18
「どうなっても知らんからな」
「大丈夫です。計算はあります」
総理の愚痴を相手にしながら、仙道は奥をめざした。ただし、少し進んだころには、もう方向感覚がなくなっていたから、本当に向かっている方角が奥なのかはさだかでない。というより、奥とは東西南北のいずれなのだろう。ゴールのわからない旅路のようなものだった。
ライトは気兼ねなくつけていた。ここが樹海だとわかれば、兵士たちが深追いしてこないことも、おのずと理解できる。
「ああ、こんな森のなかで尽き果てるのか。総理にまでのぼりつめた私が……」
「あきらめるのは、まだ早いですよ。そんなに悲観しないでください」
「いま悲観せずに、いつ悲観するというのだ……嘆くというのも、気力がなければできないんだ……」
陰鬱な気持ちにさせられる会話だった。
「大丈夫ですよ、たぶん。ぼくらのことを、ちゃんと監視してるはずです」
仙道は、頃合いを見計らって立ち止まった。背中に総理がぶつかった。
「急に止まるな!」
仙道は、左手に持っていたアタッシュケースを地面に置いた。木の根が這っているが、そこには下生えはなく、土が剥き出しになっていた。
「交渉しましょう」
仙道は、呼びかけた。
「なに言ってるんだ……っていうか、だれに言ってるんだ!?」
もちろん、総理にではない。
「いまも見てるんでしょう? ここなら、あの急襲してきた戦闘員たちに聞かれる心配もありません。出てきてください!」
しばし、沈黙が森を支配した。風はなく、葉擦りの音すらやんでいた。
〈なにを交渉するつもりだ?〉
女の声が、ふいに聞こえた。
「ぼくたちを助けてください」
〈おまえの命なら、すでに二度助けているはずだ〉
「今度は、ぼくと総理の二人です」
〈図々しいヤツだ〉
声は、むしろおもしろがっているように響いた。
〈その《箱》をどうするつもりだ?〉
「これは、破棄します」
〈それは、わたしが貸しているものだ〉
「こんなものは、存在しちゃいけないんだ」
〈わかってるじゃないか……そうだ。存在してはいけない〉
「やっぱり、あなたがたの目的は、それですね?」
〈……そんなことはどうでもいい。おまえの愉快さに免じて、助けてやろう。食料と車を用意してやる〉
「ありがとうございます」
〈はやまるな。ここでは渡せない。いや、食料と水なら渡せるが、車となると、ここではムリだ。とりあえず、この場で指示を待て〉
声は途切れた。
十分ほど経っても、何事もおこらなかった。しびれを切らしたように、総理の愚痴が再開した。仙道は立ったままだったが、早々に座り込んでいる。
「これを破棄するなんて、なに勝手なことを……まあ、どうせ殺されるんだから、今後のことなんてどうでもいいがな」
さらに十分。そのころには、仙道も座り込んでいた。
「嘘だったら、私はもう動けんぞ……水と食料がこなけりゃ、もうここで死ぬ!」
さらに十分。
近くで、ドサッという音がした。重いものが落下したときに発するものだ。ライトでその方角を照らす。一瞬、二人で顔を見合い、音の発生源をめざした。
大きめのバッグが落ちていた。雑に投げられたようだ。急いで開けてみた。菓子パンとペットボトルの水が入っていた。
「これは夢か……」
すぐ口にするのも忘れ、総理は感動にひたっていた。思い出したように水をがぶ飲みする。五〇〇㎖をあっというまに飲み干した。仙道も同じように、喉へ流し込んだ。一本ではたりなかった。バッグには水が十本ほど入っている。二本目の半分を飲んだところで、ようやく渇きが一息ついた。
すると、食欲が襲ってきた。菓子パンの袋を乱暴に開けて、何味だかわからないパンを頬張った。暗い場所だと味覚が鈍くなる。人間は視覚で味を判断しているのだということを経験した。食べていくにつれ、チョコパンだと気づいた。だが味など、どうでもよかった。いまのうちに食欲を満たすことを本能が求めていた。
パンも、十個ほど入っているようだ。二人それぞれが三つをたいらげ、二本目の水を飲みきったところで、食べる手が止まった。
「生き返った……」
総理が、しみじみと言った。それまで、消される殺されると嘆いていた男の姿はなかった。食欲を満たしたことで、生きる気力もわいてきたようだ。
「で、これからどうすりゃいいんだ?」
食料と水は約束どおりもらえたが、車のほうはどうなっているのだろう。
〈食事は終わったな〉
突然の声に、総理ともども、ビクッとしてしまった。知っている声でも、リラックスした状態では、そうなってしまう。
〈これから、車のところまで案内する。わたしについてこい〉
そして、足音がした。
あの女性テロリスト──《フラミンゴ》が闇から現れた。黒一色の衣装に着替えられていて、背中にバックパックをからっている。
「こ、この女は……いったい何者なんだ?」
「なに言ってるんだ? わたしたちは顔を合わせてるじゃないか」
仙道は、総理に耳打ちした。
「お婆さんだった人です」
「え!?」
総理は、ライトで女性の姿を照らした。
「おまえか……っ!」
瞬間沸騰した怒りで、つかみかかりそうになった。
「おさえてください!」
「は、はなせ! このテロリストめ! 成敗してくれるっ!」
「落ち着いてください」
「なんで、こんな極悪人に頼らなきゃならんのだ!?」
「このさい、眼をつぶってください! この人に助けてもらうしかないんです!」
その説得で、ようやく鎮まってくれた。
「くっ……政治家になって、これほどまでに屈辱を感じたことはない……」
「なにほざいてるんだい。厚顔無恥とはこのことだね。あんたのようなバカ政治家が、この世をおかしくしてるっていうのに」
フラミンゴが、火に油を注ぐようなことを……。
「な、なんだと……無礼な!」
「総理! いまは言い争ってる場合じゃありません!」
強く言い聞かせた。
「わ、わかってる……」
「じゃあ、案内しよう」
彼女につれられて、樹海のなかを歩き出した。仙道がアタッシュケースを、総理がパンと水の入ったバッグを持っている。どちらが重いかをくらべてみたら、わずかアタッシュケースのほうに軍配があがった。水を四本減らしたので、それでだいぶ軽くなったのだ。
しばらくすると、森を抜け、あの開けた場所へ出た。牛舎や寺院があるとこからは離れている。細長く開拓されているので、長いところでは端から端まで数キロにおよぶ。この地点からは、寺院近くにいる兵士たちにみつかることはないだろう。
「ここからは急ぐぞ」
フラミンゴの足が速くなった。平原を抜け、向こう側の森に入った。そこからは、逆に慎重な足取りに変わった。
「あれが?」
二〇メートルほど進んだところだった。二人の兵士が見張っている。その後ろには、なにかがあるようだ。だが、さすがにライトを向けるわけにはいかない。それがなんであるかは確認できないが、これまでの展開を読み解くと、車が隠されているようだ。
「あれを奪う」
「どうやって?」
仙道は、小声で質問した。
「息の根を止めるしかないだろう」
「ダメです……殺すなんて」
瞳で訴えかけた。
「ここは、学校じゃない。こっちの方針に合わせてもらうよ」
しかし、聞き入れてもらえなかった。
彼女は拳銃を腰のホルスターから抜くと、かまえた。銃口の先端には、消音装置がついていた。
パシュ、パシュと二回、空気を裂いた。
「ぐわ!」
二人とも肩を射抜かれた。
「なにボサッとしてるんだ。あんたのやり方を採用したんだから、あとはどうにかしてみな」
仙道は決意を固めるまえに、飛び出していた。彼女は、狙いをわざとはずしたのだ。
その気になれば、額や喉元を狙撃することもできたのだろう。
仙道は、傷をおさえてうずくまる二人に襲いかかった。一人の背後を取り、絞め技を使った。
「眠れ!」
一人の意識は飛ばしたが、もう一人がナイフを抜いたのを、絶望の眼差しで見た。急いで気絶させた男から離れたが、逆に上から組み付かれてしまった。
刃の切っ先が、顔面に迫った。
ドンッ! 鈍い音がした。
ナイフをかまえた男が、崩れ折れた。
彼女が拳銃のグリップで、兵士の後頭部を殴ったのだ。
「た、助かりました……」
「世話が焼ける」
意識を失った二人をそのままにして、彼女は車に近づいた。仙道には最初、そこに車があることがわからなかった。木の枝や草などが覆いかぶさっていたのだ。あきらかにカムフラージュされていた。
車は、数台あるようだった。そのうちの一台をあらわにして、彼女は運転席のドアを開けた。4WDタイプのゴツイ車体だ。
「乗りな」
言われるままに、仙道は運転席に乗り込んだ。総理は助手席へ。彼女は乗らないようだった。
「運転はできるな?」
「い、一応は……」
「《箱》は、おまえに託す」
「え?」
「ここまで生き残った努力賞だ。これを持っていけ」
彼女が、からっていたバックパックから、平べったいものを取り出した。
「これ……」
それは、ノートパソコンだった。
「わたしの任務だったが、おまえが引き継ぐんだ」
「任務? あなたは、何者なんですか!?」
「そんなことは、どうでもいい。いいか、パスワードを解読して、《箱》の秘密をおおやけにするんだ」
「どういうことですか!?」
「それはすなわち、《箱》を壊すのと同じことになる」
「ですから──」
「行け!」
そのとき──ライトの光芒が、幾筋も森のなかを縦横に駆けめぐった。追手だ。
「真っ直ぐ進むんだ。道がないようで、ちゃんと道になってる」
彼女の言葉の途中で、仙道はアクセルを踏み込んでいた。
眼前に迫るのは、木々の群れだ。
「ぶつかるぞ!」
総理の悲鳴にも近い声で、耳鳴りをおこした。
「え!?」
しかし、車は順調に走行を続けていた。舗装はされていないから上下に揺れはしたが、確かに道となっているようだ。真っ直ぐ、真っ直ぐ──仙道は、ハンドルを動かさないように注意した。
「おい! 後ろから来るぞ!」
ヘッドライトのまぶしさを、ルームミラーが反射していた。ハイビームにしているようだ。
バン! バン! 銃声が響きわたる。
とにかく、アクセルを目一杯踏み込んだ。
後部の窓ガラスに銃弾が当たっているようだが、罅ができるだけで割れることはなかった。防弾仕様なのだ。
速度メーターは恐ろしくて見ることができなかった。
こんな経験をしたことがある──思い出した。
森崎省吾のバイクの後ろに乗ったことがあるのだ。あれは、サーキットに応援しにいったときのことだった。レース本番ではなく、練習走行だったのだが、そのとき後ろに乗ってストレートでのスピードを体験させてもらったのだ。
想像を絶するほどの速度だった。音速を超えているのではないかと考えたほどだ。
あのときのことを思い出したら、不思議と恐怖は消えた。
また、生徒たちに助けられた。
「いいぞ! 引き離してる!」
前方に、柵のようなものが見えた。総理も気づいたようだ。
「ま、まえ!」
だが、ここでアクセルをゆるめるわけにはいかない。
覚悟を決めた。
柵にぶつかった。木製だったようで、あとかたもなく粉砕した。すると、舗装路に出た。
瞬間的に、ブレーキを踏んでいた。
危なかった。そのまま直進していたら、巨木に激突していた。
舗装路は、逃げてきた道と、ほぼ垂直に交わっていた。ハンドルを右に切って、再び走り出した。二〇〇メートルほど進んだところで、追手がついてきていないことを知った。
速度は落としたが、それでも急いでこの場から離れたかった。
樹海のなかを通っている道路を抜け、いつしか一般道に入っていた。市街地とはほど遠いが、家々や商店もみかけるようなった。車内の時計は、一時を表示していた。深夜だから、どの家も暗く、店も閉まっている。二四時間営業のコンビニやファミレスは、こんな山間部では期待できなかった。
仙道は路肩に寄り、駐車できそうなスペースに車を停めた。
「どうした? このまま逃げればいいじゃないか」
「街中が安全とはかぎりません。安心できる場所は、もうないんでしたよね?」
「……そうだったな」
仙道は、後部席に置いたノートパソコンを手に取った。開いてみる。休止状態から起動した。
「なんの画面でしょう?」
ウェブページのようだが、表示されている文字が、すべて見慣れない記号のようになっていた。文字化けしているようだ。
画面の中央に、パスワードを打ち込むようになっている。PASSWORDという文字だけが読み取れた。
画面を総理に見せた。
「パスワードを入れろってことだろ?」
「……つまり、これを解読しろってことですかね?」
彼女が言っていたことからすると、そういうことになる。だとすれば、《箱》に関係するページのはずだ。
「わからないんですか?」
「何度も言わせるな。私は、ただの政治家でしかない」
本当に何度も聞いたセリフだったから、あえて取り上げるようなこともしなかった。
これを解け、ということのようだ。
ヒントが無いから、そもそもなにを打ち込めばいいのかわからない。《箱》は、総理が所持していたものだから、とりあえず総理の名前を打ち込んでみた。
『MAKABE SHINNOSUKE』
ダメだった。姓と名を入れ替えても試した。
「そういうことじゃないんじゃないか?」
総理が、他人事のように言う。
「じゃあ、なにが正解なんですか?」
「たぶん、これは《箱》関連の秘密にアクセスできるページなんだろうから、そんな単純なものじゃないよ」
「どういう人が、アクセスするんですか?」
「この《箱》のことを知っている人のなかでも、それこそ中心にいる人物に限られる」
「総理よりも?」
「私は、下っ端もいいところだ」
口にして悲しくならないのかと、仙道は心配した。
「この計画の立案者や、システム構築した人間、まあ……そんなとこだろう」
「どういう人ですか? 防衛省とか、自衛隊の高官とか?」
「そいつらよりは、私のほうが上だ。そうだな……普段は表に出てこない。私ですら会ったこともないような御方たちだ。だが、そういう御方との使いっぱしりなら知ってる」
「だれですか?」
「辻本だ。危機管理監の」
「もしかして、どことなく人を不快にさせません? その方」
「ああ、させるさせる」
たぶん、電話に出た「上の地位に立つ者」と語った人物だ。
「その人なら、話したことがあります」
「ヤツは、公安警察出身で、こういう裏工作はお手の物だ」
腹黒いものを感じたのは、そのためか。
「その人なら、パスワードを知ってるんですね?」
* * *
AからBへ、報告。
例のものを《凡庸なる男》に渡した。
以上。
* * *
BからAへ。
プラン③の仕上げに入れ。
* * *
AからBへ、確認。
《凡庸なる男》が、プロテクトを突破したら?
* * *
BからAへ。
想定する必要はない。
だが。
もしも、そうなったら……プラン④になる。




