第???話 無垢な記憶の欠片 地獄の門が開いた時 薄明の丘での邂逅
本話にはグロテスクかつ、痛みを伴う描写かつ、性的な描写を連想させるもの(直接的表現はありません)かつ、胸糞展開があります。ご了承ください。
またこの話はイラの過去編となります。
「ねぇイラ。私たちもう、十六歳だね」
「そうだな」
夜の闇に包まれた村を、月明りが優しく照らす。青年は、小高い丘に座って月を眺めていた。
平凡な顔立ち。背は高すぎず、低すぎず、夏だというのに青年は薄いローブを上から羽織っていた。ローブの切れ目から見える体格は華奢を通り越して貧弱だ。黒茶色の髪に鳶色の目をした彼は、隣に座る少女にぶっきらぼうに答える。
「何が言いたいんだよ。ヘルミナ」
「ふふっ。何だと思う?」
少女は青年の態度に小さく笑い、青年と同じく夜空を眺めた。
「当ててみてよ」
普段は強気な少女が、今はずいぶんと悪戯っぽい表情を浮かべている。青年は不機嫌そうな顔でチラリと少女を見て、また夜空に視線を戻した。
「知るかよ。んなこと。言いたいことがあるならさっさと言え」
夏のぬるい風が二人を撫でる。遠くに見える森からは、獣の遠吠えが聞こえてきた。
夜もそろそろ深い。曲りなりにも若い女を深夜まで連れ回すことはあまりよろしくない。例えそれが、少女の側から誘ってきたことだとしてもだ。
「イラさ。今とっても失礼なこと考えたでしょ。多分、とってもじじ臭いこと」
青年の思考を読み取ったか、少女は頬を膨らませる。
「気のせいだろ。ってか何も言うことがないなら帰るぞ」
「なんでそうなるのよ!」
青年の無神経な一言にカチンと来たらしい。少女は立ち上がり、月明りを背に座りこんだ青年を見下ろした。
月明りの影になって、少女の表情は見えない。
「私がどれだけ勇気をもって夜に誘ったと思ってるの!」
「知るかっつってんだろんなもん!」
青年も立ち上がり、少女と向かい合った。青年は忙しいのだ。面倒を見ている子どもたちの課題を考えないといけないし、村長の補佐の仕事や、自分自身の精霊術の研鑽もしないといけない。
青年の生活は、時間を切り詰め、睡眠時間を極限まで減らすことでどうにか成立している。少女の気まぐれやわがままに付き合う余裕はないのだ。
「大体お前はいつも……」
少女の煮え切らない態度に腹を立てた青年が怒りを込めて言葉を重ねようとした時、青年の言葉が止まった。
「ヘルミナ。お前、なんで泣いてんだよ」
「な、泣いてなんかない!」
月明かりを背負った少女の目からは涙がにじんでいた。少女は顔をしかめて泣き顔を隠そうとしているが、上手くいかない。青年は慌てた様子で、ローブの裾を使って少女の涙をぬぐう。
「今日のヘルミナなんか変だぞ。突然怒ったり、泣いたり、いったいどうして……」
「全部イラが悪いんだ! 私はこんなにイラが好きなのに! もう結婚だってしてもいい歳なのに、なんで何もしてくれないの! 何も言ってくれないの!」
「あぁっ!?」
少女の言葉に青年はひどく動揺する。少女は涙をぬぐう青年の手を振り払って、青年の元から去った。追いかけようとしたが、青年の足は遅い。追いつけないことはわかりきっていた。
だから、追いかけなかった。
青年は伸ばした手を下ろす。少女は今も泣いているだろうか。それとももう怒りに変わってしまったのだろうか。
できれば、怒りに変わってくれていればと思う。
「何もしてくれないだって? だってそれは」
少女のことが大切だから、触れられない。青年は今しなければいけないことで手一杯だ。今以上のことが、少女のことまで背負えるほどに、青年の手は大きくない。
子どもたちと、村のことと、精霊術と。その上に少女のことを背負おうとしても、背負いきれずに彼女を不幸にするだけだ。
青年は二年前に会った、あの王子とは違うのだ。
「どうして何も言ってくれないの……か。でもな。俺だってお前のことが、ヘルミナのことが大事なんだよ」
大事すぎて、言葉に言い表せないから言わないだけだ……違う。それは嘘だ。単に気恥ずかしいだけ。
青年は少女に、「愛してる」も、「ありがとう」すら言ったことがない。
少女は青年にとっての救いだった。少女は青年にとっての希望だった。父が死に、母が壊れ、自らに課した重圧に押しつぶされそうになった時、手を差し伸べてくれたのは少女だった。
少女と青年が幼い時に交わした約束は、今でも青年の胸に宿って、強く輝いている。
「でも、ちゃんと言わないとダメなんだよな」
青年がどれほど少女のことを大事に思っているかを。「愛している」も「ありがとう」も、ちゃんと伝えないとダメなのだ。
「明日。ヘルミナにきちんと言おう。それで俺は」
青年の手の平は小さくて、全てを背負えるほどの大きさはない。けれど、少女となら、少女を無理に背負おうと思う必要はないのだと思う。
青年は少女のことを誰よりも信頼していて、少女もまた、青年のことを誰よりも信頼してくれているはずだから。
「言わないと。でもきっとすごく怒られるんだろうな」
青年は月明りの下で苦笑した。しかしどこか嬉しそうだ。
「今日はもう寝よう」
『駄目です。眠ってはいけない』
明日に希望を求めて、青年は眠りにつく。絶望がすぐ目前に迫っているとも知らずに、青年は眠る。
『やめろ。今やらないと、そうでないと自分は、俺は!』
後悔なんてしないように。
『一生後悔することになる』
*** ***
*** ***
地獄の門が開いた。青年の目の前に広がる光景は、その一言に尽きた。
「一つゲームをしよう。くだらない。つまらない。でも人の命を懸けた最高にクールなゲームだ」
「ヘルミナ!」
空は黒々とした汚らしい煙が覆い、村が燃えていた。緑で美しかったはずの大地は血肉で汚れ、でもその血肉は皆青年のよく知る人たちだ。
青年の眼前にいるのはへらへらと笑う男。黒一色の装束を身にまとい、手に大鎌を背負った異形。
そして、男の近くには、男の部下によって、地面に体を押し付けられたヘルミナの姿があった。
「イラ! 逃げて!」
「あ~美しいなぁ。この美しさはどう表現すればいいんだろう。うん。俺には表現できない。言葉では表現できないから、行動で、クールなアートで示すとしよう」
「お、お前は」
青年の言葉に怒気が混じる。その様子を男はよくできた劇でも見るようにしていた。
「お前、多分精霊術師でしょ? 王国の精霊術はすごいって聞くよ? なら教えてくれよ。帝国の“死神”に、さ。ねぇ? 王国の精霊術師さん」
「あああああああっ!!!」
「イラっ!!」
青年は怒りに身を任せて走り出す。力任せの腰の入っていない拳を、男は軽々と避けた。
「あれ? もしかして俺の勘違い? お前、精霊術師じゃないの。だとするとうわ~恥ずかしいわぁ……なぁ~んてね。俺の目には、お前が精霊術師だということが見えている。それもそこそこ優秀な精霊術が使えるでしょ。おい! あれ持ってこい」
男はよく回る舌で部下に指示を出す。青年の前に連れてこられた人物を見て、青年の動きが止まった。
「村長……?」
「イラ、か」
「おと、さん」
青年と少女の絶望。連れてこられたのは少女の父親で村の村長。だが、その姿はひどい有様だった。
拷問でも受けたのだろう。首を掴まれて乱雑に持ってこられた村長の髪は抜け落ち、爪ははがれ、手足はぐみゃぐみゃに折れ曲がっていた。両目は潰され、今もなおぽたぽたと血を流し続けている。
「さぁ、お前。そこに転がってるお嬢ちゃんもこんな目に合わせたくないのなら、精霊術を使って戦うんだ。俺を楽しませてくれよ? じゃないと、もっとクールなことになるぜ」
「あ、あ……ぁ」
「ばか、もの。なぜ、逃げなかった」
村長はしゃべることもつらいはずなのに、イラの心配をしていた。それを男は感心した様子で眺めている。
「お前だけは、イラだけは逃げられたはずだろうに」
「すごいね。本当、立派なじいさんだったよ。こんなに拷問しても、何一つ吐かないんだもん。王国ってすごいね。こんな辺境に、こんなとんでもメンタルがいるんだもん。だから、あなたに敬意を表してさ」
楽に殺してあげる。
男の部下が村長を放り投げる。村長の体が宙に舞った。青年の目は、空を舞う村長に釘付けになる。振り回される大鎌。そして、村長の体は男の大鎌によってバラバラにされた。
「あぁ」
「おとうさぁぁぁーーん!!」
青年の忘我の絶望。少女の絶叫。降りしきる血の雨の下で、男は哄笑を上げた。
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!! これが戦争! これぞ戦争! 血の雨降り、血肉舞い散る極上の戦場だ! 愉しいねぇ愉しいねぇ。これだから! 戦争は止められない!!」
「……お前は」
「ん?」
青年のつぶやきに、男は愉悦を込めた目で青年を見る。青年は憎悪のこもった目で男をにらみつけた。
「お前は絶対に殺す! オーノウ エタナウ!」
「ひょう! いい精霊術だ!」
青年は赤の精霊に干渉。燃え盛る炎が顕現する。男は炎に飲まれた瞬間、大鎌で炎を振り払う。
その間に、青年はもう一つの精霊術を編んだ。
「ウレアノト アリ アタナ アン ウクム エタナウ!」
「固有術式!? 最高じゃん!」
男の顔が愉悦に満ちる。青年が生み出したのは拳大の水晶。それはどこまでも透明で、透き通った光を放つ。美しく、広がる地獄には不釣り合いだ。
『これは……自分のもう使えない精霊術』
「死んでしまえぇぇぇぇ!!」
「た~のしっ」
男は放たれた青年の水晶を鎌で払いのける。鎌が触れた瞬間、水晶に黒い濁りが生じた。
『一度死ぬ前の俺の心の在り方。無様な生き方』
「俺は帝国軍七天将が一角“死神”! さぁ、最高にクールでアートな殺し合いを始めようぜ!!」
『美しいだけの、無力な俺の精霊術』
*
「悪くはなかったよ。ありがとう」
「あっ……あぐ」
数分後、青年は地面を這いつくばっていた。男は全身に擦り傷を作って立っている。男の顔は満足そうで、どこか不満そうだった。
「惜しいなぁ。いろいろと噛みあってない。これでもしお前が……君が騎士だったなら、もっと動けたなら、今よりはるか上のステージに立てただろうに。本当に惜しいよ。そうすれば、俺ももっと楽しめたのに。……あぁそうだ」
男は名案を思い付いたと指を鳴らす。
『許せない。こいつだけは……絶対に許さない』
運び込まれる子どもたち。倒れ伏した青年に、子どもたちの希望が断たれる。男が喜色を浮かべて聞かせる青年の努力も、子どもたちの心を丹念に折るだけの作業だ。
そして本当の地獄が始まった。
子どもの悲鳴。用意される大鎌。地面に叩きつけられる。鎌が振りあげられる。振り下ろされる。上がる血しぶき少女の悲鳴。青年の絶叫。子どもたちの恐慌。鉄さびの匂い。遠い体温。
精霊術が編まれた。広がるのは穢れた泥沼。普段の理知的な姿はどこへ。少年の体は沈んでいった。持ち上げられる。沈められる。上がる。沈む。次第に弱くなる抵抗。静まり返る地獄。ケタケタ笑う“死神”の声。沈んで、上がって、沈んで、沈んだ。死んだ。消える泥沼。消えた少年。
再び広がる悲鳴。誰もが声を上げない。これは現実ではない。これは現実ではない。否定しても変わらぬ事実。現実。四肢が三肢に、二肢に、一肢に、そして零。人間がだるまに、壊れた体。擦り切れた悲鳴。弱々しい声が途絶える。
地獄の光景を見たくなかろう。ぷちゅりと、可愛らしい音が聞こえる。二つあったものは一つに。柔らかな眼球が、つぶれて、落ちた。ビー玉みたいにきれいだと言われた目は、砕けずつぶれた。澄んだ液体が大地を汚く汚す。ゆっくりと入り込む指先。ミチミチと背筋の凍りつく音。零れ落ちた宝石。合わせた手でつぶされる宝石。入り込む細い針。薄い膜を破り、柔らかで未来にあふれた脳を貫き、生命が途絶える。誰よりも静かに、けれどおぞましく。
ベロリと、肌色が赤に染まった。ナイフは踊る。柔らかな少年の悲鳴。誰もが涙を流す。誰かが沈黙する。途絶えた命の満ちる中に希望なんてない。べりべりと、心と体を守るものが剥がれ落ちていく。薄く、ゆっくりと広がる血だまり。嗤う。嗤う。嗤う。死を想う者が嗤う。悲鳴は独唱。痛みにあえぎ、やめてと嘆く。しかし終わらない絶望。可愛らしい少年は醜い人体模型に。異形に変わって息絶えた。
油の匂い。もう嫌だ。どうしてこんなものを見せられる。泣き叫ぶ少年は木に縛り付けられる。荒い縄からにじんだ血。吐いた。この吐しゃ物ですら、美しく見えるここはどこだ。地獄だ。こここそが地獄だ。熱い。火が燃えている。足元からゆっくりと、黒ずみ、炭化し、まだ生きている。生きていることは苦痛だ。でもいいだろう。もう死ねるのだから。生きていることをやめれば、これ以上の苦しみはないのだから。燃え尽きて、消え去って、灰だけが残ればもう苦しくないよ。
けれど青年の地獄は終わらない。終わってはくれなかった。体にのしかかる重しは外れない。青年は見ているだけだ。何もできずにただ見ているだけだった。連れてこられた魔獣。初めて見るおぞましい化け物。何だよそれは。それで何を。
『 』
あ、あぁやめろ、やめてくれ。服が破ける。目が合う。きれいな目だ。ずっと恋焦がれていた。大切だった。守りたいと思っていた。一糸まとわぬ姿。下卑た視線。狂った哄笑。嘲笑。入り込む異物。響き渡る悲鳴は地獄に響く。甘美な調べになって狂う壊れる前後する運動きれいな目が濁る口から聞こえるのは救いを求める声青年の伸ばした手届かない決して届かない距離すぐ近くで愛した者が犯される侵されて気が狂う救いを乞う笑う少女が嗤う狂って笑う死に満ちて死を知って死んで狂って壊れて刹那の快楽に溺れた方がずっと楽だけれど青年は溺れられない刹那の快楽すらなく壊れていく少女を見ていることしかできないケタケタゲラゲラクスクスカラカラ嗤う笑う哂うわらうワラウ擦り切れる精神砕けて歪んで歪む魂血が広がっていくあれは毒だ少女の目にはもう青年は映っていない仮初の快楽を与える異形しか映っていないわらうしょうじょはわらうせいねんはなくなくなくしょうじょはわらってせいねんはなくこわれるふたりでくるうきえるとけるなくなるなくなったつらぬかれたそれはよわよわしくわらうあははあははははははははははぁああくわれたしょうじょはわらいながらくわれたよどんだめよどんだめよどんだめ……あ
「『ヘルミナは魔獣に犯されて殺された』」
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気づけば、イラの目からは尽きることない涙がこぼれていた。胸に宿ったこの感情をなんと表現すればいいのだろう。愛。憎悪。後悔。絶望。その全てが合わさって、イラの心はぐちゃぐちゃだ。
さっきまで広がっていたのは過去。イラ・クリストルクの、“透徹の暴霊”の原典だ。
「ここはどこですか?」
「薄明。僕の一番好きな時間だ」
イラは見知らぬ丘のそばに立っていた。黒ずんだ不毛の大地と遠くに見える海。空は朝と夜、あるいは夜と朝の狭間に合って、玄妙な色を見せている。
イラは丘の上に座る人影を見つけた。
「あなたは?」
「ここは君の魂の深淵だよ。そこに、僕の心象風景を落とし込んだんだ」
人影は立ち上がり、振り返った。黒のロングコートを着た小柄な男。くせっけのある茶色の髪。垂れた目は優し気で、さえない風貌。しかし彼はこの世界で確かな存在感を示している。
青年は、ゆっくりとイラへ向かって歩を進めた。
「そして僕の名前はカリウス。僕は君のことをよく知っているけれど、君は僕のことを知らないだろうね」
イラはカリウスの雰囲気にのまれていた。語りかけてくる言葉は穏やかなのに、言葉の一つ一つが途方もなく重い。
「魂の深淵、ですか。なら自分はどうしてここに?」
イラはカリウスに歩み寄りながら言葉を重ねる。
「君が死にかけたからさ。イラ・クリストルクは死にかけた。いいや、肉体は死んでしまったんだろうね。だから君の意識が、魂に呼ばれてここに来た。僕が呼んだんだ」
カリウスはゆっくりと腰に差した刀を抜いた。朱い光を発するその刀は、カリウスの手に馴染み、彼の存在感をますます強めている。
イラも虚空から六色細剣を取り出した。ここではイラの持ちうる力を全て使うことができる。
イラには、カリウスが何をしたいのかが分かった。
「さぁ。君の肉体が生を取り戻すまでまだまだ時間がかかる。その間に、僕は君にできるだけのことを教えよう」
「どうしてそこまで?」
「君と僕はよく似ているから、かな」
カリウスは微笑を浮かべる。刀を構え、くっと、腰をわずかに落とした。
「心の在り方も、身につけた技も。僕も才能がなかったからね。願いのために努力をしたんだ。きっとセラの“理合掌握”よりも使いやすいと思うな。“虚鏡双輪”。君にその断片を伝えるよ」
「ありがとうございます」
過ぎた言葉は必要ない。カリウスは走り出した。イラも走り出した。二人の動きは鏡合わせ。いや、カリウスがイラの動きに合わせているのだ。
薄明の空の下、二人の戦士は剣を交わす。それは何よりも雄弁に、熱烈に想いを発していた。
四章開始の時期についてはまだ未定ですが、これからの予定について、活動報告を上げております。もしよろしければ、そちらをご覧ください。
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