
慇懃無礼な従者の鼻も明かしてやりたかった。
わたし、自分を落ちこぼれと認めてはいるけれど、決して魔法使いになる夢を諦めたわけではないのよ。
原則、魔力があるなら魔法は使える。その理屈ならわたしだってワンチャン狙えるんだから。
この先、わたしにも有効な何かしらの発見や発明があるかも知れないじゃない。
わたし、まだ八歳だもの。未来は無限大なのよ。
王子様も宝石も、豪華なドレスだって欲しくないの。
わたしはお姫様になりたいわけじゃない。
例えば王都から離れた田舎の辺境貴族に嫁いで、いっぱい家族を作ってみんなで賑やかに暮らすのも素敵だな。お祝いの日には、とびきり美味しいアップルパイを焼くのよ。
旦那様はイケメンじゃなくてもかまわないの。甲斐性があって、家族を大事にしてくれる人が理想的ね。
ハイスペック男子は、他の皆さんにお譲りします。
お金持ちのお嬢様に生まれて、顔だって人一倍可愛いんだもの。例え魔法が使えなくたって、十分人生を獲りに行けるわ。
神様の転生ガチャがあるのなら、わたしは総合的に見てなかなかの当たりを引いたと言えるだろう。
――わたし、こんなところでぽっくり死んでる場合じゃなくない?
魔法チートでもないし、前世の記憶で無双出来るわけでもないけど、わたしは十分恵まれているじゃない。
悪役令嬢の破滅フラグなんか根性でへし折ってやるわよ。
それに今、とても重要で大変なことを思い出したの。
温かい手がわたしの指先を包み込む。すると、それまで頭をかち割らんばかりに響いていた耳鳴りがスッと止んだ。
頭痛が引いて、呼吸が楽になる。
なんだろう、安心する。
とても優しい気配がするの。
それに、この人はとても悲しんでいる。胸を痛めている。
大丈夫、大丈夫よ。わたし、死なないわ。このままじゃ死んでも死に切れないもの、絶対意地でも生きてやるんだ。
だって、わたしまだ、王室のアップルパイ食べてない。