第2話 異世界人神谷真琴の事情①
人間万事塞翁が馬とはよく言ったものだと思う。世の中何が起こるか分かったものではない。
神谷真琴は地方の県立高校に通う、ただの高校二年生だった。秘めたる特別な才能があったわけでも、何か一心に情熱を捧げるものがあったわけでもない。平凡な高校生。
寝ぼけ眼をこすりながら朝起きて、「遅刻、遅刻」と言いながら学校へ向けてせっせと自転車をこぐ。退屈な授業と、友人たちと送るそれなりに楽しい休み時間を終えたら、さっさと家に帰ってアニメやマンガを深夜まで見て眠りにつく。そんなありふれた日々を送る少年だった。
真琴は周りにアニメとマンガが好きと言わない、いわゆる隠れオタクだった。だからアニメやマンガをリアルで語れる友達はいなかったが、それなりに充実した日々だったと思う。それに真琴は自分のことを結構イケてる外見だと思っていたから、同じオタクでもデブで臭い野郎たちとわざわざ話をする気にもならなかった。
あんな奴らと同類に思われたらどうするというのか。真琴はリア充隠れオタクでいたかった。
学校では外見のいい友人たちを中身のない会話をして、家に帰れば二次元の女の子に恋をする毎日。真琴の中の女子の基準が二次元のそれだったから、学校の女子と付き合ったりすることもなかった。しかし真琴にしてみれば、言うことを聞かない三次元の女子よりも、妄想し放題の二次元女子の方がはるかに魅力的だった。
そんな探せばどこにでもありそうな真琴の日常が終わりを告げたのは、雨の強い、梅雨の日の学校の帰りだった。
雨が降っているから自転車は使えない。片道徒歩三十分はかかる道を、内心文句を言いながら歩いていた真琴は、目の前に雨合羽を着てフラフラと歩く小さな女の子を見つけた。
どうしてこんな日に外を出歩いているのか。
自然と真琴の視線は少女の方へ向く。そこで真琴は信じられないものを見た。突然少女の体が傾き、道路の方へ飛び出したのだ。
「ちょっ……!」
真琴はとっさに少女の方へ手を伸ばした。身を乗り出して伸ばしたその手は少女の肩を確かに掴み、力任せに歩道に引き戻したことで少女は事なきを得た。
これだけなら美談だったであろう。平凡な少年の勇敢な行動が一人の少女を救った。特別ありふれているわけではないが、かといって珍しくもない、それだけの話。
少女を引き換えに真琴が車道に出ることがなければ。
「あっ……」
少女の代わりに真琴が車道に出る。今日は雨で見通しが悪い。最期に少女の驚きの表情が視界に入った。ああ良かった。あの子は無事だ。そして鳴り響くクラクションの音。体をバラバラにする強い衝撃。
この日、神谷真琴はトラックに轢かれて死んだ。
*** ***
*** ***
……はずだった。
「あれ?」
気がつくと一面真っ白な空間の中にいた。真琴は状況が理解できずにしばし呆然とする。
「これって」
『気づかれましたか?』
耳からではなく、頭に直接響いてくるような声。周囲に視線を向けると、いつの間にか目の前に目をつぶった金髪の女性が立っていた。
とにかく綺麗な女性である。足首まで長い金の髪に古代ギリシャ風な純白の衣服。肌は白磁のように滑らかで、人間味が感じられない。そしてその人間味のなさを助長するように、彼女の背中には大きな純白の翼が生えていた。
「は、羽?」
『まだ困惑しているようですね。待ちますのでごゆっくり』
女性の言葉には何か逆らいがたいものがあった。真琴は何度も深呼吸をして平静を取り戻す。それから一度大きく頷いて女性に問うた。
「あの、ここは」
『ここは死後の世界。神谷真琴さん。貴方は残念ながら亡くなりました』
「え?」
『ご心痛お察しします。ですが受け入れてください。貴方は死んだのです。しかしご安心ください。幸運なことに貴女には二度目のチャンスがあります』
「二度目……?」
『はい』
立て続けに死んだだの、二度目があるだの言われてパニックになりそうになる真琴に、慈母の表情を浮かべて彼女は頷く。
「ということは、貴女はもしかして女神様ですか?」
『そう呼ぶ方がいることは認めます』
それから女神は真琴に色んなことを教えてくれた。まず人は死んだら二度目なんてない。記憶も魂も漂白されて、まっさらな新しい人間として別の世界に生き直すのだそうだ。人なら人に、犬なら犬に。世界は無数にある。その世界にしかいない珍しい生命体だった場合、違う世界の似たような生物に転生するのだそうだ。
そうやって魂は色んな世界を漂流するのだという。
そんな中で真琴は本当に運が良かったのだ。現代日本では魔法という概念こそないが、実は見つかっていないだけで存在するものらしい。特定の時間、特定の人物に特定の環境。あらゆる状況が上手く噛み合った状態で特定の行動をする。真琴が死んだ時、それが上手く噛み合っていた。その結果がこれだ。
『私としても久しぶりの魔法行使者です。意図したものではないにしても、何らかの特典……ボーナスを与えたいと思います』
「ボーナスですか?」
『はい。貴方はこれから貴方のまま、新たな世界で生き直すことになります。それが貴方の偶然為した魔法の結果であり、私としてもその魔法の摂理は守りたい』
「……俺が元々いた世界帰ることはもうできないんですよね?」
『はい。辛い言い方になるかもしれませんが、もうあの世界に貴方の居場所はありません。あの魔法は貴方という存在を元いた世界から抹消することを対価に、新しい世界にそのままの姿と記憶を持ち越すことを可能とするものですから』
「そう、ですか」
もう誰も真琴のことは覚えていないし、真琴が存在した痕跡もない。全てが改変され、真琴は初めからいないものとして齟齬なく回り始めた。
だが真琴が助けた少女は助かったままだという。真琴が今までの人生で積み上げてきた家族や友人との関係。多少なりともしてきた努力の数々が泡沫と化したこと、そして真琴が助けた少女が生きたままであることに、彼は少しだけ悲しくて嬉しかった。
「それで、ボーナスについてですが、どんなものが?」
『そうですね。ボーナスといっても無制限に与えられるわけではありません。その恩恵をできるだけたくさん受け取りたいというのなら、あなたのいた世界と縁のある、この世界がお薦めします』
そう言うと女神は手の平をかざし、一つの世界を映して見せた。中世風の建物に豊かな自然。そこに住む人達に獣人やエルフなどは見えないが、いかにもファンタジー世界の住人な髪色と顔だちをしている。そして色とりどりの光の玉が、幻想的に空を舞っていた。
「きれいなところですね。ここがいいです。ここにします」
『そうですか。ではこの世界の説明を』
女神曰く。この世界は魔法と呼ばれるものこそないが、魔法とよく似た精霊術と呼ばれるもの発達しているらしい。空間にただよう六種類の精霊に詠唱と陣を用いることで意味を成し、奇跡を体現することができるそうだ。
また曰く付きの魔剣が世界に一四一四本存在しているとか。呪いを受けることを対価に力を得られる妖刀があるとか。文明レベル自体は真琴が元々いた日本とは比べ物にならないだろうが、いかにも異世界転生と言った風で、否応なく気持ちが高揚させられる。
『神亡き世界ではありますが、それは特に問題ないでしょう』
ぼそりと、女神様はそんなことも言っていた。
『では恩恵ですがそうですね。まずは死なないための強靭な肉体と精霊への親和性を与えましょう。この世界の人間としては最高峰のものです。それと大罪、美徳の魔剣への適性も。これだけでも十分強いと思いますよ』
「ほ、本当ですか!?」
どうやら本当に異世界転生に必要不可欠なチート能力までくれるらしい。致せりつくせりでこの女神様は本当に女神である。
「あ、あの。まだいいですか……?」
『どうぞ』
恐る恐る他にもチート能力を得られないか聞いてみると、快い返事が得られた。
「俺、前から魔眼って奴に憧れてて、その」
『魔眼……視覚に関係した能力のことですね。問題ありません。この世界に概念の存在しないものなら不可能ですが、魔眼でしたらあるので大丈夫です。どんなものが?』
「何でもいいです! 魔眼とつくものであればなんでも!」
『は、はぁ』
鼻息を荒くする真琴に女神もやや引け腰だ。だが夢だったのだ。かっこいいのだ。魔眼は。
『……あまり強力なものだと他の恩恵を阻害しますね。なら精霊の視認化とそれに伴う精霊の直接操作の魔眼にしましょう。それならさっき与えた恩恵と似ていて反発もほとんどありませんし』
「反発?」
その少し恐ろし気な響きに真琴が反応する。だが女神は微笑みを浮かべて「心配しなくてもいい」と言った。
『反発といっても使い過ぎると目に負担が来て、痛みや出血が来るくらいのものです。大した反発ではありませんよ』
体の血が沸騰したり、骨がねじ曲がったりするわけではないと恐ろしいことをさらりと口にする。
「な、ならいいんですけど」
真琴は苦笑しながら答えた。自分の頬が引きつっているのが分かった。後は異世界の常識やお金などなどを教えてもらい、ひとしきり転生の準備を終えて、いざ異世界へという段になって女神は真琴に一振りの剣を渡してきた。
『貴方に与えた恩恵を最大限使おうとすれば、いずれ武器の方が耐えられなくなるでしょう。大罪、美徳の魔剣ならまだしもではありますがね。ですからこれも』
龍剣“オーノウ オン ウーイラ”。真琴が今から転生する世界の裏側に存在していた龍を剣としてそのまま作り直したものらしい。真琴の成長に伴って成長する剣で、それゆえに真琴がどれほど強くなってもその力に耐えきれるという優れものだそうだ。
「何から何までありがとうございます」
『いえ。私も久しぶりに他者と話ができて楽しかったですよ。ではよい二度目の人生を』
そんな経緯を経て、真琴は異世界に召喚されたのであった。
真琴が救った女の子は物語に一切関与しません。