16
官邸対策室にかかってきた交渉人からの電話は、すぐさま最高責任者につながった。
これまでは坂巻という専任の者が担当していたが、そうもいかなくなった。元SIT隊員で人質交渉の経験もある公安部員がそうしたということは、よほどの事態とみえる。
辻本は、気を引き締めて受話器を取った。
「どうも、仙道来蔵さんですね?」
『そうです。あなたは?』
「いままでの人間よりも、上の地位に立つ者ですよ」
曖昧にしておいた。たかが民間人に名乗るほど、身分は低くない。
「で、どうしましたか?」
『《箱》を預かっています』
「箱?」
とぼけてみせた。
「なんのことですか?」
『意味がわからないのなら、それでもいいです』
「わかりませんよ」
『ぼくは、この《箱》を、どちらかに引き渡そうと思います』
「ほう」
『どうしますか? どちらがいいですか?』
「どちら、とは?」
『誘拐犯グループに渡すか、あなたたちに渡すか……いまここを占拠している兵士たちは、あなたたちが送り込んだのでしょう? でも彼らは、総理大臣を助けるためにここへ来たんじゃない。この《箱》を奪還するためだ。ちがいますか?』
「なんのことを言っているのかわかりかねます。まだわれわれは救出部隊を送ってはいない。もし問題が発生したのだとしたら、テロリスト同士で仲間割れでもしたのでしょう」
『ちがうというのなら、この《箱》をテログループに返します。ですが……こちらの要求を守ってくれるのなら、その限りではない。では──』
電話は、そこで切られた。
「どういうことですか?」
いまの会話は、全員に聞かれている。官房副長官補の林に、そう咎められた。
うるさい、と辻本は思った。なにもできない無能者どもに、なにがわかるというのか。
「由々しき事態ですな。民間人にあれのことがもれるなど……」
「心配なさらないでください。対処はしますよ」
その意味は、無能者でもわかったはずだ。だが、素知らぬふりが腹立たしい。虫けらのように踏みつぶしてやりたかった。いや、邪魔になればいつでもそうしてやるさ。
辻本は、余裕の笑みを取り戻した。
あの交渉人は、殺さなければならない。もとからそうするはずだったが、確実にそうしなければならなくなった。だが、いまではない。もう少し泳がせてからだ。そのまま溺れれば、それでよし。そうでなくても、泳ぎきるまえに死んでもらう。
御愁傷様。
もちろん、心から思っているわけではない。
せめてもの、餞だ。
なんの取り柄もない高校教師だと考えていたのに、われわれにブラフをかけてくるとは……。《御影》は、そのことを知っていたのか?
あの報告は、本当なのかもしれない。
それとも、たまたま選んだ教師が、よくやっているということなのか……。
努力賞は、あげよう。
辻本は、坂巻を呼んで耳打ちした。
「要求をのむように」
「わかりました。そのように、現場には伝えます」
* * *
十分ほど経った。
今度は、『9』に連絡を入れる。
「もしもし?」
『私だ』
「考えていただけましたか?」
『わかった。そちらの条件に従おう』
おそらく、それはこの人物の意向ではなく、政府側の責任者による判断だ。彼らと政府側との連絡方法もあるということが、これでわかった。ここの黒電話のように有線でつながっているのか、それともまったくべつの方法があるのかさだかでない。
いずれにしろ、二箇所との交渉は、ひとまず成功した。
「ありがとうございます」
『ただし、総理以外はあきらめてくれ』
それはつまり、助からなかった。もしくは動ける状態ではないということだ。
『で、どうすればいい?』
「まず部下の人たちを全員、あの寺院のような建物の前に集めてください。森のなかで捜索している人たちも」
『わかった。そうしよう。それから?』
「まずは、そこまでやってください。なにか灯をつけて、遠くからでも見えるように。それを見届けたら、次の指示を出します」
そう言って、電話を切った。
仙道は、大きなため息をついた。はたしてむこうは、言うとおりにするだろうか?
部下たちに命令を出して、それが実行されるまで、どれぐらいの時間が必要だろう?
統率がとれた部隊ならば、命令が行き届くまでは、ほんの数分あれば充分なはず。しかし物理的に移動する時間は、どんなに優秀な隊員たちであろうとかかってしまうはずだ。
無線などは使えないはずだから、森まで伝令を派遣しなければならない。テログループによる電波妨害を彼らがコントロールできるのならば、その限りではない。
どちらの想定も頭に入れ、おおよそ十分と予想をたてた。
もちろん流動的に、この予想は変化させていく。
静かに、その時を待った。
生きた心地がしなかった。いまにも扉を蹴破って、銃をかまえた特殊部隊員が突入してくるのではないか……そんな妄想が頭のなかを満たす。
いつでも外へ飛び出す準備だけは、心にしておいた。
時計はないから正確ではないが、約十分ほどが経過した。
窓の外を見た。角度的に寺院前がすべて見えるわけではないが、ある程度の面積は見通せる。投光機のようなものを使用しているのだろうか、とても明るくなっていて、多くの兵士たちが整列しているのが瞳に映った。ここよりも近づいて、ちゃんと確認することもできるが、どうせ全員集合しているのかわかりはしないのだ。行くだけ無駄だろう。
仙道は、電話をかけた。
「もしもし?」
『言われた通りにした。だが一名負傷者がいて、動かせない。さらにもう一人行方不明者がいる。君の仕業かな?』
牛舎で拘束している一人と、森で倒した一人のことだ。
「それで結構です」
隊長の問いは無視して、仙道は言った。
『次は、なにを?』
「総理大臣を解放してください」
『どうやって?』
「ただ解放してくれればいいです。総理には牛舎を抜けて、まっすぐ進むように伝えてください。もちろん、だれもついてきたらダメです。姿が見えた段階で、取引は中止です」
『……わかった。これから実行する』
「ちゃんと、ライトも持たせてください」
『言うとおりにしよう』
受話器を置いた。
仙道は、急いで外へ出た。建物の廊下やほかの部屋には、だれも潜んでいなかった。
寺院の前にいる兵士たちに見られないよう、牛舎へ入った。完全に眼が慣れているので、ライトをつける時間は最小限ですんでいた。
念のため、置いておいた短機関銃を手にした。これが発見されていないということは、拘束した兵士もみつかっていないということだ。干し草が盛り上がっていたから確認することもしなかった。つまり、牛舎のなかは調べられていない。イコール、アタッシュケースも無事なはずだ。
物陰に隠れるついでに、こちらのほうは確かめておいた。
隠れたまま、総理大臣がやってくるのを待った。五分ほどしてからだろうか、足音がした。
牛舎のなかに、何者かがやって来た。それが総理大臣なのかは、まだわからない。後ろからついてくる者はいなかった。総理に化けて、兵士の一人が来たのかもしれない──その可能性を強く頭に描いた。
しかし体型が、それはないと告げていた。
政治家にしてはやせ型だが、鍛え抜かれた兵士のものとはくらべようもないほどに、だぶついている。歩き方からも若さを感じない。
「総理ですか?」
仙道のほうから声をかけた。
「そ、そうだ」
声には聞き覚えがあった。国会中継やニュース映像で、何度も耳にしている。総理大臣──真壁慎之助は、両手をあげていた。持っていたライトが天井を照らす。
「だ、だれなんだ!?」
「ぼくは、犯人グループと交渉するために来た人間です」
物陰から出て、総理の前に立った。総理のほうは、仙道の姿を初めて眼にしたはずだから、警戒心をまったくゆるめた様子はない。
「SITの交渉人か!? それともSATか」
「どちらでもありません」
「どこの所属だ? 刑事部か!? 公安か!? サッチョウか!?」
「ぼくは、ただの一般人です」
「はぁ!?」
総理の眼が見開かれた。女性人気も高い政治家だが、国会答弁でこんな慌てた表情などしたことはないだろう。
「どういうことなんだ!?」
「いまは時間がありません。このまま、ここを抜けてまっすぐ進んでください。しばらくなにもない平原が続いてます。その途中で立ち止まって待っていてください。ライトは消して」
「そ、そんな……」
「いいですか?」
「き、きみ!?」
「ぼくには、まだやることが残っています」
「ま、待ちたまえ!」
総理の声を背中に浴びながら、黒電話へもどっていった。
「もしもし?」
『総理を解放したぞ』
「確認しました」
『ならば、次はそちらの番だ。《箱》を渡してもらおう』
「まだ渡せません。こちらの安全を保証してくれなければ」
『いい加減にしたまえ。こちらは最大限にそちらの要求をのんでいる』
「あと一つだけです」
『……わかった。なんだ?』
「表にいる部下の人たちを、全員、寺院のなかに入れてください」
『本当に、最後の要求なんだな?』
「もちろんです」
『わかった』
「では、また十分後に連絡します」
これは、賭けだった。
仙道は一度、深呼吸をして、走り出した。部屋の扉を開けて、一目散に廊下を進んだ。あとは、時間との勝負だ。十分も待つつもりは、むこうにはない。
そして、仙道にもなかった。
牛舎のなかへ急ぎ、アタッシュケースを手に取ると、闇のなかを駆け抜けた。
いまのところ、追手の気配はない。むこうは、仙道が彼らのことを信じて、十分後に連絡してくるものと考えるだろう。だが、彼らに約束を守るつもりはない。それまでに包囲を終え、電話をかけている最中にでも突入してきたはずだ。
右手にアタッシュケース、左手に短機関銃を持っていた。走りづらいから銃は捨てた。拳銃はホルスターにもどしてある。武器は一つあれば充分だろう。
かわりにライトをかまえた。
光のなかに、黒い塊が見えた。
「総理ですか!?」
「そ、そうだ!」
「いっしょに来てください、走れますか!?」
全速力で駆けるのは難しいようだった。高齢というほど年老いていないが、それでも普段走ることなどないだろう。それに、誘拐されてから食事や飲み物なども満足にあたえられていないかもしれない。疲労も大きいはずだ。
仕方なく、ゆっくりと……それでも歩きよりは速く、闇のなかを進んだ。
「ど、どこまで行くんだ」
「とにかく、森のなかまで」
「森なら、もっと近くからでも入れるだろう!?」
「いいから、来てください!」
あの巨木の場所まで行きたいから、少し遠くまで平原を進まなくてはならない。そうでなくては、目印がわからなくなる。
後ろからいつ追いつかれるのか、焦りながらの行進だった。ライトの光のなかに、落ちていた枝でつくった道標が見て取れた。仙道自身が置いたものだ。
森のなかに入ると、少し安堵感がわいた。
「こ、これからどうする!?」
「とくになにも……」
策などない、とは続けられなかった。だが言葉にしなくとも、総理にも思いが伝染したようだ。
「お、応援は来ないのか!?」
「……来ません。ぼくは政府の人間でもないし、警察官でもありません」
「じゃあ、なんなんだ!? そうか、外務省か! 外務省にも人質交渉をする人間がいただろう!?」
「ぼくにはわかりません。公務員は公務員ですけど、もっと平凡な職業です。さっきも言ったように、ただの一般人なんです」
「嘘は言わんでくれ! いったい、何者なんだ!?」
「高校の教師です」
きっぱりと答えた。
ライトで照らさなくても、総理の顔が絶望で埋めつくされたのがわかった。
「どうしてだ!? どうして、そんなやつが来た!? 人材ならいるだろう!?」
「ぼくに言われても困ります。ぼくだって、無理やりつれてこられたんですから」
「……なんてこった! 一国の首相がこんなめに……」
いまにも泣きだしてしまいそうな声になっていた。
本当に泣きたいのは、ただの一般人でこんなことに巻き込まれた自分のほうだ──仙道は、あきらめにも似た感情のまま思った。
「最初にあなたを拉致した人間は、テログループなんですよね?」
「あ? 私を誘拐しようなんて、なんであろうと、まともな人間じゃないね!」
「でも、そのテログループを蹴散らしたのも、味方じゃなかったですよね?」
「あいつらも、テロリストだろ!? そうにきまってる!」
その言動をみるかぎり、総理にも彼らの正体はわかっていないようだった。
「SAT隊員みたいでしたけど」
「SAT!? そんなわけはない! それなら、なんで私を救出しないんだ!?」
「それと……犯人グループの装備は、自衛隊の特殊部隊だったという話もあるんですが」
「だれだ、そんないいかげんなことを言ってるのは」
「ぼくの生徒です」
「あ!? 本当に高校の教師のなのか!?」
あきれたように、総理は言った。
「その生徒に言っておけ。自衛隊の指揮権は、この内閣総理大臣にあるのだと」
つまり、指揮官たる自分を襲うわけはない、ということのようだ。
「ぼくには、自衛隊であろうと、警察の特殊部隊であろうと、テロ組織であろうと、武力を行使する集団は、みんな同じです」
「ものは考えようだな。だが、国防というものは大切なんだ」
「だから、自衛隊を積極的に起用しようとしてるんですか?」
「生徒たちが気の毒だな。こんな反日思想の不良教師が教えてるんじゃ」
その物言いに、さすがの仙道もカチンときた。
「反日って……日本をダメなほうに導いてるのは、あなたのほうじゃないですか!?」
「なんだと、一介の教師風情が! 自衛隊の存在意義をなにもわかっとらん!」
「べつに、自衛隊のすべてを否定しているわけじゃありません。ですが、最近のあなたたちの主張は、どう考えても好戦的だ」
「戦争に巻き込まれたら、自衛隊に助けてもらうことになるのだ。それを、国民総出で批判しおって! 私に言わせれば、自分の命がかわいいだけの非国民だ。この国のことなど、だれも考えてない! 国の前に個人がいるわけじゃない。市民の前に国があるんだ!」
あまりにも時代錯誤の主張に、仙道は怒りすら感じた。
「これからは生徒に、進んで自衛隊に入れ、と教えるべきだな」
「どうやら、あの噂は本当のようですね……」
「なんのことだ?」
「徴兵制を推し進めてるって」
総理は、否定しなかった。
「あなたには、子供はいますか?」
総理大臣──真壁慎之助には、二人の子供がいたはずだ。一人は政治家で、もう一人が作家をやっている。
「子供に、戦争へ行け、と命令できますか?」
「それとこれとは、話がちがう。いいかね? 君のような人間は、すぐ自衛隊と戦争を結びつけようとする。それは詭弁だね。戦争をするためのものじゃないんだ。この国を守るための存在なんだ」
「詭弁は、そっちでしょう!?」
この会話は、絶対に交わることがない。永遠に平行線をたどる。
「その、あなたの信頼している……この国を守る自衛隊は、しかしいまあなたを守ってはいません。最高指揮権を有するあなたを」
総理大臣と、こんな正面きって言い合いをしていることに不思議な因縁を感じつつも、言い負かしてやりたい衝動にかられた。
「いくら私が誘拐されたからって、自衛隊が出動なんかするわけがない。来るのは、警察だ。自衛隊が本当に出動するなんて事態は、それこそこの国が滅びるときだ」
「でも総理は、自衛隊が国内の治安維持に出動できるよう法案をすすめてるんですよね」
「あんなものはブラフだ。実際に自衛隊が戦闘をおこなうなんてことはありえんよ」
どこまでが本気で、どこまでが建前なのか判断できない。
「こんなところで言い合いをしていたら、またやつらに捕まってしまう……私は逃げるぞ!」
総理は議論のぶつけあいを嫌ったかのように、そう言った。
「わかりました。とにかくいまは、身の安全を確保することを優先しましょう。ですが、一つ聞きたいことがあります」
「なんだね?」
「これは、なんなんですか?」
総理に見えるように、アタッシュケースにライトを向けた。
「それか……それもブラフだよ。この世でもっとも効果的な」
「?」
「それ以上は言えん。国家機密だ。そんなことより、これからのことを考えてくれ……こんな森のなかでどうするんだ」
「夜が明けるまでここに隠れて、朝になったら森を抜けましょう」
「は!? いったい、どれぐらい歩けばいいんだ!?」
「わかりません……」
「私はいやだぞ! いますぐ助けを呼んでくれ!」
「でも、ここがどこなのかよくわかりません……むかし宗教団体があった場所ということ以外……」
「宗教団体?」
「あなたも知らないんですか?」
「よくわからんね。私は、ただの総理大臣なんだから」
その言葉には、深い皮肉がふくまれているようだった。




