第0話 とある復讐者の絶望(1/2)
曇天の空の下、薄暗い戦場には凄惨な光景が広がっていた。あちらこちらで血しぶきが舞い、見るも無残な手足のちぎれた人の死体が散らばっている。死にたくないと兵士が叫び、逃げるんじゃないと上官が怒号を飛ばす。その上官も次の瞬間には頭を吹き飛ばされて絶命した。
命乞いをする者がいれば、怒りや憎しみにかられて殺す者がいる。剣と剣がぶつかり合い、火花が散って血染めに濡れる。炎や水、土塊に突風が荒れ狂い、そのたびに誰かの命が失われる。そのことに歓喜を覚え、気が触れて絶頂する者すらいた。
陰鬱で昏い大地の上で、人間たちは争うことを止めない。
ここは大国である帝国と、隣接する小国のオウルファクト王国が争う戦場だ。帝国が王国に侵略を始めてもう五年。国力で大きく勝る帝国が圧勝すると周囲から思われていたが、現在の戦況は五分。死傷者だけで言えば帝国が格段に多い。
長きに渡る戦争は互いを疲弊させ、大陸最強国家の一つである帝国すら戦争続行は困難だった。小国たる王国は言わずもがなだ。しかし悲劇が悲劇を生む泥沼の戦況は互いの矛を収めるタイミングを失わせていた。
そんな戦争末期の戦場でひときわ混迷と悲鳴と絶叫が響き渡る一角がある。帝国軍本陣。帝国の体内とも言うべきところに一人の王国兵が食らいついていた。
右を見ても、左を見ても、前も後ろも帝国兵しかいない。どう考えても数の差で押し潰されて、その命を終わらせて当然のちっぽけな存在だ。しかし悲鳴と絶叫を上げるのは帝国兵ばかり。この王国兵はたった一人で数百もの帝国兵を相手にして、しかも圧倒していた。
「嫌、嫌だ。死にたくない……!」
失禁し、泣き叫ぶ帝国兵を縦に裂く。帝国兵は二つに分かれ、真っ赤な血をまき散らしながら絶命した。切り裂くのは奇怪な形の細剣だ。剣の柄に銃の引金をつけ、鍔の代わりにシリンダー。カードリッジに赤、青、緑、黄、白、黒。六色の精霊結晶が埋めこんでいる。細長くしなやかな聖銀の刀身には、揺らぐ風の刃が覆っていた。
くすんだ銀髪と藍と緑の濁った虹彩異色以外には取り立てて特徴のない、凡庸な顔立ちの男だ。しかし彼は無数の死と殺戮を積み重ねることによって、その存在を帝国に知らしめていた。
「死ねぇ!」
仲間を殺された怒りに任せ、また別の帝国兵が男に手をかざす。「ウサボト オウ イライ オン オオノウ」帝国兵の詠唱に従い、彼の周りに赤の精霊が集まり炎の槍が作られる。それが仲間を殺した男を殺すために放たれる。
だが男はそれにチラリと目を向けただけだった。ガチャンとシリンダーが回転する。風の刃が消える。代わりに現れたのは岩の盾。帝国兵の精霊術はその盾を撃ち抜くことができずに霧散した。
「アイーウ エタナウ」
お粗末な精霊術を見せた帝国兵に見舞われるのは、死を体現する火炎。帝国兵よりも短い詠唱で、ずっと強力な「火矢」が射られる。それに射られた帝国兵は胸に焼け焦げた大穴を作った。
その死を見やることなく再びシリンダーが回転。男を中心に黒い靄が発せられた。それを浴びた帝国兵は途端に狂乱する。負の感情を増幅させる黒の精霊術。正気を失った帝国兵は這いつくばり、自らを傷つけ始めた。
男の操るこの奇怪な武器は帝国を滅ぼすために男自身が作った殺戮兵器。効率よく帝国兵を殺すための武器だ。
今は正気を失っている帝国兵だが、じきに正気を取り戻す。その前にと男は詠唱を始めた。
「ウレアノト アリ ネグネク ウテツオト エソボロウ イタグ」
唱えるのはたった六節の詠唱。しかしこの精霊術は男が開発した奥の手の一つだ。詠唱を大幅に短縮してなお、二六節もある呪文をさらに圧縮した致死の精霊術。男だけが使える上級精霊術を超えた固有術式。
周囲に存在する全ての黄の精霊が男に集まり、それに引かれるように他の色の精霊も集まる。それらが男の描く陣の形に従い、流れ、固定し、物質位階に干渉する。
現れたのは六色に輝く結晶。その結晶は陰惨な戦場には似つかわしくない美しい輝きを放っていた。
しかしその美しい結晶が生み出すのはただ一つの死。
拳大の無数の結晶達が男から放たれて、帝国兵を穿つ。黒の精霊の力で正気を失った帝国兵にそれを避ける術はなかった。
“穿つ透徹の礫”
男の代名詞とも言うべき精霊術だ。
「くひひっ!」
穿たれた穴から真赤な血が飛び散り、男に降り注ぐ。それを浴びて初めて男が嗤った。帝国兵を殺せて楽しくて仕方がない、もっと殺したいと。たった一度の精霊術で、男の周囲一帯には何十もの帝国兵の死体が積み重なった。
幸運にも、あるいは不幸か、男の精霊術の射程から免れることができた帝国兵たちは、その嗤みを見て戦慄する。次、殺されるのは自分だ。それを思って足がすくむ。男の顔がまだ生きている一人の帝国兵の方へ向いた。
「ひっ!」
その帝国兵が短く悲鳴を上げて腰を抜かす。だが彼は殺されなかった。男が見ているのは帝国兵のもっと奥。失禁した兵士の奥にいる人物だった。
「お前が王国の“透徹”か?」
「……」
すくむ帝国兵の後ろから現れたのは武骨な鎧を着た男。彼が現れると同時に帝国兵たちに蔓延していた恐怖心が薄らぐ。この男と胸につけた徽章の存在が帝国兵たちを安堵させた。
「帝国軍少将ヤイバ・ルーンロイドだ。名乗れよ」
ヤイバの言葉に男――“透徹”が答える様子はない。“透徹”の目はヤイバの持つ大剣に向けられているだけでヤイバの顔を見ようともしない。
「“傲慢”の数打ちか……」
初めて“透徹”が声を発した。ヤイバの言葉などまるで聞いていない、自分の中だけで完結していると分かる言葉。それに気づいたヤイバが舌打ちをする。
「俺のことよりもこの剣が好みか。ならばその口、開かせてくれる!」
対話の余地なし。元よりするつもりもない。額に青筋を浮かせてヤイバが”透徹”に斬りかかった。十歩の距離を一歩で詰め、轟音と共に大剣を振り下ろす。それを“透徹”はフワリと後ろに飛んで大剣を避けた。
「甘い!!」
だが逃げた“透徹”をヤイバは追い詰める。彼の大剣はますます荒ぶり、“透徹”を切り殺そうとする。その嵐の如き斬撃の全てを“透徹”は何ということもないように紙一重でかわす。かわし続ける。彼の左目が忙しなくギョロギョロと蠢く。その動きはヤイバの剣の深奥まで読み取ろうとしているようだった。
気味が悪い。
“透徹”と対峙しながらヤイバは考える。目の前の男はそうと答えなかったが、持った奇怪な細剣と先ほどの結晶の精霊術が、彼こそ“黄の玉石”、“透徹の暴霊”であることを告げている。
帝国が圧勝すると思われたこの戦争。その予想を覆したのは帝国を上回る王国の精霊術優秀さと、埒外の実力を誇る化け物のような六人の精霊術士がいたからに他ならない。
数と装備の差がものをいう戦争を、個の力で覆した化け物たちだ。だがその中でも“透徹”は特に悪名高い。
曰く、戦争に最も参加し、現れた後には帝国軍人の死体しか残らない。
曰く、十人の帝国兵を殺すためなら百人の王国兵が死ぬことすら厭わない狂人。
帝国軍の中でも真っ先に殺すべきとされている男だ。
ヤイバと“透徹”は帝国軍兵士の死体を舞台に踊る。攻め手はヤイバ。守り手は“透徹”だ。“透徹”は先ほどまでの暴虐が嘘のように、気持ち悪いくらいに攻める気配がない。ひたすらにヤイバの剣を見切り、かわすだけだ。そして時折岩石で包まれた細剣でヤイバの大剣を受け流す。ただ“透徹”の動きは紛れもない達人のそれだ。
加勢もできず、見守る周囲の帝国兵は優勢に見えるヤイバの戦いに沸き立つ。だがヤイバはどうしても自分が優勢であるとは思えなかった。何か取り返しのつかないことをしているような、そんな考えに襲われて、額に嫌な汗が流れた。
「ぐおぉぉぉ!」
そんな考えを振りほどくように、ヤイバは気勢を上げて、大剣を肩に担ぐ。ヤイバの大剣は世界に一四一四本しかない“大罪”“美徳”の魔剣の数打ちの一つだ。銘は“傲慢”。能力は肉体の大幅な強化。
ヤイバは体内に存在する無色の精霊で肉体強化を施し、その上で“傲慢”の数打ちで二重に強化している。
膂力も速度も、ただ無色の精霊で強化しただけの人間よりもはるかに勝る。だというのに“透徹”はそんなヤイバの動きに当たり前についてくる。
それは“透徹”の無色の精霊の操作技術が、ヤイバより上回っていることに他ならない。ヤイバが“透徹”に勝っているのは鍛え上げた己の剣技のみで、それ以外の全てにおいて、彼は“透徹”に劣っている。
ヤイバは決着を焦り、己の秘技を繰り出す。担いだ大剣から放たれるのは防御不可能な三閃。一太刀で三つの斬撃を行うという条理を覆すもの。ヤイバが四十年の月日をかけてようやく習得できた彼の生涯そのものとも言える技。“飛燕三閃”だ。
「かぁっ!」
担いだ大剣を振り下ろす。上から、右斜め下から、左斜め下から、同時に大剣が“透徹”に迫る。どこへ行っても逃げ場のない致命的な攻撃。「とった!」ヤイバはそう思った。だが。
“飛燕三閃”を前にして“透徹”の取った行動はささいなものだった。パチンと指を鳴らした。それだけ。だがその瞬間、バキンと音がしてヤイバの足元がぬかるむ。踏ん張ることができなくなって、姿勢が崩れた。
「んなっ!」
“飛燕三閃”は奥義であるが故に事前の動作から斬撃を行うまで、非常にシビアな動作が求められる。つまり動きに遊びがない。わずかに姿勢やタイミングが狂っただけでも“飛燕三閃”の奇跡は消滅する。
なぜだ!奴は詠唱をしていない。だというのに、なぜ!
ヤイバの足元の地面は泥と化していた。“飛燕三閃”が失敗した原因。地面を泥にしたのは十中八九”透徹”の精霊術だろう。しかし“透徹”は詠唱していなかったし、する暇もなかった。
だというのに、なぜ。
「あっ……」
刹那の間にヤイバはその原因を思考し、突き止めた。ヤイバと“透徹”が戦う前に“透徹”がばらまいた結晶。それが依然として地面に転がっている。
まさか。あの結晶は見せかけの結晶ではなく、本物の精霊結晶だとでも言うのか。何年も時間をかけ、ゆっくりと育つはずの精霊結晶をあの男は瞬きの間に作ったとでも言うのか!
青の精霊結晶を作り、それを砕いて地面を泥にした。戦慄がヤイバをよぎる。言うのは簡単だが、実行するのは困難極まりない。帝国は“透徹”を警戒していたが、それでもまだ警戒と分析が足りていなかった。その間にも時は進む。ただの上段切りになったヤイバの大剣を”透徹”はたやすく横にかわした。
「ウレアノト アリ ネク ウテツオト」
かわしながら唱えられる四節の呪文。“透徹”は手に水晶でできた大剣を生み出した。何を意図してか、その大剣の意匠はヤイバのそれと全く同じだった。
“透徹”の持っていた細剣が消える。“透徹”は大剣を両手持ちして肩に担いだ。
「まさか」
「こうか」
吐息のような”透徹”の呟き。ヤイバは目を見開いて“透徹”の為したことを見た。
これは悪い夢だ。きっとそうに違いない。
肩に担いだ大剣を振り下ろす。だがそれはただの一閃に留まらない。
嘘だ。そんなことできるはずがない。
一閃にして三閃。ヤイバが修行の果てに習得した奥義。繰り出すのは“透徹”。
ありえない。ありえない。ありえない!
あっていいはずがない!!
飛燕三閃
「かっ……」
驚愕で体の硬直したヤイバは彼の奥義をその身で受けた。ヤイバ・ルーンロイドは己の奥義で殺された。己の四十年を否定されて殺された。バラバラになって死んだヤイバを眺めて水晶の大剣を消す。そして珍妙な細剣が再び彼の手に現れた。
その様子を帝国兵たちは呆然として眺めていた。無理もない。優勢だと思っていた自軍の少将が突然、一瞬のうちに殺されたのだから。“透徹”の行った常識外れの行為の全てを理解できなくとも、自軍の少将が殺された事実くらいは理解できる。
帝国軍が狂気に包まれかけたその時、帝国軍最奥から白い狼煙が三本、大きな音と共に打ち上げられた。休戦宣言の証。度重なる戦争の疲弊から帝国はついに王国から手を引くことを決意した。
これでもう殺されないで済む。帝国軍兵士の中に安心が満ちる。しかし。
「ウレアノト アリ ネグネク ウテツオト エソボロウ イタグ」
“透徹”は止まらなかった。気の緩んだ帝国軍兵士たちに精霊術の粋の尽くされた死の弾丸が襲い掛かる。戦争が終わった後の戦闘は固く禁じられている。だが“透徹”にとってそれは知ったことではなかった。
帝国を滅ぼす。そのためだけに“透徹”は生きているのだから。