9
官邸対策室で動きがあった。
交渉人に指名されていた男性から連絡があり、犯人グループの要求が伝えられた。そして対策室の大型スクリーンに、ある映像が映し出された。
おお、と室内がどよめいた。
人質にとられている三人だった。
中央に総理大臣・真壁慎之助。右に秘書官。左に運転手。
その運転手はSPではない。SPは全員殺害されている。護衛の車を運転するのはSPだが、総理専用車を運転するのは官邸職員なのだ。つまり、総理を守り抜くことができるかもしれない人間は、画像のなかにはいないことになる。
「これは、インターネットで配信されている映像のようです」
辻本の言葉に、その他大勢は嘆きにも似た声をもらした。
「不特定多数に観られているのか!?」
「いいえ、いまのところは。パスワードを入力しなければ、観ることはできないようです。ですが、素人でも解析することは簡単なようで、いずれは……」
「な、なんとかならんのか!? このことを国民に知られるわけにはいかん!」
「ちなみに、この映像は『鳳心教』という名前のサイトから観られます」
「鳳心教……」
だれかのつぶやきが、鐘の余韻のように響いた。
「鳳楽院のぼるの釈放……すると、犯行グループは、信者か」
「その可能性が高いですね」
辻本の声は、あくまでも冷静だ。
『鳳心教』という名は、あまり一般的には知られていない。知られるまえに、ある場所へ隔離したからだ。
日本で最も有名なカルト教団は、例の事件を起こした『O教』だろう。まさしくテロ教団の顔をもっていた。だが鳳心教は、そういったものではない。
しかし、弾圧された。秘密裏に──。
教祖をはじめ、多くの幹部は逮捕された。
罪状は、でっち上げだった。未解決の殺人や放火の容疑で捕まえて、裁判でも有罪になっている。しかも、裁判は非公開でおこなわれている。いや、傍聴人もいるにはいたのだが、すべて仕込みだった。
当然のごとく、被告人たちは無罪を主張したのだが、裁判記録では、素直に犯行を認めたことになっている。被告が、鳳心教の信者、もしくは教祖であるということも、記されていない。
弁護士も買収されていたから、判決に異をとなえる者はいなかった。被告の声も、黙殺された。
国家は、鳳心教の存在を認めるわけにはいかなかったのだ。
過激なテロ行為を企てようとしていたわけでもなかったし、政府が恐れをなすほどの信徒数があったわけでもない。
なのに、弾圧された。
理由はもちろんのこと、表沙汰にはなっていない。
できない。
一国の首相が洗脳されたなど……。
当時の総理大臣は、まさしく与党の重鎮だった。いつ総理になってもおかしくないと言われつづけ、ついにその椅子を手に入れた。
が、そのときには、すでに鳳心教に心酔していた。マスコミに嗅ぎつけられるまえに、公安が気づいた。幸いなことだった。
政治家が宗教を信じていけないわけでは無論ない。しかし、それがカルトとなると話はちがってくる。『O教』のときは、警察官や自衛隊員にまで信徒が拡散し、結果いろいろな犯罪行為がおこなわれた。もし、総理大臣がテロ活動に巻き込まれたら……もっといえば、自ら起こそうとしたら……。この国を鳳心教の国につくりかえようともくろむかもれない。
公安主導で、その対策が練られることになった。
まず、首相には急病になってもらった。名目上のことではなく、本当に。
殺さないように、薬を盛った。
そのうえで、教団には消えてもらった。それが、でっちあげの逮捕劇だった。
急病となった総理には、頃合いを見計らって、いなくなってもらった。比喩ではない。口封こそが、完璧な秘密保全なのだ。
「鳳心教の残党か……」
だれかの言葉が、辻本の耳に届いた。ここにいる人間でも、その闇を知らない者も少なくはない。いまの発言者は、内情を知っているようだ。
辻本は、警備局長として部下に指示をあたえる立場だった。裏の隅々まで、事の顛末を知り尽くしている。
鳳心教は、その後──ある場所でしばらく生き長らえることになる。教祖や幹部たちは有罪になったあと、刑務所ではなく、ある隔離施設に収容された。その場所のことは、軽々しく口にできない。この国のなかでも、最重要項目に入る機密だからだ。
とにかく、その土地で布教されていった。
結果、その隔離地にいたすべての人間が信者になってしまい、そのことが鳳心教の息の根を止めることにつながったのだ。
「犯人からの要求は三つ──」
すでに、みなに知れ渡っていることを辻本は繰り返した。場の平静を取り戻すためだ。
一、鳳楽院のぼるの釈放。
二、身代金として三〇億を用意する。
三、犯人グループを海外逃亡させる。
「いずれも無理な注文だ」
室内の空気が、その思い一色になっていた。
テロには屈しない──それが、現行世界の常識だった。たとえ、それが一国の首相を人質にとられていたとしても同様だ。
「赤軍の時代じゃあるまいし、超法規的措置などありえない。身代金も法外すぎる」
「辻本さん、どうするつもりだ!?」
飛び火した話題を、辻本は、しかし涼しげな顔で受け流した。
「むこうも、これが通るとは思っていないでしょう。ここからが、交渉ですよ」
「本気だったとしたら!? 総理だけじゃないんだ……奪われてるのは」
「ご安心を。必ず事態を収拾させます」
やはり、自信ありげに辻本は語った。
* * *
あれから、一時間ほどが経過した。部屋には時計のたぐいは見当たらないので、あいかわらず時刻は不明だ。外からの陽光で、正午にはなっていないということしかわからない。
ベルが鳴った。黒電話の音は心臓をドキリとさせる刺々しさがある。子供のころ、それでよく驚いたことを思い出してしまった。
「もしもし?」
『官邸対策室です』
さきほどと同じ声だった。
「検討してもらえましたか?」
『はい……ですが、囚人の釈放は簡単ではありません。それに、身代金も多すぎます。犯人側に譲歩するようにお願いしてください』
予想どおりの言葉が並んだ。
「しかしですね……ぼくも人質の一人のようなものです。ぼくのほうから譲歩を引き出すのは不可能です」
『あなたは交渉人のはずです。犯人と交渉してください!』
口調が変わっていた。有無を言わさぬ強さが込められていた。これまでの態度は演技で、本質は、彼らに都合のいいよう、こちらを操りたいのだ。
最初、仙道は、犯人側との交渉だけをさせられるのだと考えていた。だが、そうではない。そうであると同時に、国家側との交渉もしなければならないのだ。
板挟み状態だ……仙道は、絶望的にそう思った。
「わかりました……できるだけ、やってみます……」
そう言うしかなかった。
電話を切ると、扉をノックした。見張りの兵士が扉を開け、顔を出す。
「あの……むこうからの要求を伝えたいんですけど……」
「要求を伝えるのは、こちらからだ」
兵士に冷たく言われた。
「で、でも……とにかく、リーダーの方と話がしたいんです!」
「……『9』だ」
それだけを口にして、扉は閉まった。
仙道は、席にもどった。ダイヤルの『9』に指を入れる。時計回りに動かした。
『なんですかな、交渉人様』
ワンコールで、あの老婆が出た。
「ぼくの話を聞いてください……身代金の三〇億というのは、多すぎます。もう少し現実的な金額を提示してくれませんか?」
『それはできませんな。充分に適正な金額だと考えております』
「で、ですが……先方は、多すぎると……」
『多いものですか。この国の内閣総理大臣が人質になっているんですよ。もっと高くてもいいとは思いませんか?』
困ったことを逆に問われた。
総理の身代金の適正価格など、仙道の知るところではない。
「で、では……囚人の釈放については、どうでしょうか!? 正直、これに応じるとは思えません。せめて、釈放か身代金か、どちらかにしぼったほうが……」
『どちらも下げるつもりはありませぬ』
「……」
仙道は言葉を失った。
犯人側の譲歩は期待できそうにない。かといって、国側の妥協も難しそうだ。だが、人質をとられているだけに、政府側が不利な状況となっていることはまちがいないだろう。
「どうあっても、要求を変えるつもりはないんですね?」
『そのとおりです』
「わかりました。もう一度、その旨をむこうに伝えます」
電話を切ろうとした。が、老婆のほうから会話を続けた。
『むこう様には、《箱》を預かっている、と伝えてもらえますかな』
「はい?」
『そう言えば、おわかりになると思いますよ──では』
今度こそ、切れた。
《箱》とは……?
なんの意味があるのだろう?
一つの懸念が浮かんだ。
人質だけではないのかもしれない……犯人グループは、まだなにか切り札をもっている。漠然とだが、仙道はそう感じた。
そういえば、徳井もなにか謎めいたことを言っていなかったか?
『首相の生き死にや、身代金の問題ではない』
この誘拐事件には、とてつもない裏がある──。
* * *
AからBへ、報告。
ともに命をかけたこと、うれしく思います。
一同、Bへ感謝します。
以上。