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 7

 顔のない少女。

 あれは、だれだったか……。

 教師になって、一年目に出会った生徒だった。もちろん、顔はある。だが、思い出せない。名前も……。

 新人のときだから、クラスを受け持っていたわけではない。副担任というポジションで、そのクラスの生徒たちと交流があった。実際に、なにかしたわけではなかった。そんな余裕もなかったし、器量もなかった。

 そういえば……その女生徒から、なにかを相談されたのだ。

 内容は思い出せずとも、自分に対応できることではなかった。それだけはわかる。だから、ろくなアドバイスもできなかったはずだ。

 あの顔のない女生徒は、そのあと、どうなったのだろう?

 それすら、思い出せない……。



 朝が重くおとずれた。

 寝袋のなかで、身体が固まっている。筋肉痛を通り越して、感覚がない。動かそうと思っても、動いてくれなかった。

 まだ睡眠を肉体は欲しているはずなのに、自力で眼を覚ましていた。時刻は、あいかわらずわからない。だが朝なのは、うっすらとした明るさで確認できる。

「なんだ、起きてたのか」

 どこか残念そうに、花房が言った。近づいていたことは、足音で知っていた。爆睡しているところを無理やり起こそうとしていたにちがいない。サディスティックな人間の考えることなど、推理するまでもなかった。

「さあ、そんなとこに入ってないで、さっさと準備しろ」

 あくまでも、花房の言葉は冷たい。

「仕事をしてもらうぞ。本番だ。訓練じゃない」

 こちらの意志など、完全無視。それに対して怒りを感じることは、時間と精神力の無駄だということを、もう理解している。

 仙道は身体に喝を入れて、なんとか寝袋から出た。そういえば着替えようとして、結局、ジャージのまま眠ったのだった。今度こそ、私服に着替えた。

 よれよれのスーツのはずだが、なんとなく上等な衣服に感じた。

 ネクタイも締めて、教師としてのユニフォームにもどった。

「おい、落ちたぞ」

 花房に指摘された。手鏡だった。昨夜、ジャージの胸ポケットに入れていたのだ。

 何度眼にしても、見覚えのないものだった。

「どうかしたか?」

「いえ」

 仙道は短く答えると、手鏡をジャケットの内ポケットに入れた。理由はなかったが、入っていた場所にもどしたことになる。

 背後に、だれかがやって来た。おそらく、徳井だろう。

「申し訳ないが、財布はこちらで没収させてもらった」

 徳井に振り返ることもなく、仙道は聞いていた。知っていたことだから、驚くこともなかった。

 もしや、と思ったので質問しようとした。

「あの鏡……」

「ん?」

 やめておいた。この男たちが手鏡を入れたわけではないだろう。まさか彼らが、身だしなみを気にしてくれたとは考えづらい。もし彼らの仕業だとしたら、発信器のようなものではないか。

 そうか。手鏡の形をした発信器か盗聴のための装置なのだ。

「いえ、なんでもありません」

「では、出発しましょうか。朝食は、移動しながらということで」

 車で一時間ほど移動した。

 降ろされたそこは、飛行場だった。すでにヘリコプターがプロペラを回転させて待っていた。だれかに指示されたわけではなかったが、それに乗るものだとすぐに思い至った。

 ヘリに乗るのは初めてのことだ。少し恐怖もあったが、いまさらこんなことぐらいで驚いてはいられない。

 仙道が乗り込むと、花房と徳井もそれに続いた。

 まもなく、離陸した。

 空からの眺めを満喫する余裕はなかった。しばらくしても、二人からはなにも言ってこない。ほかに乗っているのは、パイロット一人だけだ。

 けたたましいプロペラ音だけが、機内に響きわたっている。

「これから、どこへ?」

 たまらずに、仙道はしゃべりかけた。しかし、思いのほか声が通らない。爆音で掻き消されてしまうのだ。同じ言葉を大きく繰り返した。二人のどちらでもよかったし、パイロットでもよかった。だがその返事は、徳井の冷たい視線だけだった。

 二〇分ほど経っただろうか。急に、花房がニヤつきだした。

 すると、目隠しをされた。

「ちょ、ちょっと……」

「ここからは、場所を知られたくないんでな」

 真っ暗な視界のなか、さらに二〇分ほどが経過した。

「これを着てください」

 徳井がなにかを渡してきた。花房によって、それを装着される。背中にからったので、リュックサックのようなものだ。

 ……いや、それがなんなのか、すぐに予感した。

 パラシュート。

 まさか──信じられない想像が、脳内を埋めつくした。

「これから、犯人グループと交渉をしてもらいます」

「どこでですか……!?」

「この下です」

 次の瞬間、襟首をつかまれた。

 ドアが開け放たれたのか、凄まじい風が身体にぶち当たった。

「うわっ!」

「ヘヘ、あばよ! 生きてたら、またしごいてやるよ、先生」

 花房に耳元でそう囁かれると、強い力が背中にぶち当たった。足蹴にされたのだ。

 身体が回転する。

 この世とは思えない浮遊感。

 風圧で、目隠しが取れた。

 花房のニヤけ顔が遠のいていく。

 仙道は、大空に投げ出されていた!

 落ちていく、落ちていく。

 止まらない。落ちていく。

「うわああああああ!」

 絶叫すら、風の音に打ち消される。

 そうだ、パラシュートを開くんだ!

「ど、どこだ!?」

 しかし、どうやって開けばいいのかわからない。

 それらしいレバーやヒモは、どこにもなかった。

 死ぬ……もうダメだ!

 そう覚悟したとき、ふいに身体が持ち上がった。なにがおきたのか、すぐには理解できない。

 落下速度が、ゆるやかになっていた。パラシュートが、独りでに開いたのだ。

『どうだ、楽しいか?』

 右耳で声がした。

 なにか、イヤホンのようなものをつけている。

 そうか……花房が耳元で囁いたとき、つけられたのだろう。

『下を見ろ』

 そう言われても、素直に見る気持ちにはなれなかった。だが、勇気をふりしぼって下界を眺めた。まだ地上は、遙か彼方だ。

 パラシュートが開いている安堵感があるからか、思ったほど恐怖はなかった。それよりも、壮観な景色に心が踊っていた。そういえばパラシュートが開くまえ、身体が回転しているときに、なにかよく知っているものを見たような気がしたのだ。周囲をめぐらそうと視線を動かした。

『見てるか、下だ』

 花房の声に押されて、下へ瞳を落とす。

 地上には、いくつかの建物が見て取れた。森のなかに切り開かれた土地のようだ。細長い形をしている。森から森まで、短いところでは二〇〇メートルほどしかないが、細長い端から端までは、二キロほどあるだろうか。上空からだとさだかではないが……。

『ここはな、とある宗教団体の本部があったところだ。俺たちが潰した。いまでは廃墟となってる』

 たしか宗教団体の監視も、いまでは公安の重要な仕事になっていたはずだ。

『犯人が、ここに先生を「落とせ」と指定してきた』

 だとしても、本当に落とすなんて……。

 抗議したかったが、こちらからの声は届かないようだ。

 大地が、だんだんと近づいてくる。

 まるで地球に吸いよせられる隕石のような気分だった。それを拒みたくても、引力がそれを許してくれない。花房の交信もいつしかなくなり、ようやく地上に降り立った。想像していたよりも、衝撃が強かった。

 周囲にはだれもない。

 上から見えた建物からは、だいぶ離れた場所に着地していた。

 左右を森に挟まれている。上から見るよりも、極端に細長く切り開かれている土地のようだ。森から森までは、五〇メートルも離れていないかもしれない。樹木も高く、より狭さを感じた。

 とりあえず、仙道はパラシュートを脱いだ。空には、まだヘリコプターが飛んでいた。無事着地したことは、花房と徳井にも見えているはずだ。が、今後の指示などは一向に聞こえてこなかった。

 仕方なしに、仙道は歩き出した。建物のある付近をめざして。

 テロリストが潜んでいるのだとしても、むこうが自分を選んだのだから、いきなり殺されることはないだろう。

 歩いているうちに、肝心な疑問が浮かんできた。交渉人に指名された──ということだが、はたしてどういうふうに交渉すればいいのだろう?

 徳井たちは結局、そのことを教えてくれなかった。

 誘拐事件のときに交渉人がいることは、映画で観たことがある。その場合、交渉人は電話の前から動くことはない。電話だけで犯人と駆け引きをするのだ。

 いまのこの状況では、映画の知識はまったく役に立ちそうもなかった。

 なにをすればいいのか、どこへ向かうことが正解なのかもわからいまま、歩を進めていく。

 一番近くの建物まで、五〇〇メートルはきっただろうか。同じ距離ぐらいは歩いているから、一キロほどの地点に着地していたようだ。

 四〇〇メートル、三〇〇メートル。

 建物の規模や、外観などがだいぶわかるようになっていた。

 大きな工場のようだった。宗教団体の敷地だと教えられたが、そういう雰囲気の建物ではない。その先にも、建造物が見えていた。そちらは、マンションかアパートのようなたたずまいだ。それらの建物から、人が出てくるような素振りはなかった。

 二〇〇メートル。一五〇メートル。

 ふいに、ノイズのような音が聞こえた。右耳のイヤホンからだ。乱れていたのは一秒ほどで、すぐにクリアな声が響いてきた。

『どうやら、ここまでのようです』

 花房ではなく、徳井だった。

『それ以上、前進すると、妨害電波のために、こちらの声は聞こえなくなります』

 仙道の足は止まっていた。

 しかし、ノイズが走った。

 三秒ほど。

『──あとは、あなたしだいです。日本のために──』

 またノイズ。

『──それと、囲まれていま──』

 仙道は、心臓が飛び出しそうになった。

 どこに隠れていたのだろう。銃器を携えた迷彩服姿の人間が、七、八メートルの距離から、こちらに狙いをつけていた。まるで兵士だった。一人だけではない。左右、背後にも。

 四人によって、包囲されていた。

 反射的に、仙道は両手を上げた。

 音もなく接近されると、前後左右から身体をまさぐられる。

 真っ先に、右耳のイヤホンを奪われた。

 ほかにも武器など持っていないかと疑っているのか、執拗にボディチェックされた。

「来い!」

 それが終わると、一人から短く命令された。

 拒否できるわけもない。四つの銃口が、いつ火を噴くかわからないのだ。

 彼らの意のままに歩かされた。

 向かっているのは、一番近くの工場のような建物だった。

 間近で眼にすると、牛舎のように見受けられた。だが牛はおろか、人の姿もない。

 なかへ入り、奥へ進んだ。

 やはり牛舎だと思った。いくつものゲージが並び、そのいずれも空状態だった。牛舎を抜けると、再び外にもどっていた。ようは、牛舎のなかを突っ切っただけだ。

 向かっているのは、その先にある建物らしかった。さきほど見えていたアパートのような建造物ではない。

 なんだろう、あれは?

 モスクのような……。教会ともちがう。仏教や神道、それらの宗教を寄せ集めたような寺院だった。いや、そういう概念のものですらないのかもしれない。全体的に三角形をしている。ピラミッドにでも影響をうけているのだろうか。

 兵士たちは歩き出してから、だれ一人、声を発していなかった。得体の知れない建築物についても、当然、説明などしてくれるわけもない。

 入り口に、鳥居に似た門のようなものが建っている。それをくぐり、階段を昇ると、立派な朱色の扉が待ち構えていた。兵士の一人が、その重そうな扉を開け放つ。

 なかは暗い。仙道は緊張のあまり、足が動かなくなった。銃の先端が、背中をつついた。どうにか気力を奮い立たせて、なかへ入った。

 内部は、広い空間になっていた。学校の体育館ぐらいだろうか。周囲は暗いが、中央には光源がいくつか設置されていて、奥へ進めば進むほど明るくなっていた。

 兵士たちが一斉に敬礼した。とても統制がとれていると感じた。テロリストではなく、本当に正規兵なのではないかと思えてしまうほどだ。

 彼らが敬意をはらう人物を見て、仙道は眼を丸くした。

 小柄な老婆だったからだ。

 歳のころ、七〇から八〇ぐらい。腰は曲がり、肌には皺が深く刻まれている。正直、権威があるようにも、力があるようにも思えなかった。

 老婆の右斜め後方には、もう一人が立っていた。なにか法衣のようなものをまとっている男だった。年齢は三〇前後。ここが宗教団体の跡地だということを考慮すると、教祖か信者だろう。まだ若いところをみると、信者という線が濃厚のようだ。

「歓迎しますよ、交渉人様」

 老婆が口を開いた。声には張りがあって、歳相応とは思えない若々しさがあった。彼女は後ろをかえりみる。

 そこには、均等に並べられたパイプ椅子に座らされる三人の姿があった。そしてその三人の前には、三脚のようなものでなにかが固定されていた。カメラだろうか。どうやら、それで三人の様子を撮影しているようだ。

 三人のうち、真ん中に座っている男は、仙道も知っていた。目隠しで顔の全体が見えなくてもわかる。いや、日本人なら、みんな知っている。知らないのは、ニュースをまったく観ない子供ぐらいのものだ。

 内閣総理大臣、真壁慎之助。

 今年で六〇歳をむかえる日本のナンバーワンだ。歴代の総理としては、若いといえるだろう。だがその実力は、曲者ぞろいの与党をまとめあげている手腕からみても、相当なものがあるはずだ。右傾化の政策を推し進めていることから、国内でも評価に賛否が分かれ、アジア諸国からは当然のごとく警戒されている。ただし、アメリカとの関係だけは良好で、それが生命線となっていた。仙道は、もちろん「否」だ。

 仙道のいる位置からでは遠いため、細かなところまではハッキリしないが、肌艶が悪いような印象をうける。手足を縛られているようだから、総理に対してあるまじき酷いあつかいだ。いまの真壁慎之助からは、威厳を感じることなどできそうもなかった。

「ではさっそく、交渉とまいりましょうか」

 老婆が右手をかかげた。すると、兵士の一人がパイプ椅子を用意して、老婆と信者らしき男が座った。仙道のぶんも用意されている。

 素直に座っていいものか、しばし迷った。

「どうぞ、お座りください」

 仙道は腰を下ろした。いまでは銃口は向けられていないが、すぐ背後にいる兵士がその気になったら、いつでも射殺されてしまうだろう。

「まず、あなたのお名前は?」

 老婆に訊かれた。

 咄嗟に言葉が出てこなかった。あまりにも初歩的な質問だったからだ。彼らのほうが、自分を呼び寄せたというのに……。

 すべてのことが想定をはずれている。こうして交渉のテーブルについてしまったが、なにをどうすればいいのか、まったくわからない。そもそも、自分がただの高校教師だということを彼らは知っているのだろうか?

 もしかしたら……自分はまちがえで、ここへつれてこられたのではないだろうか!?

「お名前は?」

 繰り返された。

 なにかを言おうとしたが、声がかすれて、うまくしゃべれなかった。

「せ、仙道……です。仙道来蔵です」

「では、仙道さん──」

「あ、あの!」

 老婆の言葉をさえぎって、仙道は強く主張した。

「ぼ、ぼくは……ただの一般人ですよ!? 職業は、教師です! 交渉だとか、そんなことはなにもできません!」

「ですか、それでもやらなければならない。わたしたちは、テロリストですよ。交渉するか、死ぬか──です」

 老婆は、冷たく言った。

「そ、そんな……」

「こちらからの条件を伝えます」

「それは、私のほうからいいですか?」

 信者らしき男が口を挟んだ。さきほどから、杖を大事そうに持っている。

「わが教祖、鳳楽院のぼるを釈放すること」

 それは、ここにあった宗教団体の教祖だろうか?

 老婆が軽くため息のようなものを吐いた。どういう心境によるものなのか、仙道では推し量れない。

「この杖には、教祖の霊力がやどっている」

 そう言うと、座ったまま、その杖を床に突き刺した。

 大理石のような材質なのに、木製と思われる杖が深々と刺し貫いていた。

 本当に、霊力がやどっているかのようだ。

「一つ目、ということで」

 あくまでも老婆は冷静だった。そんなもの、なんの神秘でもないというように……。

「二つ目は、現金で三〇億」

 老婆が続けた。途方もない金額だった。

「三つ目は、われわれを無事、国外に逃がすこと──以上のことを日本政府と交渉してもらいます」

「ど、どうやって……」

 当然の疑問を仙道は口にした。

 一介の教師に、そんなことができるはずもない。

「いまの要求が一つでも達成できなかったら、あなた様には死んでもらいます」

 老婆の姿が、悪魔のそれに見えた。


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