第14話 名状しがたい何か
農家の老人から不穏な話を聞いた真琴は急ぎ家に戻り、装備を整え森へ向かった。
イラに話すかどうかは結局最後まで悩んだが、話さなかった。作業室にこもったイラに話しかけらればまた違ったかもしれないが、話しかけられなかったから話さなかった。子どもらしい自立心の発露だ。
今まで話には聞いていたが入ったことのない森へ入る。村の北にある森は広大かつ鬱蒼としていて、しかしどこか規則正しい。いかにも“森の王”がいると言った様を呈していた。
足音を殺し、気配を殺して森の中を進む。クランメンバーとの行動であれば、弓使いが斥候に出てくれていたが、今そんなことをしてくれる仲間はいない。真琴は一人で異常の正体を突き止めないといけない。
女神からのチート能力は方向感覚も含まれる。真琴の方向感覚は正確だが、念のためにナイフで通った場所に傷をつけておく。そうやって迷わないようにしながら、真琴は森の中を進んでいった。
「何だよこれおかしすぎんだろ」
森の中に入ったのが昼過ぎほど。それから一時間は経っただろうか。日が沈むまでまだまだ時間はあるが、真琴はすでに明白な異常に気づいていた。
森の中からあまりにも生命の気配がしない。耳を澄ませても聞こえてくるのは風が木々の葉っぱを撫でる音だけ。魔獣はおろか、獣一匹いる気配がしない。
「つっ……おっさんはこれ見て変に思わなかったのかよ」
嫌な汗が背中を伝う。この場にいないイラに対して悪態をつくが、無駄なことだ。そして気づく。イラは戦闘のプロであっても、冒険者のプロではない。実際イラは、自分は冒険者ではないと言っていたではないか。
やはり自分一人で飛び出して正解だった。この場において自分はプロでイラは素人。こんな異常事態の中、素人を連れていけるわけがない。
元凶は奥に潜む。真琴は緊張したまま森の奥へ進んでいった。
見つけた。
森を進み始めて数時間。やや彷徨いながらも、真琴はようやく森の中にいる魔獣を見つけた。だがその様子がおかしい。
農家の老人が言っていたように、見つけたのは大きな猿型の魔獣ウォーモンキー。ウォーモンキーは背丈が二メートルほどある、茶色い毛並みをしたゴリラにも似た魔獣だ。性格は好戦的。知能があまり高くないため人を見たら真っ直ぐ襲ってくる。
力が強く、一度組み付かれると危険な反面、その動きは読みやすく慣れてしまえば下位の冒険者でも手傷を負うことなく簡単に仕留めることができる魔獣だ。
通常のウォーモンキーは臨戦態勢に入っていない時は、家族でまとまり車座になって座り込んでいるのが常。しかし目の前にいるウォーモンキーは一匹だけで、しかも右へ左へとフラフラしながら歩いている。
そしてなにより異常なのが頭部についている粘液状の物質だろう。漆黒のような美しい黒とは程遠い、汚らしい黒を塗りたくったような物質。それがウォーモンキーの頭部から首の後ろにかけて、まるでヤドリキのように肉に食い込み根を張っている。
そんな訳の分からないものに寄生され、焦点のあっていない真赤な目でフラフラしているウォーモンキーは、分かりやすく異形で、まず気持ち悪かった。
どうする? 真琴は自問自答する。ウォーモンキー自体は討伐銅相当の魔獣だ。つまり銅級の冒険者一人か、下位冒険者パーティで戦っても勝てる程度の相手。そして銅級冒険者とは、丁度無色の精霊を操作できるようになるくらいの等級。群れていないのならば、まず恐れるに足らない相手。
だが目の前の異形が真琴の足を鈍らせる。冒険者稼業は命あってもものぐさ。「冒険」者とは言っても、極力冒険しないことを求められることが多い。
真琴に与えられた選択肢は二つ。ウォーモンキーに攻撃を仕掛けるか、ウォーモンキーを迂回して進むか。安全策を考えればとるべきは後者。だがこの様子では今迂回したところでまた同じ状態のウォーモンキーに出くわす可能性が高い。とすればまだ太陽が昇っているうちに冒険してみるのもありか。
真琴はウォーモンキーに悟られないように深く息を吐き、精神を集中する。
『相手に不意打ちをしたいなら、第一に相手に気づかれないことに気を配りなさい』
イラにさんざん叩きのめされた時に何度も言われて刻まれた言葉が蘇る。生物は目や耳で知覚できていなくとも相手を察することができる。これはつまり視線や意識には、不確かなれど実体があることに他ならない。だから視線をウォーモンキーではなく、ウォーモンキーのいる空間一帯に向け、意識も空を漂うような漠然としたものへ。
『次に不意打ちを始めたら常に視界から外れた場所にいなさい。相手はどんな知覚手段をもっているかはわかりません。ですが人が認識において最も頼っているのは視覚です。だから常に相手の死角にいるのです』
木の影から飛び出した途端、背を向けていたはずのウォーモンキーがグリンと振り向いた。溶けて今にも零れ落ちそうな目で敵を探るが、そこにはすでに真琴の姿はない。
「ァ?」
『そして最後。相手が間合いに入ったら、反撃される前に急所を突きなさい。成功するにせよ、失敗するにせよ、当たれば自分が優位に戦いを進められます』
飛び出してすぐ真横にスライドして死角に入った真琴は最高速度でウォーモンキーの懐に入る。そこで真琴とウォーモンキーの目があった。
赤く充血し、白濁した瞳。鋭い牙の生えている口からはだらしなく唾が垂れ落ち、首が不自然に曲がっている。
「ァア……」
否応なしに理解させられる。このウォーモンキーは明らかに正気ではない。動揺する心とは対照的に真琴の手は機械的に動き、ウォーモンキーの首を薙ぎ飛ばした。
夕暮れの光を反射して龍剣の刃が美しく輝く。その曇りなき刀身に跳ね飛ばされたウォーモンキーの頭部が映った。
そしてその頭部が急激に膨れ上がる。
「ぅっ!」
『失敗したかもと思ったらひとまず距離を取りなさい。得体の知れない相手と迂闊に距離を詰めていると、手痛い目に合います』
真琴は全力で後ろに下がった。ウォーモンキーの頭部はいきなり膨れ上がったかと思うと、粘液状の物質が真琴のいた場所に飛んでいった。先ほどまで寄生されていた頭部は栄養を全て持っていかれたようで、ミイラのように干からびた。
どす黒い物体は地面に這いつくばったかと思うと、地面に沈みこんで消えてしまった。ズプリ、ズプリと沈んでいき、最後に少しだけ黒い跡が残る。
「何だよこれ」
今まで体験したことのない気味の悪さに、真琴は鳥肌が立つことを抑えられなかった。あれに触れていればどうなった?それはあのウォーモンキーが証明しているだろう。
真琴は自分の頭部に黒い物質がへばりつき、ゾンビのように森の中を彷徨い歩く姿を幻視した。
「ひ、引こう」
相手の正体こそ分からなかったが、その一端はつかめた。あのスライムのような物体。それが元凶だ。もし森の魔獣全てがあれに寄生されているとしたら真琴一人では手に負えない。これは冒険者ギルドに依頼を出して対処すべき案件だ。
「ァァ」
「え?」
もうすぐ日も落ちる。急いで村に帰ろうとした真琴の耳は異常なものを聞き取った。
「ァア、ァァァァ」
「アアアアアアアア」
「ァアァアァアァアァアァアァア」
「アー、ア、アァアー」
「アッア、アァァ」
真琴を取り囲むように聞こえる。喘ぎ声のような、うめき声のような何か。意志も自我も感じないのに、確かに生き物が発しているその声はあまりにおぞましく、また冒涜的だった。
「う、っぷ。これは」
長く聞いていると気が狂いそうなその音の奔流は、段々と近づいてくるように感じた。
逃げなければ。
真琴は血相を変えてその場から走り出した。
だがもう遅い。逃げた先には先ほどのウォーモンキーと同じような状態の魔獣の群れがいた。種類も大きさもバラバラな魔獣たちは一様に脳のある部分にどす黒いスライムを乗せて、仲間を殺した真琴を殺そうと、あるいは仲間にしようと追いかけてくる。
「く、くるな!」
真琴は血の気の引いた顔で龍剣を振るう。しかしおぞましいことにスライムに寄生された魔獣たちの身体能力は生前のそれと何ら変わりなく、しかもそれぞれの意識はつながっているようで、一匹に見つかるとすぐさま他の魔獣も寄ってきてしまう。
逃げて、逃げて、逃げて。ようやくどの魔獣にも見つかっていない状態になった時にはもう日は落ち、自分がどこにいるかも分からなくなっていた。
「はっ、はっ」
一手のミスも許されない状況に、真琴の精神はやすりで削ったように疲弊した。視界は眩み、肩で息をする。
「くそっ! くそっ!何だよあのスライム。あんなん今まで見たことも聞いたこともねぇぞ!」
そもそも他の魔獣に寄生する魔獣がいること自体初めて知った。いやまずもってあれは魔獣なのだろうか。魔獣というよりも化け物とか、未確認生命体とでも言うべきものではないのか。
あれほどショッキングな生物がいるなら聞いたこともないのはおかしい。ならばあれは新種の魔獣か何かか?だとすれば討伐方法は?どうすればあれは滅びる?
空転する思考の中で真琴は必死になって答えを探す。しかし現実は真琴に考える時間さえ与えてくれない。
「テ……リィ。リ……リ」
鼻孔をつく、刺激的で腐敗した悪臭が辺りに漂った。




