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政府との交渉にもどった。
「犯人側は、まったく譲歩をするつもりはないと言っています」
『減額はできませんか?』
「できません」
『もう一度、交渉してください』
「囚人の引き渡しは、どうなっていますか?」
『そちらのほうも難しい』
電話の主には、こちらの緊迫感が伝わっていないようだった。
「それと、リーダーらしき人から、伝言を頼まれました。われわれは、箱も預かっていると……あの、箱ってなんのことですか?」
『あなたには関係のないことです』
キッパリと言われてしまった。
自分を巻き込んでおいて、関係ないとは酷い言いぐさだ。
『それについては、どうでもいいことですので、あなたは犯人たちと交渉を続けてください』
どこか冷めた口調になって、電話は切られた。
違和感がわきあがってきた。
なにかがおかしい。
いや、おかしいのは最初からだが、いまの電話対応で決定づけられた。
もし、政府側が本気で交渉しようとしているのなら、ある程度のことは教えてくれるだろう。たとえそれが国家機密に関わることなのだとしても、こういうわけで言えないのです、と説明があってもいいようなものだ。
それに、リーダーらしき人──と伝えても、そのことに興味すら抱いていないようだった。普通なら、どんな人物だったか質問されるものではないだろうか……。そもそも徳井と花房からは、テロリストの首謀者を『御影冷二』という男だと聞かされている。どう考慮しても、あの老婆ではない。
仲間は何人ぐらいいるのか、どのような武装なのか──そういう基本的なことも質問されていない。いかに会話を犯人側に聞かれているとはいえ、総理の安否以外、なにもこちらの状況を知ろうとしないのは、やはりおかしい。
そんな情報は必要としてない……。
なぜか?
(……)
不安がもたげた。
政府側に、交渉するつもりはない。
あくまで、時間稼ぎをしているだけ……。
「ん?」
仙道の耳に、外の物音が響いた。シュッという微かな音と、ドスッというなにかが倒れる響き。それが、二度。
〈リリリリン!〉
黒電話のベルで、また心臓が張り裂けそうになった。
すぐに出た。
「もしもし?」
『交渉人様、ご忠告申し上げます』
老婆からだった。
『交渉は決裂しました。あなた様も、命を狙われます。お気をつけてください』
それだけを告げられた。
あとには、ツー、ツー、と切られたことを証明する音が届く。
老婆たち犯人グループが命を狙っているというのに、なぜ忠告してくるのだ?
交渉決裂?
いや、まだそう結論づけるには早いはずだ……。
(なんだ、なにが起こってる?)
瞬間的に、イヤな予感が駆け抜けた。
仙道は、部屋の奥に後ずさりした。
シュッ、シュッ!
風を切る音と同時に、扉に穴が空いた。
咄嗟に、伏せた。
窓ガラスが割れる。
蹴破られるように、扉が開け放たれた。
重装備の兵士たちが顔を出していた。
扉の外で見張っていたテロリストたちではない。紺と黒の中間色の戦闘服だ。
彼らの銃器が、仙道を射抜いた。
背筋が凍えた。
殺される!
「う、撃たないで!」
「おまえは、だれだ!?」
兵士の一人に問われた。
「ぼ、ぼくは……交渉人です!」
「こっちに来い!」
わかってくれたのか、兵士は言った。
仙道は、立ち上がった。
たぶん、彼らは政府側の人間だ。交渉をするのではなく、急襲して、人質を救おうとしていたのだ。見張りの兵士も倒し、おそらくこの敷地内いたテロリストは一網打尽にしたはずだ。
ようやく、仙道はホッとため息をついた。
兵士と眼があった。バイザーのようなものがついたヘルメットをかぶっているのだが、それでもどういう心づもりをしているのかわかる。
ギョッとした。
その兵士には、戦闘姿勢を解こうとする意思がなかったのだ。
兵士──そもそも、彼らは何者だ!?
人質の救出には、警察の特殊部隊があたるはず……。
SITやSAT……名前ぐらいは聞いたことがある。
だが、彼らは問答無用で撃ってきた。たぶん見張りのテロリストたちは殺されている。もし扉の近くに立っていたら、自分も殺されていた……。
警察官が、そんな戦い方をするわけがない──。
仙道は、銃口から眼が離せなくなった。
大きな銃器も肩にかけているが、いまは拳銃を握っている。普通の銃身ではなく、長い筒上のものが余計に装着されていた。銃の知識などない仙道でも、それは見て取れた。もしかしたら、銃声がおかしかったのはそのためではないか。
その銃口が、いつ火を噴いてもおかしくはない。
スローモーションのように、時が狂った。
(どうする!?)
自問しても、答えまで行き着かない。
兵士の指に、力がみなぎったような気がした。
「うわあああああ!」
知らず、叫びをあげて、背後に飛び込んでいた。
ガラスは事前に割れていたが、それでも衝撃が身体を打った。残っていたガラスを砕きながら、仙道は外へダイブしていた。
* * *
「いま、突入させました」
辻本は対策室から席をはずし、人けのない場所で部下と話していた。
これまで交渉人の応対をしていた男だった。名は、坂巻。公安の人間だ。今回の裏工作に、徳井、花房とともに深く関与している。
「そうか」
辻本は、その行為を了承したが、戸惑いもあった。
人質の映像が突然消えたので、なにかしら起こったことは予感したのだが……。
「少し早いな」
「交渉人が、《箱》のことを口にしましたので」
「なに!?」
それは、どういうことだ?
テログループのだれかが交渉人にもらしたということになる。そんな予定はなかった。
「やはり、やつらもこちらの思惑を察してるようだな。《箱》を首尾よく使ってくれればいいが……」
「それと、これを」
そう言って、坂巻は折り畳まれたノートパソコンを開いた。
「仲間からの報告で、これを発見しました。正規のプロテクト以外に、二つが仕掛けられています」
「なぜそんなことを? 解析は?」
「いえ、いまのところは……ですが、わかったことがあります。ウイルスによって、プログラムが書き替えられているようです」
「どういうことだ?」
「ここからは、推測をふくみますが……どうやら、強制的にあれを使用するものだと」
「なんだと!?」
「どうしますか?」
「そんなものを仕掛けるなんて……予備のつもりか?」
辻本は、もちまえの思考力で状況を分析した。
これから、どう動くことが一番利益を生むのか……。
「……計画に修正を加える。これをやつらに使わせよう。《箱》は、こちらで回収する。そうだな……秘書官のほうを消せ」
坂巻は一瞬、驚いたように眼を見開いた。
「そうすれば、《箱》は使えない。そのほうが、われわれには好都合だ」
「ですが……やつらは本気でやるでしょうか?」
「迷いはあるのだろうな。まあ、本気でなかったら、われわれがやればいい」
「……」
「そのためにも、解析を急げ」
「わかりました」
* * *
三階からの落下は、思っていた以上に高さを感じた。まるで高層ビルからの浮遊感のように、下腹部をくすぐった。
数瞬後、身体の右側面全体が悲鳴をあげた。
腰から肩までが、苦痛に歪む。
ダメだ、このまま倒れるわけにはいかない!
なんとか、立ち上がった。こんなところで、花房の「しごき」の成果が出るなんて。
周囲に視線をはしらせた。
ほかの建物にも、兵士たちの姿があった。牛舎にも、あの寺院にも。
ちょうど寺院前で、あの信者らしき宗教家が射殺されたところだった。テロリストたちは、いろいろな場所で倒されていた。
殲滅しているのだ。一人残らず、皆殺し……仙道は、恐怖に支配された。
逃げなければ!
必死に逃走路をさがした。幸運にも、だれも仙道には気づいていない。
敷地を覆うように広がっている森のなかへ逃げるしかない。みつからずに、それができるだろうか!?
仙道は、走り出した。
三十メートルはある。
走り出してすぐに、スーツの袖を引っ張られた。
「うわっ!」
「こちらです」
あの老婆だった。
「え!?」
「こちらです、交渉人様」
老婆に手を引かれて、先へ進んだ。いったい、どこをめざしているのか……。
建物の陰に入り、またべつの陰へ。
兵士のすぐ近くを通過しても、どういうわけか発見されることはなかった。しだいにわかってきた。老婆の選ぶコースが巧みなのだ。まさしく、間隙を縫っていた。兵士たちの隙をつき、死角に隠れている。
「全速力で走って」
そして、さらに気がついた。老婆の声や、しゃべり方が変わっていた。
指示どおりに、仙道は全力で足を動かした。
森のなかで立ち止まったとき、あまりの息苦しさに眩暈がした。
「とりあえず、助かったみたいね」
仙道は、なんとか老婆に視線を合わせた。
「ハア、ハア……お婆さんじゃ……な、ないですね?」
そこでようやく、老婆の片腕にアタッシュケースが抱えられていることを知った。仙道の手を引いていたのとは逆の腕で、それを持って走っていたということだ。ただ走るだけでも大変なのに、両手を塞がれた高齢の女性が動ける距離ではなかった。
「そう」
老婆は、アタッシュケースを置くと、髪を触った。
取れた。かつらだったのだ。次いで、顔に指をかけた。
信じられなかった。こんなことができるのは、スパイ映画のなかだけだと思っていた。特殊メイクを剥がすように……いや、正真正銘、特殊メイクを剥がしているのだ。
曲がっていた腰も伸びており、さらされた素顔は、まだ二十代前半のものだった。見ようによっては、十代の少女にも思える。まさかリーダー格なのだから本当にそんな若くはないのだろうが、どちらにしろ年配の女性ではない。
「あなたは……何者なんですか!?」
仙道は驚きを隠すこともなく、声をあげた。
老婆のときよりは高くなっているが、それでも身長は低い。それも若く見えてしまう原因だ。
「わたしの名前は……そうね、フラミンゴなんてどうかしら」
女性は言った。正直、フラミンゴのイメージではなかった。
容姿は整っている。クラスの女生徒でいえば、立花鈴に匹敵するものがある。が、足の長さは感じない。
「なぜ、ぼくを助けたんですか?」
「だって、交渉人でしょ」
答えになっていなかった。こうなってしまっては、交渉もなにもないはずだ。
「あの襲撃者たち、だれだと思う?」
逆に問われた。
「警察官じゃありませんね……」
「では、なんだと思うの?」
「兵士……」
そう。まさしく戦場で殺し合う兵隊以外のなにものでもない。
あることが脳裏をよぎった。
「自衛隊……」
いまの総理は、国内のテロや騒乱にも自衛隊を積極的に使用できるよう法改正を進めようとしている。
充分、ありえることだ。
「で、でも……いくらなんでも……」
たとえそうだとしても、あんな簡単に人を殺すわけがない。
「まだまだね」
「え?」
「まだなにも見えていない」
老婆だった女性──フラミンゴが、なにを言わんとしているのか不明だった。
「自分の眼で確かめてみるしかないわね」
謎めいた言葉が、違和感をもたらした。こんなことを悠長に話しているこの女性の神経を疑った。
「あなたは……仲間が殺されてるのに、なんとも思わないんですか!?」
「みんな、覚悟の上よ」
「……え?」
「それだけの志で、みんなここにいたの」
意外なことを言われた。それではまるで、最初から死ぬ気だったようではないか。
「あの宗教家の方も?」
「あれはちがう。悪いけど、利用させてもらった。でも、彼も本望でしょ。教祖のために命をかけたんだから。まあ、鳳楽院のぼるの釈放なんて、不可能なんだけど」
フラミンゴの冷淡な言い方に、薄ら寒さを感じた。
「身代金は?」
「それも、どうでもよかった」
「じゃあ、どうしてあなたたちは、首相なんて誘拐したんですか!?」
「これよ、これ」
フラミンゴは、アタッシュケースを持ち上げた。銀行員が持っていそうなやつだ。
「お金が入ってるんですか?」
「わたしは、《箱》と言ったでしょ」
だから、その箱のなかに現金が入っているのでは……。
「これの中身は、知らないほうがいい。本当に殺されちゃうよ」
「……」
「はっきりいって、総理大臣なんかより、こっちのほうが重要なのよ。っていうか、首相なんて、いくらでも代わりがいるから」
「ぼくは、もう殺されかけました……」
「ふーん、いい面構えになったね。その体験が、《先生》を変えたのかもしれない」
(え?)
記憶のどこかに、その声があった。
「おっと」
フラミンゴが急になにかを察知したように、周囲へ耳を向ける。
「残念だけど、先生とはここでお別れよ」
だが仙道は、彼女の持っているアタッシュケースの把手をつかんだ。
「ちょ、ちょっと!」
「これは、ぼくが預かる!」
「なに言ってるの!?」
「あなたの目的も、これの正体もわからない……ほっておくわけにはいかない」
「殺すわよ」
しかし、彼女から恐怖は感じなかった。
うら若き女性だからではない。ただ者でないことは、よくわかっている。彼女がその気なら、宣言どおり秒殺されているだろう。
「……仕方ない。これは、預けておく。必ず取りにいくわ」
フラミンゴはアタッシュケースから手を放すと、森の奥へ進んでいった。その後ろ姿だけ、本物のフラミンゴのようだった。
「もうすぐ追手が来る。先生も逃げなさい。せいぜい、生き延びることね」
姿が見えなくなってから、その声だけが響いてきた。
「……」
やはり、なつかしい響きがあった。
先生──。
まるで、生徒から呼ばれたようだった。
* * *
BからAへ。
事の次第を報告されたし。
* * *
AからBへ、報告。
Aのみ生存。ほか、殉死。
追伸。
《凡庸なる男》、使えるかもしれない。
以上。