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何度も、ぶっ倒されていた。
吐き気がする。身体のあちこちが痛い。
息があがり、意識も遠のいていた。
「ちがう! そうじゃない、こうだ」
また、倒された。
角刈りの男と相対していた。
これは、訓練という名の、イジメだ。仙道はそう思った。激しい運動など、学生時代にもあまりしてこなかったのだから、身体も精神も悲鳴をあげていた。
あれから──彼らの要求を受け入れてから、一旦、場所を移動した。廃校になった小学校だった。少子化の影響で日々、都心でも増えている。
だが、そこにいたのは、ほんの十分程度だった。
すぐに移動を再開した。
結局、行き着いた場所を見て、仙道は素直に驚いた。
また、もといた廃ホテルに舞い戻っていたからだ。
なんのための移動だったのかという疑問には、公安刑事たちはなにも答えてくれなかった。
仙道のしぼり出した解答は、攪乱だった。もしこの場所が知られていて、何者かに監視されているとすれば、一度出て、追手をまいたうえで、またここにもどる。まさか追手も、同じ場所に帰るとは考えないだろうから。
はたして、真相はどうなのだろう……。
真っ当な教師である仙道には、それを知る術もなければ、必要性もなかった。
「おい、もう降参か? 立て!」
見下ろす角刈りが、挑発している。
仙道は倒れたまま、起き上がれなかった。
体力は限界を超えていたし、気力もついてこなかった。
「ム、ムリです……」
ようやく、それだけを口にできた。
コンクリートの質感が、背中を冷やす。一応、ジャージに着替えさせられているから、服は汚れてもかまわない。いや、たとえ私服のままでも、そんなことは気にしていられなかっただろう。
角刈りと格闘の訓練をしているのだが、まったく上達する見込みはなかった。あたりまえだ。わずかの時間で、素人が強くなれるわけがない。
これこそが、無駄な努力だ。
「どうした、立て!」
角刈りの男は、花房、と名乗った。とても似合っていないと感じた。可憐さを基準にすれば、角刈りのほうが名前負けしているし、強さを基準にすれば、名前のほうが迫力負けしている。
細身の男は、徳井というらしい。なにも言わずに、この訓練を眺めている。
もう一人の警備員は、あれからすぐに姿を消したので、名前などはわからない。
「ほら、立てよ」
「だ、だからムリですって!」
あまりの理不尽さに、怒りがわいてきた。
上半身を起こして、花房に抗議した。
「まだ、動けるじゃないですか」
それまで黙っていた徳井に、そう言われた。
「覚えておいてください。人の最大の原動力は、怒りです」
仙道は、息を吐き出した。あきらめたように立ち上がる。彼らは、わざと怒らせているのだ。
「そうだ、いいぞ、先生」
揶揄するように、花房が声をかけた。
ますます、気分を逆撫でする。
「テロリストは、俺のようにやさしくねえぞ」
花房に抱え込まれたと思ったら、天地が引っ繰り返っていた。
倒され、投げられ──その流れが、何十回続いただろうか。
本当に、動けなくなった。
もう口もきけなかった。
「ま、こんなものでしょう」
意識を失う寸前、そんな徳井の声を耳にしたような気がした。
頬を叩かれる感覚で、眼を覚ました。
「起きろ! 訓練は、まだまだなんだ、先生よ」
つくづく人を不快にさせる男だと思った。この花房のような大人にだけはならないよう、生徒たちには教えていこうと決意した。
気を失っていた時間は、ほとんどなかったようだ。時計のない場所にいても、花房と徳井の様子から、なんとなくそうだとわかる。時刻を知りたくても、仙道は腕時計を身につける習慣がなかった。学校では、どの教室にも時計が設置されているし、必要なときは携帯を見る。遺物のような携帯でも、その機能だけはついていた。その肝心の携帯が折られてしまった。かといって、彼らに時刻を訊くのも癪にさる。
独身の仙道には、家に帰れないからといって、心配をかける相手はいない。いまが何時でも、かまうことはなかった。それよりも、この訓練から早く逃げ出したかった。
夜になっていることは、確かだろう。灯をつけなければ、建物内は真っ暗だ。どういう処置をほどこしているのか、この部屋の天井からは配線が伸び、それが裸電球につながっている。ぶら下がったそれだけが光源だった。が、それほど暗さは感じない。部屋の明るさよりも、自分のいまの境遇のほうが真っ暗だからだ。
いつまで、こんなことを続けるつもりなのか……。
たぶん明日、学校へは行けない。
彼らのことだから、なにか理由をつけて休みにする手筈をととのえているはずだ。狡猾であり、市民を好きなように操れると勘違いしている傲慢さもあわせもっている。きっとテロリストというのも、こんな人間ではないだろうか。破壊する側も、それを阻止する側も、結局は同じ穴の狢なのだ。
それから最低でも二時間は、訓練という名の「しごき」が続いた。
イヤな時間は長く感じるものだから、もっと短かったのかもしれないし、その逆もありえる。どちらにしろ、実際の経過時間を知ることは苦痛しか生まないと思った。だから知りたくはなかった。
「今日の訓練は、ここまでです」
徳井が言った。仙道は、それを仰向けに倒れたまま聞いていた。
「申し訳ないが、ホテルの部屋は用意できない。ここで寝てもらいます」
ドサッと、音がした。
確認するのも億劫だった。
「まあ、ここもホテルといえばホテルですが。寝袋です。着替えなども用意してないので、それで寝るか自分の服に着替えるかしてください」
言いたいことは山ほどあった。だが、言葉にしたくない。声を出したくない。動きたくない。
「われわれは、となりにいます」
そう言葉を残すと、徳井は去っていった。となりの部屋という意味なのか、となりの建物という意味なのかはわからなかった。花房もいない。気配は遠く離れ、すぐ近くにいないことだけは理解できた。しばらくすると、裸電球の光が消えた。
逃げようかとも考えた。
行動に移す気力がわかなかった。
あれだけしごいたのは、逃げられないようにするためなのかもしれない。
いつのまにか、眠ってしまったようだ。どれぐらい経ったのかは不明だが、まだ暗闇のなかだったので、それほど時間は経過していないはずだ。朝は、まだ遠い。
起き上がった。
(なんだっけ……)
そうだった。山ほど言いたいことがあるのだった。
ホテルの部屋は用意できないということだったが、それにしても、ここで眠らせることはないだろう。あまりにも酷すぎる。
それに、あれだけ運動させておいて、着替えも用意してくれないとは……。彼らにとって自分は、人間ではない。ただのモノだ。そう感じた。消耗品の命など、彼らにとっては取るに足らない存在なのだ。
彼らが、こちらの安全を心配してくれると考えたことはまちがいだった。こんな訓練など、意味はない。いや、あったとしても、それは仙道のためではない。彼らの都合だ。
大声で、いまの心境を叫んでやろうかと考えた。やめておいた。これから、どうなるのか想像もつかない。体力は温存しておいたほうがいい。
また眠ろう。そう決心してみたが、眼をつぶっても睡魔はやって来なかった。あれだけ汗をかいたのだから、全身が気持ち悪い。着替えたかった。私服に変えよう。そう思って、筋肉痛で悲鳴をあげる身体を動かした。
服は、部屋の隅で畳まれていた。広げられた新聞紙の上にのっているから、汚れることはない。新聞は最初からあったのだが、服は畳まなかったはずだ。たしか、脱いで無造作に置いた。畳んだのは、徳井だろうか? きっと親切心からではない。本能的に、仙道は思った。
なにか入っていないか、チェックを入れたのだ。携帯を壊したほどだから、外に連絡をとれるものや記録を残せるものを排除しようとした。
しかし、そんなものはないはずだ。
財布が入っているが、さすがにそれは没収しないだろう。
(いや……)
はたして、そうだろうか?
お金があれは、ここから逃亡して、タクシーやその他の交通機関を利用することができる。彼らなら、その可能性も潰しておくのではないか。
急いで仙道は、畳まれたスラックスのポケットをまさぐった。予感は的中していた。入っているはずの財布がない。いつも後ろの右ポケットに入れている。
念のため、ほかのポケットもさぐってみるが、いずれにも入っていない。ジャケットも確認してみたが、無駄だった。入っているのは、ハンカチだけだ。
「ん?」
財布ではないが、ジャケットの内ポケットに、なにか硬いものが入っているようだ。
その場所に物を入れる習慣のない仙道は、思い浮かべてみたものの、やはり記憶にはなかった。出してみると、それは鏡だった。長方形で、大きさは携帯電話ほどだ。
怪訝な顔をしている自分の姿が映し出されていた。灯は無いにも等しいが、かろうじて見える。
「いつ入れたっけ……」
つぶやいてみたが、答えには行き着かなかった。そのまま着替えようとしたが、再び眠気が襲ってきた。身体のメカニズムは不思議だ。
着替えるのをやめ、寝袋にもどった。鏡は持ったままだった。面倒だったので、ジャージの胸ポケットに仕舞い込んでしまった。
* * *
さすがに、みんなとは解散した。夜十時までは粘ったのだが、来蔵先生からの連絡はなかった。
美咲は眠るときも、携帯を手放さなかった。
いつかかってきてもいいように……。
明日、先生は来るだろうか?
不安ばかりがつのっていく。
せめて、こちらから連絡がつけばいいのだが……。
いまは、信じて待つしかない。
長い長い夜は過ぎてゆく──。
6
首相官邸──。
地下一階の危機管理センターに官邸対策室が設置されていた。重大な自然災害、テロ事件が発生した際に、内閣危機管理監が中心となって事態の収拾にあたるのだ。
辻本は、落ち着いた様子で席についていた。それが、ほかの人間からすれば異常に見えるらしい。
内閣危機管理監が置かれるようになったのは、一九九八年からになる。だから、まだ歴任者はそれほど多くない。警察官僚OBが任命されるのは、その職務上、必然といえるだろう。そして、ほとんどが警視総監経験者だった。
辻本は、総監にはなっていない。そのかわり、警察庁警備局長、内閣情報官という経歴がある。いわゆる《公安色》の強い人選といえた。
本来、国防に関する事態には、危機管理監はたずさわらない。今回の件は、テロであり誘拐事件であるから、たしかに辻本の役目である。が、首相誘拐となってくると、それは国防に関わるものだ。その場合、総理大臣が中心となって……それができないために、こうして辻本が中心となっている。官房長官も自分でリーダーシップをとることを好まない「ことなかれ主義」の政治家だった。すべてを辻本に押しつけた。
好意的な見方をすれば、辻本の《公安色》に期待がかかっているのだ。
部屋には辻本のほかに、安全保障・危機管理担当の内閣官房副長官補が三名。警察庁からも警備局長が、防衛省からは防衛政策局長が呼ばれている。ほか、情報官、危機管理審議官、内閣情報集約センターからも担当者が数名。
「辻本さん、情報をこっちにもあげてくださいよ」
官房副長官補の林という男が、たまらずに声をあげた。
「なにか動いているようですが、こっちにも教えてください。でなければ、協力しようにもなにもできない」
「大丈夫ですよ。みなさんは、なにも心配することはありません」
辻本は、余裕の笑みさえ浮かべながら、そう言った。年齢は、五十代前半。ロマンスグレーを絵に描いたような男だった。
「どうして、あなたはそんなに平静でいられるのか!?」
べつの男が、さらなる抗議を放った。防衛政策局長だ。
「首相が誘拐されたんだぞ!」
声を荒らげて、口調も冷静さを欠いていた。
「落ち着いてください。万事うまくいっています。交渉人も、すでに確保していますから」
「交渉人といっても、ただの民間人なのだろう!?」
「高校の教諭ということです」
「なぜ犯人グループは、そんな民間人を指名してきたんだ!?」
「それはわかりません。ですが、係の者が、いまその民間人に訓練をしています」
「訓練といっても……」
その男は、続きを口にできなかった。審議官の一人だった。絶望が重くのしかかっていたのだろう。
「問題は、首相の命だけではないのだ……」
さらにべつの人間が発言した。
「《あれ》が押されたら……いや、《あれ》の存在が明るみになってしまったら……」
「担当の人間が、全力で解決に奔走しています。そんな事態にはならないでしょう」
自信たっぷりに、辻本は発言した。
部屋にいるほかのだれからも、賛同の素振りは得られなかった。
それでも、辻本の余裕の笑みが消えることはなかった。
* * *
薄暗い空間が広がっている。
夜が明けはじめているようだが、陽の光が入り込んでいるわけではなかった。いくつか点在する灯によるものだ。儚く、弱々しく、いまにも消え入りそうな……。
パイプ椅子に座る人間の数が、三。
荘厳な仏像のように並んでいる。
中央に、この国の総理大臣──真壁慎之助。
左に、銀行マンのような男。右が、運転手をしていた男だ。
みな、目隠しと口に猿ぐつわをされ、両手は後ろで縛られている。
三人の前には、ビデオカメラがセットされていた。
レンズが、冷たく三人をみつめている。
AからBへ、報告。
聖域にて、撮影を開始。プラン①ならば、いつでも実行可能。
下請けが裏切るつもりなら、考慮されたし。
以上。
* * *
BからAへ。
まだ動くべきではない。
《凡庸なる男》を待て。
プラン②になった場合、諸君らの命、申し訳なく思う。
それとも心配なのは、《凡庸なる男》のほうか?