精霊の子
もしもわたしにスピリチュアルな能力があって、人のオーラを見ることが出来たのなら、殿下の背にどんな色を見たのだろう。
オーロラ色か、玉虫色か。目も開けていられないほどの黄金色か。
遠目に拝見したときですら、その存在感に圧倒されたと言うのに、彼の人は物理的な圧を引き連れて少しずつわたしとロッテの元へ近付いてくる。
殿下に声をかけられて、中にはホロホロと泣き出してしまう女の子までいた。スーパーアイドルのファンサにキャパオーバーしたのだろう。その気持ち、分かる。前世で推しのファンサにフリーズした“わたし”が頷いている。
まあ、こっちは別の意味で泣きそうなんだけど。
わたしの腕を掴んだまま殿下に釘付けになっているロッテを尻目に、深呼吸する。落ち着こう。わたしに疚しいことなど何もない。普通に挨拶するだけなのだから、難しいことなんてないわ。
「……あら」
軍団の中に見知った顔を見つける。わたしの“お友達”だ。
お茶会の初めに少しお話したあと、わたしが殿下に興味が無いと知るや、さっさと群の一員に加わりに行ってしまった御令嬢たちである。
薄情とは思わない。むしろ、周りでキャーキャー騒がれて変に目立ちたくなかったので、早々に去ってくれてホッとした。
だって彼女たちの話題ときたら、いつだってハイスペック男子の噂話や誰かの悪口ばかりなんだもの。
殿方に関する情報収集能力にはちょっと目を瞠るものがあったけれど、家柄とか資産とか見た目とか、そんなところばかりを気にしてる彼女たちとは、価値観が合わな過ぎる。
見え透いたおべっかも、やたらとギル様の話を聞きたがるのも苦痛だった。結局あの子たちは、わたしの家名と兄にしか興味が無かったのよね。
兄に婚約者が決まったかどうかを気にして迫ってきたけど、そんなもの例え知ってたとしても教えられるわけがないって分かるでしょうに。貴族の婚約は政治的な思惑だって含まれる機密事項なのだから。
今日だって、あわよくば公爵令嬢であるわたしの立場を利用して殿下に近付きたいって下心が透け透けでうんざりした。グラニースミスの家名を持つわたしなら、殿下に群がる邪魔な令嬢達を蹴散らせると思ったんでしょう。
冗談ではない。そんなのは悪役令嬢のすることだ。
この品行方正なわたしを捕まえて、「ハリエット様、やっちゃってくださいよ!」とけしかけるつもりでいたのだから、ホントに面の皮の厚い人たちよね。
「ハリー、ハリーったら」
家に帰ったら、彼女らとの付き合いを見直したいと母に進言しなくては。眉間を揉みながらあれこれ考え込んでいたら、ロッテに肩をバンバン叩かれた。やだ、すっごい痛い。
自慢じゃないけど親にも打たれたことないのよ。
ギル様には日々メンタルを滅多打ちにされてるけどね!
「痛いわ、ロッテ」
おかげで自虐ネタが増えたじゃない。
「あなたがボンヤリしてるからでしょ。ほら、もうすぐそこまでいらしてるわよ」
亜麻色の瞳を輝かせたロッテが、恋する乙女の顔で殿下の姿をうっとり眺めている。
「……なんだか、同じ人間とは思えないくらい綺麗な方ね……」
「分かる……」
これが王家の迫力か。
欠点なんて何も見当たらない、完璧なお姿である。
わたしに第六感はないし、オーラも見えないけど、精霊の子と言う存在はそこに在わすだけで眩しいものだった。殿下に後光が差して見える。あの方が蓮の花から生まれたと言われてもわたしは信じるぞ。
浮世離れした美しさに目を細める。
お釈迦様や阿弥陀様なんかを見て、有り難いと拝みはしても頰を染めはしないように、わたしにとって殿下は、偶像と言うよりご本尊の感覚に近かった。
宗教観は違うけど、生き仏が目の前にいると思えばなかなかに感慨深いし、これは貴重な体験だ。今後、わたしが殿下と接近出来る機会なんて滅多に訪れないだろうし、殿下に話しかけられたと言えば母も喜んでくれるんじゃないかしら?
よし、これは良い土産話になるぞ。
それに、向こうから近付いてくるんだもの、兄の言う「余計な真似」にはならないよね?
「ハッ……!」
客降りした殿下が近付いてくるのをまんじりと見守っていた私の鼻孔に、給仕の運ぶ焼きたてアップルパイの香ばしい匂いが届いた。
たっぷりバターとさわやかなシナモンの香りに、思わず唾液が滲み出る。
パイ全般が好物のわたしだけど、中でもアップルパイは格別である。焼きたてサクサクとろとろの美味しさは異常だ。
食べたい。
ファンサとかどうでもいい。
殿下よりアップルパイと仲良くしたい。
「……ちょっとハリー、どこ見てるのよ」
「アップルパイ……」
「はあ?」
「だって王家のお抱えパティシエが作るアップルパイなんて、この機を逃したらいつ食べられるか分からないもの……!」
「バカ! あとで食べられるんだから、今だけは食い気よりこっちに専念しなさい! 不敬になるわよ!」
「ううっ……」
正論過ぎて返す言葉もない。
アップルパイと殿下を天秤にかけるのはさすがにダメだったか。
オアズケを食らったわたしは、せめてもの慰めにと、近くにいたメイドに林檎の果実水を頼んだ。
氷魔法で冷えていて、とても美味しい。
「それ、私にももらえるかな?」
「ぶっ」
あり得ないほど近くであり得ない声が聞こえて、不覚にも噎せた。メイドは涼しい顔で殿下に果実水を注いだゴブレットを渡している。
幸い、令嬢としてあるまじき失態には気付かれていないようだ。わたしはゴブレットを置いて、何事も無かった澄まし顔でカーテシーをした。
「どうぞ、顔を上げて」
殿下の声は建国祭の日に奏でるハンドベルの音のようだ。耳馴染みが良くて、聴き入ってしまう声。
F分の一ゆらぎって、こんな音なのかしら。
「お目にかかれて光栄です、殿下。わたくし……」
「もしかして、君がハリエット嬢?」
「え」
よそ行きの顔のまま固まる。
いかにもわたしがハリエットだが、殿下よ、なぜ知っている。
「……はい。ハリエット・グラニースミスと申します」
動揺なんておくびにも出さずに微笑むわたしは今、完璧な淑女であった。褒めて、誰か褒め倒して。
「ごめん、驚かせてしまったよね。お父上からあなたの話を聞いたことがあるので、つい嬉しくて」
何してくれてんの、お父様!
職場で家族自慢とかホントやめて!?
「噂通り、本当に美しい御令嬢だね。彼が自慢したくなる気持ちも分かるよ」
「……恐縮です」
社交辞令と分かっていてもストレートに褒められると顔が熱くなってしまう。誰か褒めろとは思ったけど、そうじゃない、そうじゃないのよ殿下。
無性別のはずなのに、溢れんばかりのこの王子様感はなんなんだ……
「あの……ですが、よくわたくしだとお分かりになりましたね」
「一度だけ写真を見せてもらったことがあるから」
「…………さようでございますか」
やだ……わたしの個人情報、ダダ漏れ……?
帰ったら父をシメよう。そうしよう。
「で、殿下。こちらはわたくしの友人ですのっ」
「うぇっ!?」
腕を引っ張って無理矢理舞台に引きずり出すと、突然水を向けられたロッテが目を白黒させた。ごめんロッテ、死なば諸共だ! わたしひとり注目を浴びるなんて耐えられない!
「……アルティオール侯爵家のシャルロット・オレンジと申します、殿下。お会い出来て光栄です」
さすが侯爵令嬢、隙のない見事なカーテシーだ。一瞬、ものすごく物騒な目で睨まれて肝が冷えたので、あったかいアップルティーが欲しいです。
まずい、まずいぞ。ただ挨拶だけで終わるはずだったのに、予想外に殿下がわたしを褒めてしまったものだから、親衛隊の中から不穏な気配が立ち昇っている。
主に女子。
少女たちの目に、分かりやすく嫉妬の炎が揺らめいているのだ。
ただの社交辞令じゃん! そのくらい見逃してよ!
ファンサはもう十分だからそろそろ次へ行って欲しいのに、殿下はなぜかわたしの前から動かない。にこやかにアレコレ質問されて、無視するわけにもいかないためハイとイイエでわたしも返す。針のむしろだ……
逃げ出したいわたしの気持ちなど知らないアマーリ様は、こちらを覗き込むように首を傾げて、年相応の子どもらしい笑みを見せた。
「ねえハリエット、ギルには意地悪されてない?」
「えっ、ギル様?!」
「ギル様?」
「いえ、あの、殿下は兄をご存知なのですか?」
あぶない、うっかり心の声が漏れた。妹に様付けで呼ばせてるなんて誤解を殿下に与えたら、将来的に兄の出世に響きかねない。と言うか、普通にアブナイ兄貴のレッテルを貼られてしまう。
そんなことになったら、間違いなくわたしは兄に吹き飛ばされるだろう。あの人の風魔法はエグいのだ。
「彼とは何度か会ったことがあるよ。兄上と親しいんだ。知らなかった?」
――マジですか、ギル様。
「……兄とは、あまり話さないものですから……」
お兄様ってば、いつの間に第一王子と交流深めてんのよ! みんなも、そう言うことはちゃんと教えて?! 我が家のホウレンソウどうなってんの!?
「そうなの?」
「はい。お忙しい方ですので……」
ホントは落ちこぼれだから嫌われてるだけですけどね。
「そう。でもねハリエット、ギルバートって――」
「殿下」
それまで不気味なほど沈黙を保っていた親衛隊の中から、見るからにリーダー格と思しき黒髪の少女が殿下の右腕にスッと触れた。
だ、大胆……ッ!
殿下の会話を遮るとか、許可なく王族に触れるとか、見てるこっちの心臓が止まりそうだよ!
「ハリエット様ばかりずるいです。わたくしたちともお話ししてくれないと、いやですわ」
甘えるような口調と声は可愛らしいけど、なんだかねっとりしてて、蛇みたいだなってゾッとする。
彼女の言葉に、後ろに控えていた取り巻きたちも口々に賛同した。その中には当然、わたしの“お友達”もいる。
腰巾着集団め、新しいパラサイト先を見つけて強気だな……
無礼講にかこつけて、先ほどから好き勝手に振舞ってるのはこのグループだと思われる。
注意していた子もいたんだろうけど、この様子だと家柄を盾にやり込められたのかもしれない。
……関わりたくないなあ。
この人、絶対めんどくさい人だよ。
わたしと同年代の公爵令嬢は一人しかいないし、今日の会には参加していないので、彼女が侯爵以下の家格なのは分かる。問題は、向こうがわたしを公爵家の令嬢だと認識していないことだ。
さっきの自己紹介、端折っちゃったからなあ……
元“お友達”の一号、二号、三号も、その辺ちゃんと教えておきなさいよ。あんたたちのボスでしょうが。
アマーリ様は、なんだか人形のような表情で黙って成り行きを見つめていた。役目を放棄しているわけではない、何かを見定めるような双眸にギクリとする。
この空気を察している子は半々と言ったところだ。ここで判断を間違えると、容赦なく振るい落とされてしまうのだろう。
「……殿下。わたくしのことはどうかお気になさらず、皆さまと御歓談なさってくださいませ」
とにかく、いつまでも騒ぎの中心にいたくはない。
その集団を連れて早くどこかに行ってくれと言う気持ちをオブラートでぐるぐる巻きにして伝える。
「ハリエット」
右手に持ったゴブレットを黒髪の彼女に預けて、殿下はその手でわたしの髪を撫でた。
その仕草は、とても八歳児とは思えない色気に満ちていて、ドギマギした。
「またいつか、ゆっくりお話しようね」
なんだかこのやり取り、ついさっきもありませんでしたか?
「……ひゃい」
噛んだ。
ロッテが、「こいつ、噛んだな」って顔で見てくる。
……見てんじゃないわよ。
殿下はファンサに戻って行き、残されたわたしの目の前には――とても殿方には見せられない形相をした黒髪の御令嬢が立っていらっしゃった。
彼女の手には、殿下の預けたゴブレットがある。
結局、殿下はひとくちも飲まれなかった。美味しいのにもったいないなあ、なんて呑気に考えていたら、
「あなた、調子に乗るんじゃないわよ」
と、お約束の台詞とともに果実水を顔にぶっかけられた。
噓みたい……
また自虐ネタが潤っちゃう……